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2011/01/10 (Mon) グループはすべての始まり
それでは第2章に入ろうと思います。
この章に書いてある事をいかにまとめようかと少し考えていたのですが、
そんなことは、無理そうなので、思うことがある部分について
少しずつ買いて行こうと思います。

まずこの章の初めに、なにげなくてはありますが、
グルジェフは非常に重要なことを語っております。

曰く、「グループはすべての始まりだ。一人の人間だけでは何もできず、
何一つ得る事はできない。人々が集まれば、一人では決してできないことができるのだ」

これが重要だと感じるのは、とかく道を求めるような人間は
内向的な傾向にあることが多く、
厭世的、また人間嫌いであることが多いと思いのですが、
グルジェフはここではっきりと、他人と共にワークをしなくては
何も得る事はできないと話しているのです。

そしてこれは真実です。

そもそもこの本の導入として1、2章では何度も「スクール」「グループ」
という概念、またそういったグループをグルジェフがどのように考え、
どのようにしてそれを作っていったのかが、詳しく書かれています。


まず2つ前の記事でも書いたように、
人が道を求めようと考える時には、
ある種の「覚悟」というものが不可欠になります。
それはどのようなことでも犠牲にできる覚悟を要求します。
あらゆる快適さや、快楽、自分が人生で今までに固執して来た何か、
そういった自分に最も大切なものをも犠牲にしてもかまわない
という覚悟が決まるようになると、
いろいろなことが変化をし始める筈です。
それはのちのちに出てくる振動の法則からいっても明らかなことなのです。
簡単に説明するならば、
宇宙に存在する森羅万象はすべて振動によって成り立っているので、
それぞれの振動には必ず共鳴という現象がついてまわる。
なので、本当に何かを探そうという振動が有る場合は
あらゆる種類の奇跡、偶然を通して
何かが見つかってしまうということなんです。
ただし、道を見つけるという人生に関わる大事件は、
ひと一人の力ではどうしようもないと言えるでしょう。
そこでグループが必要になるわけです。
そのような種類の振動を放つ人間には、
振動の法則を通して、当然似たようなことを求める
人間を引き寄せます。
そしてその2人が目的を共有し、そこに向かって動き出す時には、
その振動はある種別の、さらに大きな振動になります。
それは互いの振動に刺激されることで、
振動が弱まる事も防ぐことになり、
その振動がさらなる道を求める人間を引き寄せます。
このようにして、ある種の目的をもったグループを形成することができるのです。

このようなグループを形成した場合、それが例えば5人であるなら
すでにそのグループ全体の持つ振動は1人の覚悟が決まった人間の
ものと比べておそらく10倍、20倍のものがあるので、
(これは私の個人的な感覚で言っているだけなのですが)
その場合にはある種の指導者を見つけることすら可能になるでしょう。

続いてスクールの話を次回も書こうと思います。
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2010/12/15 (Wed) 第一章「機械」
ウスペンスキーはグルジェフと出会ってから初期の会話のなかで
いろいろと、度肝を抜かれること、不可解に思うこと、
感情的に嫌な思いをするなどの体験します。
そのような体験を含めて一章、二章は書かれていますが、
その中でも非常に重要だと思われるのが「人間の機械化」の話です。

もともと人間が「機械」であるという議論は
当時の知識人の中では普通にされていた議論のようで、
(まだニーチェが死んで間もない頃、マックス・ウェーバーもカール・マルクスも活躍していた当時の知識人たちは現在のそれよりもずっとラジカルなのです)
ウスペンスキーはグルジェフのこの理論に対してこのようにコメントしています。

「厳密に科学的な見地からすれば、すべての人間は外的な影響に支配されている機械です。ただ問題は科学的な観点を完全に受け入れることができるかどうかです。」

このように言ったウスペンスキーに対してグルジェフは、
科学的などということはどうでもいい。君はそのことを理解していない。
誰一人として機械でない人間はいない。
すべての人間が機械であるということを理解しないさいと話をしています。

それに対してウスペンスキーは
このように明白で議論の余地のないものに
グルジェフが、それほどにこだわる事を奇妙に感じ、
嫌な思いがしたとここに書いております。

当然誰もが、あなたは機械であり、
一切のことを考え、選択する可能性も持っていないし、
すべてのことをは起こっているだけだと言われれば嫌な思いがするし、
そのような考えを受け入れたいとは思わないわけです。

しかし、グルジェフがこの事にこだわり、
完全に理解することを求めるのにはわけがあって、
それは、このことを無慈悲にも完全に受け入れて初めて、
人間は本当に意志を持つ可能性を持てるからなのです。

このことを最低限、頭で理解するには
実は先ほど引用した、ウスペンスキーの言葉を
端的に理解すればそれで十分だと考えます。

それは我々が外的な影響に支配されているということで、
例えば我々は他人の視線や、他人が自分にとる態度に
非常に敏感で、心はそれに反応する形で発動し、
それをコントロールすることはほぼ不可能です。
理性を働かせて、反応して行動に起こさない事は可能でも、
感情が反応する方向を変更する事は不可能だと言い切れるでしょう。
しかしそういった抵抗もごくたまに意識があった時のみのもので、
通常の生活のほとんどすべての時間は、
外で起こる事、気候、温度の変化、天気、他人の数、質、
情報にことごとく自動的に反応して生き続けているわけです。

そしてその反応する方向性も自分の選択ではあり得ず、
幼少時にどのような環境にいたのか、親のあり方、
また教育環境の一部分を受け入れた結果でありますし、
それらもすべて偶然を通して、心情としてたまたま形成されたものです。

そうであるから、他人を感じいいと感じる事も、嫌いだと感じる事も
完全に自動的であり、異性の好みも自分の選択ではなく、
自動的でありますから、あらゆる出会いも、いかなる人間関係も
すべて自動的に、外的影響にのみ依存する状態にあるわけです。

その状態をグルジェフは機械であると言っております。
そしてその状況にいる我々を一切の選択の可能性を奪われた
牢獄に居る状態であると形容し、
その牢獄から逃れ、自由を手に入れ、自分の意志でこの
宇宙に存在するようになることを、
「機械」から「人間」になることであると言い、
そのために人は道を見つける必要があり、
それがワークなのだと語っているわけです。

グルジェフはもっと強い言葉で、もっと大きな範囲に対して
この機械化のことを語っていますが、
それはまた本を読んでいただければと思います。

グルジェフはさらに
このことを心情で理解するのと、全身全霊で感じ、心底確信し、
決して忘れないこととは別のことだ。
とここで語っています。

私はいろいろな自己観察や外の世界の観察を通して、
そのことを「全身全霊」で感じ始めるところまでは来ていますが、
これを決して忘れないでいるということは非常に難しいことです。

それはつまり、あらゆる自己の心理的な変化を観察する時に、
またそれを通してどのようにしようかと考える時に、
いつでもそれがあらゆる偶然を通した過去の蓄積から
自動的に起こっているプロセスを観察しているに過ぎないのだ
ということをいつでも忘れずにいるという意味であって
それに対して私は、ほとんどいつでも自分に起こることに対して、
主観的で自己防衛的であり続けております。
2010/12/12 (Sun) 第1章 「確信」
まず第1章、「Gとの出会い」は
ウスペンスキーが奇跡を探し求めてエジプト、
インドなどへのかなり長い旅からロシアに戻ってくるところから始まります。
それが1914年の11月のことで、
それが第一次大戦の始まりの頃であるというところが
非常に意味深く感じられます。
その時にウスペンスキーが持っていたある「確信」というのが
非常に重要なところで、それを彼はこのように書いています。
「奇跡。私にとってはこの語はきわめてはっきりした意味を持っていた。
我々が今いるその矛盾の迷路からは、既知の、いかなる道とも違った、
全く新しい道によるのでなくては逃れることはできない。
私はすでにこの偽りの現実の向こうに、何らかの理由で我々が
そこから切り離されているもう一つの現実が存在していることは
疑いのない事実だと考えていた。」

このような確信というのが道を見いだす為の、
または道を見いだすべき時に必要な土台になるべき確信であると
私は考えるわけです。
実は私が師に出会い、ワークに取り組み始めた頃にも、
やはりそういった感覚が常にあったことを覚えています。
おそらくその感覚は師に出会う5年ほど前ぐらいには
自分の存在の一部になり初めていたと思います。
しかしその頃私が持っていたものと、
ここでウスペンスキーが「確信」という言葉を使って
表現しているものとはまったく別の次元のものであると考えます。
というのも、そういった「感覚」を持つというのは
ある種の敏感さ、性向によればあり得る話ですが、
それが「確信」として自分の中に感じられる為には、
少なくとも現在の自分の状態を見抜く力と、
社会に起こっている事を完全に観察する力を持っていて、
それによって現在の世界が、時代が、どのように成り立ち、
動いているのかがわからなくては、不可能であると思うからです。

そして再びこの本を開いてみて、はっと思ったことは、
今の自分には、このウスペンスキーの「確信」の意味がわかる。
また、この確信を持てるほどのウスペンスキーの凄さというものが
わかると感じたことです。

それがそういった種類の「確信」であって初めて 
人は本気で道を見いだそうとする。
何をかなぐり捨てても、いかなる犠牲を払ってでも
道を見いだそうという行動にでることができるわけです。

事実こういったことを「確信」として持つためには、
非常に多くの「現実的」な問題に突き当たらなくてはならないと思います。
我々が共有している「現実世界」はこういった「確信」とは非常にかけ離れた所に有ります。
しかし、その現実世界が何に依って形成されているのか、
人々が目指しているものがなんなのか、そして生命の意味する事がなんなのか
という問題まで掘り起こしていくと、その「現実世界」がまったく意味をなしていないこと、
そのままではどこにも進む事ができないことを確信するにいたるのだと思います。

ウスペンスキーがすべてをかなぐり捨てて「道」を見いだそうとしたこの頃が
第一次大戦の始まりの時期だったということが興味深いと書いたのはそのためです。

実は現在の社会の状況を私はこの第一次大戦の始まりの頃とパラレルに見ていますが、
このような混乱期を迎えて初めて、人はこの種のことに完全に真剣になることができるのだと思うのです。
それは結局我々の共有するこの「現実世界」の空想性や無意味さが
明らかに見えてくるのがこの混乱期であるからだと思います。

これは後ほど出てくる「知識の物質性」という概念とも関わってくることですが、
それはまた第2章でそれが出て来た時に書こうと思います。
2010/12/09 (Thu) 「奇跡を求めて」再開
ご無沙汰しておりました。
またこのブログを書く日がくることになるとは
あまり考えていなかったのですが、
ブログを閉じなくて正解だったかもしれません。

そうこうする間に私も35歳になっておりまして、
若者でなくなった分いろいろなことに真剣になっているかもしれません。
何か時が来た、という感覚があり、
久しぶりにウスペンスキーの「奇跡を求めて」を手に取ってみると、
以前とはまったく違うように理解できるのを発見したのです。

そういうわけでこのブログの初心に返って、
また「奇跡を求めて」を順番に読みながら
それを解説しつつ、自分のワークを進めてみようと思ったわけです。
そもそも私が最初に「師」とともにワークを始めた時に
一緒に読んだのがこの本でだったので、
この本は自分にとって特別な意味をもった本になっているのです。
また、師から学んできたワークに対する厳しさや
態度もこの本の持っている厳しさに共通するものがありますし、
何よりも師とのワークを通しているので、
私が一番理解をしている本であるということもあるのです。
2010/06/25 (Fri) #
本当にずいぶん長い事ご無沙汰をしておりました。
ここしばらくは、正直言ってグルジェフのことを特に考えたりとかはしておりませんでした。
とはいえ、私にとってグルジェフの理論、宇宙観は
世界(グルジェフの言葉を使えば内なるものと外なるものを含めて)を
認識する上での、基本理念となっておりますので、
ある意味では、こうしている間もグルジェフを基本にいろいろなものを
つぶさに観察していたとも言えるかもしれません。
それによくよく考えてみると、以前の生活に比べたら
今でよりは少しはましにパートクドルグ義務を遂行してるかもしれないと思います。
まあ、僕もだんだんに年をとって、いろいろな意味で責任を果たさなくてはならない
ことが増えて来たということなのかもしれません。

それにしてもこうやって、久しぶりにブログを書いてみると、
ちょうど去年の今頃、自分のあまりも深い睡眠状態に気付いて、
あの頃のような偉そうな顔をしてブログを書いているような場合じゃないと、
突然、断崖絶壁にたたされたような気持ちになったのを懐かしく思い出します。

今から振り返ってみると、あれから後、少しはその眠りの状態を
認識することができるようになり、つまりは少しはその眠りから覚めてきたのかもしれません。
とはいえ、まだまだ眠りから本当に覚めているわけでは当然ありませんし、
この二元論の世界から、善悪の彼岸にまで到達するには、
まだまだとんでもなく遠いような気もするし、
実はもう少しでそこにたどり着くのかという気もしないでもない、
そんな風に感じているところです。



さて、今回突然ブログを書いてみようという気になったのは、
「振動の法則」今、流行のいい方で言えば、
波動の法則というものについて書きたかったからです。
以前、どなたかのコメントで、僕の周りにわりと多くの偶然の一致が起きていることから
僕の、振動のレベルが高いのではないかという指摘をいただいたことがありました。
その時には「宇宙のあらゆるものが例外なく振動を持っていて、
また例外なくそれらが共鳴しあっているのだから
僕だけ、とか特定の人間だけに偶然の一致が起こっているわけではないと思います。
ただ本人がそれを認識するか、しないかの差があるだけなのではないでしょうか。」
というような返事をしたんです。

でも、最近あまりにもあからさまに、また直接的に
自分が考えたことが引き寄せたとしか思えない事が頻繁に起こるので、
やはり、少なくとも今の自分の振動は、以前の自分の振動よりも
強く外の世界に影響を与えていて、多分距離的にも結構飛んでいるのではないかと
思われるのようになってきたのです。

具体的には例を挙げませんが、
日常的に自分が望んでいたようなことが起こったり、
また自分の気分次第であからさまに人の態度が変化したり、
たまたまある人のことを考えたら次の日にその人から数ヶ月ぶりに連絡があったりとか
そういう風に、最近どうも自分の内なる世界で起こる事が
あまりにも早く、まるで鏡に映るかのように同時的に外の世界に反影されている
としか思えず、それも偶然の一致というような穏やかなものだけでなく、
無理矢理にそうならされたのかと思うほど直接的なことも起こるので、
これはやはり、何にしても振動は飛びやすい時と飛びにくい時があるのだなぁと
考えるようになったのでした。

当然それらは、意図的に引き寄せるような念力のたぐいのものではなく、
無意識的に自分の中で起こっていることが、
振動として外に影響を与えているようなことを
自分が認識しているというだけなので、
何か自分の願望を実現できる、
つまり「為す事ができる」というのとは全然違う事なのですが、
どうして振動がより外に伝わりやすくなったのか、
ということに関してはなんとなくですが思う事があります。

以前の自分と比べて今は何が違うのということですが、
それは、なんとなく、自分の中にある振動を邪魔するようなものが
減ってきているのではないかと思われるのです。
というのは、ここ一年での大きな差は、
今の自分は自分自身のことを受け入れることができる気がする。
自分を何か良きものとして、調子にのるわけでもなく、
何か悪しき者として懲罰を与えるわけでもなく、
自分はただ自分として容認する、
また、それを他人に隠さないようなそんな傾向が最近はあるような
気がしているのです。

ああ、でもそこに尽きるような気がします。
多分そうすると、自分の振動が阻害されることなく
外に伝わっていくのではないでしょうか。

そうするとやはり、自分が考えるような事、
また、ただ自分がいかに存在するのかという事に関して、
責任をもたなくてはならないと感じます。
今では自分個人の夢の世界と、
他人と共有している夢の世界、つまり現実世界が
はっきりとつながってると感じるので、
自分の夢の世界にも責任が生じているような気がするのです。

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はせいん

Author:はせいん
このブログはある程度グルジェフを知っている方を対象に書かれています。解りづらいことがある場合は、このプログの初期の記事を読むか、ウスペンキーの「奇跡を求めて」など、一般的なグルジェフの入門書から読まれることをお勧めします。

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