2008/07/26 (Sat) 犬氏と主人
グルジェフ氏が我々現代に生きる人間の持っている「動作・本能センター」を「主人のいない野良犬」と例えていたという話を聞いたことがあります。野良犬はオオカミとは違い、本来主人がいなくては力が発揮できない動物のようです。彼らはおなかが空いては街を徘徊し、食べ物を探し、食べ、することもないので、道ばたに伏せて時間をつぶし、寝て、一日にほんの数回、なぜ自分には主人がいないのだろうかと自問し、ただ寂しく時間をつぶしつづけているというのです。彼らは非常に高い能力を持っているにもかかわらず、それをいかにして使えばいいのかもわからず、その能力を保つ為に何をしたらいいのかも知らず、だからもちろんその能力は決定的に衰えていて、また能力を使うことの喜びも体験したことがない、非常に悲しい存在だというのです。
最近の自己観察で、この犬氏のことをよりよく理解するようになりました。実際、グルジェフの言うように、我々のセンターはまるでそれぞれ別個の人格があるかのように機能しているようです。そしてこの犬氏(動作・本能センター)と、僕の意識(思考センター)と、本当の僕自身(感情センター)はそれぞれに必要としているものが全然違うんですね。我々はこのことをよく理解できないために、多くの場合、突然あるセンターをオーバーワークさせてしまったり、またあるセンターを全く使わせずにいることで使い物にならないまでに衰えさせてしまったり、あるセンターはしっかり働いたほうがむしろ力を得るような場合にも、別のセンターが疲れていることで、「自分は疲れている」と単純に思い込み、甘やかすように休ませてしまったりと、めちゃくちゃなことをしているようです。
我々現代人の現実は常にそういう状況なので、もちろんすべてのセンターが欲求不満のような状態に陥っていて、またそれぞれのセンターがその他のセンターを観察するようなことができないために、まったく勝手に自分のしたいことをある時点で突然主張し、お互いに邪魔し合ってばかりいて、そのように邪魔ばかりされているがゆえに、さらに欲求不満がつのるという非常によくない状態にいます。
僕自身はもともと人間第1番として生まれているているので(自分でそう判断しているというだけのことですが)、僕の犬氏は本当に尊敬に値するほど、よくできた奴なのです。何よりも理解力がすごいし、柔軟性があって、どのように動いたらいいのか、いかにして力を使い、どのような時に脱力したらいいのかもよく知っている、まあ自慢の愛犬なんですね。最近はとりあえずの主人である、僕の意識(思考センター)も彼のことをよく理解するようになりましたから、彼らのコンビはちょっと注目に値するぐらいにいい関係になりつつあります。しかし僕の場合、長年甘やかし続けていたのは、実に本当の自分自身である感情センターなのでした。彼は自分が何をしたいのか、ということぐらいはわかってはいるものの、自分の力をいつ、どのように出したらいいのかがまったくわかっておりません。そしてあるときにはまるでスネるかのように、まったく力を出さなくなれば、またあるときには気が狂ったかのように攻撃的に力を発揮してしまうようなこともあり、僕たち二人(僕の意識と犬氏)が困り果ててしまうようなこともしばしば起こります。
最近こんな観察を繰り返していて、わかってきたことは、実にこの甘やかされてしまった僕自身(感情センター)が、発動する「場」というものはそれなりに予想できるということです。単純に言えば、彼は実に危機が近づくほどに、力を発揮するのです。例えばもっとも彼が休むことが出来るところというのは、自分一人になっている状態、誰にも会わないので、誰にも邪魔されず、誰にも評価されず、誰にも嫌なことをされず、誰にも嬉しいこともされない状態。この時には彼は完全な休止状態に入るようです。そして逆に彼がもっとも力を発揮するときというのは、大きなリスクが伴う場合なんです。僕と犬氏は最近そのことをよく理解して来たので、2人で、彼が降臨してくれる場所をせっせと用意するようなそんなことを繰り返しております。そんなふうにしてやると、彼も重い腰をあげて、というよりは、重かった腰なんかどこにあったのか、というような勢いでいきなり力を発揮し始めます。彼がそのことによって苦しみだすようなことも起こりますが、その苦しみを我々2人が意に介さず(それは不快の感情を表現しないというワークと関わっています)、彼が力を発揮せざるを得ないところまで引っ張っていってやると、その感情を克服することによってさらに大きな力を出すようです。

このようにして最近それなりにコンビの組み方がわかってきた我々なのですが、実に本当の問題はその先にあるのです。我々は(僕ら3人のことです)それぞれもともと持って生まれた欲求というものを持っています。そしてそれがゆえに喜び、苦しんでいる訳ですが、実は我々(僕ら3人)の持っている欲求そのものもにはまったくゴールが存在しておらず、それは実に恣意的なものなのです。つまりその欲求が実現したところで何にもならない。実際は何も起こらないわけなんですね。そこで、真の「主人」の登場が待たれる訳です。我々が本当に行きつくべき場所を知っている誰かです。それは今の取りあえずの主人である僕の意識(思考センター)ではないということだけはよくわかります。彼は(僕のことですが)、目的地を理解するような能力をもともと持ち合わせていないということは、今ならよくわかるのです。
2008/06/26 (Thu) 「拒絶」「受け入れ」

私たちは人間は内なる世界と外の世界を持っている存在、別の言い方をすれば、内なる世界と外の世界を区別して認識している存在です。それぞれの世界はくわしく研究しようと思うと、我々にわかるようなことはほとんどないといえるほどの複雑な世界です。
そんな世界を我々はあまりはっきりとしない意識で捉えていて、そのはっきりしない意識故に、我々の知っている実在というのは実際のところ、あまりはっきりとしたものではありません。つまりは我々が内外の世界に「存在している」と確信しているものの多くはかなりあやふやなものであるということです。
さて、その我々のぼんやりした意識ですが、我々は内外どの世界にあるものもすべて意識的に、またほとんどは無意識の範囲内で「許容」か「拒絶」のどちらかの態度をとるようにできています。
例えば内なる世界のものでいえば、自分の精神的傾向、おおらかさ、大胆さ、勤勉さ、知的欲求などの傾向はたいがい自らに「許容」するものですが、意地悪さ、恨みっぽさ、だらしなさ、などは見ないようにする、まるで無きものかのように扱う、つまり自らに「拒絶」することが多くなります。自分の行動的習慣についても同じことが言えますし、思考的習慣についても同じでしょう。それから他人の態度、言葉、傾向などもすべてに対してほぼ自動的に「許容・受け入れ」か「拒絶」のどちらかの態度を瞬時に決めます。社会で起こること、自分のおかれている状況に対してももちろん同じです。これはこうして挙げていけばきりのないことなのですが、問題はそれほど単純なことでもありません。それは我々の意識できない何かに対してもすべて「許容」か「拒絶」のどちらかの態度をいつも決めているからです。
さて、最近の自己観察からそんなことに注目し始めたのですが、実はこれを観察し続けてみると、この決定は驚くほどに自動的に起こっているのだということ、そしてその自動的な決定は驚くほど恣意的で、まったく統制がとれておらず、自分のなんらかの目的に対して矛盾しているものばかりであるということです。

まず最初の恐るべき事実として挙げられるのは、僕は自分の内なる世界、つまりは自分自身のこと、また自分の持っているいろいろな傾向のほとんどすべてを「拒絶」して生きているのだということです。まず自分の持っている向上心そのものがそこに根ざしていますし、つまりは人生においてめざしているものも、自己のうちなる世界を拒絶するところから始まっているということです。そしてもちろんグルジェフに関すること、秘教的な世界の中に何かを求め、自己を変革しようという意思もこの拒絶から来ているわけです。
外の世界を見れば、社会に起こること、起こっていること、他人の行動、すべてにおいてこの拒絶が働いています。こうあってはいけない、こうであるべきであるといったこと、そのアイディアそのものがあやふやであるにも関わらず、ここには厳然とした拒絶があるのです。そして個人的に接する人間に対する態度も、おそらくは限られた非常に親しい友人をのぞいては、あらゆるところにこの拒絶が働いているでしょう。
そうして挙げていってわかるのは、ほとんどすべての存在、現象に対して自己が自動的にとるのは「受容」ではなくて「拒絶」であるということです。そしてその自動的な決定である「拒絶」は意思の力で容易に変えられるものではありません。というよりはそのうちの一つだけを挙げたとしても、よほどの努力をしない限り変えることはできません。

その事実をもってもう一度現実を眺めてみますと、実はこの世に拒絶するべきものなどほとんどないのだということが言えてしまうと思います。こうして見て行くと、この「拒絶」にわれわれの自動性の多くが依っているということが見えて来ます。



2008/05/17 (Sat) パートクドルグと自己認識
どうもここに書いて行く必要もないのかと思わなくもないのですが、習慣に従って最近グルジェフのワークについて感じていることを書いてみようと思います。
今年に入ってからこのブログで宣言したように、本を読んだりしてワークについて研究を進める必要性を感じなくなってからここまで、パートクドルグ義務を中心として、ワーク(そう呼ぶ事が許されるなら)を続けて来た訳ですが、振り返ってみるとだいたい月に1度ぐらいずつ「痛み」という感覚を自覚する周期が来ているようです。正直な感想を言えば、まあ月に一度自分に戻る機会があるならまあまあかなと思うわけですが、一応パートクドルカー(造語ですw)として欲を言えば、2週に一回ほどとは言わなくても、せめて3週間に一回ぐらいは、「真の痛みに近い痛み」を自己に覚醒された状態で味わう事ができるなら、俺もまあまあじゃんなんて思えるのかもしれませんw。

ちょうど先週にもその「痛み」をしっかりと味わえるような期間がありました。そこでたびたび考えたのは、こういう痛みがある時以外の自分は、どうしてこうもすっぱりと自分の存在について忘れてしまっていられるのだろうということです。この「痛み」の状態ではめちゃめちゃに矛盾した自己というのがかなり見えていて、その自分という世界の現実と、外の世界の現実を同時に見る事で非常に「苦しい」と思うことができるわけですが、だいたい非常に長くても2日もすれば、通常の自分の意識に戻っていて、「痛み」を感じていた時には手に取るように、現実のものとして自分の中にあるいろいろな矛盾を見る事ができたのに、この(今もそうですが)通常の状態では、どこをどう探そうとしてもそういった矛盾を自己内に見つける事ができなくなっていて、何もかもがのほほんと、楽しく過ぎ去っていってしまうのですから驚きです。前々回これがあった時には、その「痛み」の感覚はなんの前触れもなく(すくなくとも僕の論理的な思考ではその直接的な原因をみつけることはできませんでした)やってきて、2時間ほどで消えて行ってしまったのでした。その時のことをはっきりと覚えているのは、そのちょっとおかしな意識状態というか覚醒状態というかそういう状態で(その感覚は意識や感情の統制がとれていないという意味で「狂う」ということの意味がよくわかるような状態でした)、思っていることをパソコンに書き出して、ちょうど今僕が書いたように、この感覚もすぐになくなってしまうだろうなと思いながら、シャワーに入り、トイレからでてきたら、すでに通常の状態にもどっていて、まったくいくらその感覚を思い起こそうと思っても、ただの感傷のようにしか思い出せなくなっていたのです。

さて、こういう状況が、ある個人によってポジティブであるのかネガティブであるのかということは、人によるだろうし、感じ方にもよるのでしょうからここでは議論をしないことにしまして、いかにして呼び起こしたのかということに話を移そうと思います。
それは僕の場合はやはりパートクドルグ義務なのでした。自己観察というのは、自己想起と違って意識して繰り返すことによってわりと自然に、かなり細かい瞬間にわたって自分の心理の流れを追って行けるようにはなれると思うのですが、そういう観察力を前提としていうと、意図的に他人との不快な状況を受け入れることをある程度の頻度で繰り返すことによって、他人との関係、また出来事が鏡のように働いて、普段の自己観察では見えていない自分の別の部分が、非常に強烈な印象とともに知覚されるようなことが起こってくるわけです。なぜそれが強烈な印象を伴っているかというと、もちろんそれが我々が一番とらわれている「現実的な問題」に直結していて、また他人との関係性のなかに刻まれているからで、それがなぜある程度の頻度を必要とするのかというと、ある程度の頻度でそういうことが起こせるなら、数日のうちに非常に強い印象で自分の隠された、また相矛盾する傾向を4つほど、徹底的に見つめさせられるようなことも起こりえるからです。4つというのは大げさですが、たったの2つでも、それが相矛盾する自分の傾向であって、それを完全に直視するようなことが可能になるのなら、そこに恐ろしいほどの感情の摩擦を起こす事が可能です。それはおそらく、それが見えている期間だけはバファーが働かなくなっているというこのなのかもしれません。しかし、さきほども書いたように、バファーの力というのは本当に強い物で、けっこう時間をおかずに(たいていは寝て起きると)そういった自己矛盾の認識は、現実感をもっては感じられなくなってしまうのです。


おかしな感傷も、主観的で習慣的な感情の働きもふくまないような、非常に大きい感情の摩擦を起こす必要性を感じている人にとっては、こういった行為は奇跡のようなすばらしい事に感じられると思います。というのも、我々の生は常に幸福の追求であるなかで、このパートクドルグ的行為は、生の中で忌み嫌われる存在「不幸」だとか「苦しみ」、「不快」などを栄養にして、何にも換える事のできない自分の貴重な宝にしてしまうことなのですから。
しかし、僕の周りの友人などで、苦しんでいる人を見た時、どうにかその状況を解決させてあげたいと思った時、彼らにはこういったパートクドルグ義務を行う事はまったくできないのだということを非常にはっきりと理解させられるのです。僕はどういう風にしてこういったことができるようになってしまったのか、自分ではまったくわからないのですが、こういった摩擦を受け入れることができるようになるには、少なくともある程度の自己と世界、宇宙の関係の実践的な理解、生の根源的な意味をおぼろげながら感じ取るような理性と訓練された自己観察の能力を持っていることは必要であるかなぁと思われます。ただ、これらを持っていたとしてもできないという場合もあるかもしれませんし、なんとも言い切ることはできないように思います。

さて、長くはなったのですが、次回にとか言うとまた結局書かないことになってしまうので今書いてしまいますが、こうした行為を繰り返すことで(まだ半年は経っていないと思いますが)だんだんに認識するようになったのは、結局自分がどうでもいいほどに下らない存在であるということでした。今まですべての優先順位の無条件の第一位としてすべてのエネルギーと注入して大切にしてきた「自分」というものが、実に(不思議なことですが)自分にとってちっとも大切なものではなかったということをたびたび思わされ、だんだんに本当に気付かされつつあるように感じているところです。まったく飾らずにここに書いてしまうと、今まで大切にしていた自分というのは、本当に心底堕落していて、甘やかされていて、何一つ自分から行為する力を持っていない非常に弱々しい存在のまわりに、おかしいぐらい頑丈な自尊心、虚栄心、自己正当化と、また自分こそ世界において非常に重要な存在でるはずだと言うわけのわからない思い込みを鎧のようにして取り囲んだような存在だったのでした。ごくごく最近そんな自己像をみることになってびっくりしたのと同時に、多いに笑ってしまったのでした(こういう自己像を見たときは、自己矛盾の中にいるときと違って痛みの感覚はまったくありませんでした)。どうしてこんな馬鹿げたことを長年信じていられたのだろう??といったわけですw。そんな無価値の固まりに巨大な要塞のように完全武装したような自分が(つまり存在していたのは要塞だけだったわけですw)、これもおかしなことに、長年にわたって自分だけじゃなく、他人をも完全にだまし続けてきたわけです。おそらく僕の知人の多くが僕の事を、非常に勤勉で、頭も良く、自分に厳しく、それでいて夢のある人間で、それに向かって努力するのをおしまないような人間に思っているように思いますが、それは本当に自分が生きて行く中で見つけて、自分で踊り続けていたダンスとでも言いますか、単なるこの社会に生きて行くためのポーズだったのでした。そして実際に僕はまったくそんな人間ではいのだと今ははっきりと言う事ができます。これも我々の現実の恐ろしいほどの「空想性」の一部だと思います。そんな風にして我々は完全に空想の中に生きていて、それに「現実」という名前を平気で与えられるようなのです。

こうして、自分の無価値さのようなものを普通の事実のようにしてみるような状況には同時に、いろいろな出来事をとおして起こっている事が完全にすべて自分の責任で起こっているのだということを認識させるような機能も含んでいるようでした。自分の責任というのはあまりいい言い方ではないかもしれません。起こっていることはどんなことも自分の傾向が引き寄せていることで、不快な事や難しい状況も、自分の弱さが引き寄せている限りは、自分のせいでしかあらゆることは起こっていないというふうに感じているわけです。
今、僕がこういうパートクドルグ的な行為をもっと多く起こして、自分に蓄積しなくてはならないと考えるのは、いままで守り続けて来た自分の弱さを外にさらすことでニュートラルな位置に戻してやることと、今の自分が完膚無きままに叩きのめされて、完全にどうでもいいと思ってしまえる状況になるのを待っているのだと思います。今になってようやく秘教的に言う「死ぬ覚悟ができる」(再生にいたるという意味です)というのが、どういうことなのか、それがどこにありそうなのかということがわかってきたように感じるからです。今すでに起こっている感情。自己という物はなんらかの存在ではなく、関係性の中での存在なのだということが、完全に理解できるときがくるとすれば、それがおそらく自分を手放せるときで、グルジェフ氏が言う言葉で言えば、永遠に向かって流れる川、現在我々がいる川とはまったく違う法則に従って流れている川に身を委ねるときなのだという気がするからです。

2008/04/01 (Tue) 欲求
ここのところ欲求について考えることが多くなりました。
欲求という言葉について、まずは少し定義し直さないと話は難しいですが、
我々が常に欲求と呼んでいるものでは、実際に我々の全存在の中にある「欲求」そのものを指し示すことはできないと考えております。
というのも、このブログでは再三話をしてきましたが、我々は完全に分断された状態で生きており、統一した自己というのを持ってはおりません。そして、我々の意識の状態があまりにもあやふやであるため、また一日のうちでも「意識がある」と言える状態がほんの短時間しかないため、本来は自分の欲求に気付くことすらできていないわけです。
それでも我々がなんとなくこれが欲しい、これがしたいと思っているものがあるのは、我々が持っている多くの自己の中の、単に習慣的に欲求に関して意識されている部分(それがどこかは個人によりますが)が、なんとなく習慣的に欲している欲求にすぎないと言い切ってしまうことができるでしょう。

では、本当の欲求はどこにあるのか、という話になりますが、これは意外と簡単に言えてしまうことがあります。今現実にやっていることが、その人の本当にしたいことなのだと、かつて僕の師だった人はよく判断しておりました。
グルジェフ自身もそのように考えていたようなことを「奇跡を求めて」の前半部分の、ワークが始まる経緯、ペテルスブルグのグループのできあがる経緯を見るとわかるように思います。
グルジェフはペテルスブルグのグループが始まった当初、本当に自分のシステムを学びたい者を選り分けるのに、講義の時間、場所などをぎりぎりまで誰にも話さず、ほんの数時間前になってから、ようやく連絡するように指示していました。そのおかげでほとんど講義に来れない人間も当然多くいました。ウスペンスキーがそのことについて、「それでは郊外に住んでいる連中はほとんど参加することは不可能です」と話すと、グルジェフはこう答えたようです。「来れない人間は放っておいてもかまわない。本当に講義が聞きたい人間は、必要な時間にかならず電話が鳴るのを待ち構えているものだ」
そして事実、どんな条件をつけても、中心になるメンバーはほとんど必ずそこに集まる事ができたようです。

話を戻します。つまりは「ワークがしたいし、常に意識を保ちたいと思っているが、仕事が忙しくて、毎日へとへとに疲れてしまってどうもワークに身が入らない」というような種類のいい訳は一切通用しないということです。その人がワークをしないのは、忙しいからではなく「休みたいから」なのです。
これはもちろんワークに限ったことではなくすべてのことに対して言える事です。仕事についても同じですし、学生なら、また何かを学びたいなら、勉強についても同じです。そしてダイエットに失敗するのも、その人が痩せたくないから、逆に言えば食べたいからであり、だらだら生活したいからですし、タバコをやめられないのも、本当はタバコをやめたくないからだと言ってしまうことができます。

これは非常に乱暴だし、あまりにも厳しいものの言い方に見えますが、かつての師のそういった判断を見て来て、またそのような視点からわりと長いこと(7年ぐらいになるのか)ものを観察して来て、僕自身もそれは本当のことであるとほとんど確信するようになりました。
つまり我々のまったく発達していない意識では、自分のしたい事を自分の中から見つけ出す事はほとんど不可能ですが(それは自分たちが複数の自己を認識する事ができないからですし、また深層の意識、または「本質」をみることもまったくできないからです)、自分のとってきた行動、また他人の行動をみれば、その結果によって、いったいその人が本当は何をしたかったのかが、小さいところでは常に現れているのだということです。そして自己の、または他人に対する観察が長いスパンで行われて、総合的に判断できるなら、大きい意味でもその人が本当に何を欲しているのかを見る事はできるということでもあると思うのです。


このような視点から人間の、自己の、知人の、またニュースなどで耳にするまったくの他人、そして集団などの欲求を見て行きますと、人類に関するまったく新しい見取り図が現れるような気がします(これは大げさな物言いか?w)。


現代社会に生きている我々は、表面的には、社会的にまた道徳的に与えられた欲求をなぞるようにしか生きていません。そして、普段我々が知っている、または感じている、人々の欲求のあり方は、年齢や、社会的な層によってだいたい判断できるようになっております。ティーンエイジャーは10代らしい欲求を持っていて、学生は学生らしい欲求、大人にはれば、その人が属する社会的な層が持つべき欲求を持っているように見えます。少なくともそのように振る舞うように社会に強制されてみな生きております。
しかし、行動の結果現れている、それぞれの人の本当の欲求を見ていこうとすると、実は人はそれぞれ驚くほど違う欲求を持っているのだということが見えてくるのです。
特に強調しておきたいのは、この視点から見ると「人間的成長」とでも呼べそうなものは個人によって恐ろしく違うということです。
これはどんな欲求がプリミティブ「原始的」な欲求でどんな欲求が発達した欲求であるのかという議論をしなくてははっきりとは言い切る事ができないのですが、ここではその議論を省いて、乱暴に僕の判断だけで言ってしまうと、社会に生きている我々の多くの人の欲求は、平均的には10代後半の子供が持っている欲求以上のものはほとんど持っていないということ。にも関わらず、人によっては非常に若いうちに、(特にそれは女性にばかりあるように思うのですが)例えば10代後半から20代の頭ぐらいの女性が平均的には40代の人でも持っていないような発達した欲求を持っている場合があったりすること。そして社会的に高い地位を持っている人や、有名な人間の中では、さすがに高い欲求もっているなぁと思わさせる人間と、まったく恐ろしいほど原始的な欲求しか持っていない人間が、まったくごっちゃにされ、同じ立場の人間として判断されていることが非常に多く起こっています。

僕の個人的なワークの視点から言いますと、自分の持っている欲求も小さなところを見るとあまりにも馬鹿馬鹿しいものが多く、そういったものをはっきりと観察するだけ自己を想起していたいと思う事、そして、本当に書きたかった事は、この欲求の社会的な側面なのですが、今回はあまり長くなってしまったので、このことはまた次回にゆずろうと思います。
2008/03/05 (Wed) 振動
最近人間が持っている固有の振動について、考えることが多くなりました。
我々は意識するしないに関わらずいろいろな種類の振動を発信し、また他人から環境から天体から宇宙から固有の振動を受信しております。実はこれらの振動によって、我々に起こるすべてのことが決定されているといってもいいほどでしょう。戦争が起こるのもこの振動の結果、文明が興り衰退するのもこの振動の結果、国家が盛衰するのも、我々個人の人生も、日々に起こる不快なできごと、うれしいできごともこの振動に左右されています。
我々が個人的に持っている振動も一つではなく、複数存在しております。それはもちろんそれぞれのセンターが持っている固有の振動です。大きく言えば思考センターの振動、感情センターの振動、動作センターの振動の3つ。さらに言えば、本能センターと、非常に大事な性センターの振動もあり、これらの振動は我々のなかで非常に矛盾して存在しており、通常まったくオーガナイズされていないために我々に起こるできごとも、支離滅裂、むちゃくちゃなことばかりが起こってしまっているわけです。
動作センターの持ってい振動は意図的な運動をすることでわりと簡単にオーガナイズすることができるように思います。通常ワークではもっともコントロールをすることが容易である身体を使って、他のセンターの振動に影響を与えていくというアイディアがあるほど、もっとも簡単にオーガナイズできるのが動作センターの振動です。
これは運動をしてマッチョになるとかとはまったく違う意味なのですが、簡単に言えば身体のもっている意識の力と言えるかもしれません。不思議な事にこの動作センターがしっかりした振動を持つようになるだけで、ほぼ無条件に異性に興味を持たれるようになります。人は無意識にそういった振動を「セクシー」と感じるようです。そういった「意識のある身体」は、自然に非常に柔らかく、無駄な力を使わずに、しなやかに動き、まただらしなさがなくなりますので、その動きだけで充分に異性を惹き付けてしまえるのでしょう。例えば、女性のファッションモデルなどが、たいしてきれいな顔をしていなくても、実際に見ると信じられないほど美人に見えるのもそのせいだと思います。女性のファッションモデル(男性のモデルはたいがい非常に悪い身体的振動を持っています)の場合、身体が売り物だからなのでしょう。インタヴューに答える時にすら、身体の感覚を強く持って答えています。そういった身体の意識の強さが、身体的な良質な振動と非常に強く関わっているように思います。
僕の場合個人的に、身体についてはかなり多くの訓練をつんできたので、今はより別のセンターの振動に興味があります。

感情センターに多くの刺激を送り込むにはパートクドルグ義務を遂行することが一番なのでしょう。これは結局「行為」することと言えるのかもしれません。つまり不思議な事に感情センターを活性化させるためには、他人の不快な表現の中に入って行かなくてはならず、そのためにはなんらかの行為をしていくことが必要になってくるわけです。これについてはやり方が大分わかってきた今になってはただ冷静に積み重ねて行くことだと思っております。

さてここで思考センターです。この思考センターの振動というのは非常に興味深いです。
シェイクスピアはこのようなことを語っていたようです。
「我々の思考は意思次第でどこへでもたちどころに飛んで行く事ができる」と。
彼の言い方だと、まるで彼は実際にどこかに飛んで行ってそこにあるものを見てくる事すらできたかのように思われるところが非常に興味深いと思います。そして彼の最後の戯曲「テンペスト」ではこのような台詞も出て来ます。「我々の現実と夢は同じ物質でできている」と。
話が飛んでしまってのでもとに戻しますが、一つ注意しなくてはならないのは、我々の思考というのは、我々が考えていると思い込んでいるだけで、実は通常まったくコントロールされていないということ、自動的に機能していて、勝手にいろいろなことを考えているだけなのだということです。そしてそんなまったくコントロールされていない思考が、勝ってにどこにでも飛んでいって、いろいろな影響を外に与え、また勝手にいろいろなところから飛んできていろいろな影響を我々に与えているわけです。こういうことを考えていると、思考センターと感情センターを区別することが非常に難しくなってくるのですが、もっとも興味深いと思われるのは、思考センターの感情部分と言われるようなもの、フランス語ならエスプリ(l'esprit)、ドイツ語ならガイスト(der Geist)というものです。僕の考えるにはこの思考センターの感情部分というのは、非常に大きな力を持っています。我々舞台芸術家が舞台の上で、通常ではまったくだせない何らかの力を発揮するのもこの力だと思いますし、作家や作曲家が作品を作る時に発揮するのもこの力でしょう。つまり意図的になんらかの仕事を、外の世界に実現させるときの動力になるのが、この思考センターの感情部分であると考えられるわけです。
そういった力を持つ、我々の思考と感情についてわれわれは少し慎重になるべきなのではないかと最近は考えるようになりました。そういう影響を考えれば、好き勝手に空想していてはいけないことをも多くあるような気がしてしまうのです。感情についてはコントロールすることは不可能なので置いておくにしても、不快な人間に対して、悪い意思を持つ事や、自分の快楽のために他人を犠牲にしても全く問題ないと考えるようなそういう思考を、行動に移さないからといってそのままにさせておいていいのか、ということです。それはどうも非常に如実に我々の身近にある出来事を左右しているように思えてならないのです。
それは「善人」であることを目指すとかそういうことではまったくなく、単純に自分の意志を実現するという個人的で利己的な目標を阻害することであるように思われることで、そういった思考を野放しにすることは「戦略上」非常に不利なのではないかという考えがうかんできたわけです。

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Author:はせいん
このブログはある程度グルジェフを知っている方を対象に書かれています。解りづらいことがある場合は、このプログの初期の記事を読むか、ウスペンキーの「奇跡を求めて」など、一般的なグルジェフの入門書から読まれることをお勧めします。

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