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<title>ベルゼバブの孫　(グルジェフ研究)</title>
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<description>グルジェフがかつて研究したように、世界の謎に触れてみたいという欲求を持っています。しかしそれは彼の時代と同じように、普通に僕たちの触れられる情報からでは近づきようのないもののように感じます。</description>
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<title>存在するのかしないのか</title>
<description> 人の行うこと、為すことのすべてを根源までさかのぼって観察することはできます。一つ一つの行為の動機、また一つ一つの感情の発生する元になるもの、そしてその感情の行き着く先を観ていく事は可能です。そしてそれを繰り返し、人の多くの局面を見て、多くの異なるケースで起こることを観察し「理解」を得ていくことができれば、実にこの世に存在していることのほとんどすべてが意味を持っていないということが完全に言えてしまえ
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<![CDATA[ 人の行うこと、為すことのすべてを根源までさかのぼって観察することはできます。一つ一つの行為の動機、また一つ一つの感情の発生する元になるもの、そしてその感情の行き着く先を観ていく事は可能です。そしてそれを繰り返し、人の多くの局面を見て、多くの異なるケースで起こることを観察し「理解」を得ていくことができれば、実にこの世に存在していることのほとんどすべてが意味を持っていないということが完全に言えてしまえるでしょう。それは悲観的、または厭世的な何かではなく、また「空」だとか「悟り」だとかそういった大袈裟な何かでもなく、ただ目に見える事実として、それを見る事が可能なのです。そのように、人間の行為、また人類が考えている自らの「重要性」のほとんどすべてが意味をなしていないということが見えたところで、実にはっきりと例外も見る事ができると思います。つまり「意味のあること」がなんなのかということが見えるということです。<br />そのことについては多くの（古い）哲学者が、また文学者などが、作品を通して語ってきたことなのかもしれませんが、僕が自分の言葉でそれを言うならば、それは「存在すること」であると言えるかもしれません。<br />ただ、グルジェフの指摘を引用するまでもなく、現代人は「存在する」ということの意味を誰も想像しませんし、少なくとも、存在の力、その強弱、そしてそういったものを量るような尺度は社会的共通認識の中には存在しておりません。つまりそれは一般的に「存在」という概念は認識されていないということを意味しているわけですから、今ここで「存在」のことを語ろうとしても、それは容易なことではありません。<br /><br />しかし、人間の「存在」のためにだけに存在しているものがいくつかこの世界にあります。その一つは芸術であると僕は僕の言葉で言い切ります。芸術とはそもそもワークの精神からしか出てきようのない言葉です。それは英語やフランス語ではアート(art)と言い、ドイツ語ではクンスト(kunst)。そしてその言葉が意味していることは「行為」ということでしかありません。それはただし「人間の」行為を指している。それは神の行為、自然の為せるわざでもなく、動物の行為でもない、「人間の行為」ことを指している言葉なんです。そしてそれは結局人間の「意図を通した」行為の事を意味しているのです。ワークで使われる言葉で言えば、単純に「意図的行為」のことなのです。グルジェフのワークを志す人間にはその「意図的行為」というのがどれほど特殊なことなのか、どれほどまれにしか起こらないことなのかということを観察からよく理解している筈です。そしてその意図的な行為を起こすこと、そしてそれが作品という形を通してコミュニケーションになっていること（つまりはその行為を通して他のミクロコスモスとつながりを持てること）、それが芸術なのです。<br />さて、そういった意図的な行為を起こしたときのみ、人間はこの世に「存在」できるのだということを、僕は考えるわけです。これは完全に僕の言葉で語っているので間違いを含んでいる可能性はありますが、僕は今の段階ではそう考えております。そして観察によって見ることができる、この世に起こるあらゆる無意味なことを横においておいて、ただ存在するためだけに行為するならば、世界のすべてが変わっていくように感じるのです。すべての人間関係の意味が変わってしまいます。つまりは社会に参加することの意味もまったく変わってしまいますし、その事によって、自分の外なる世界に対して、もっと多くのものにつながっている自分の内なる世界が、大きな意味をもって開けてくるように感じられるのです。<br /><br /><br />記事の題名に書いたんですが、実に「存在するのかしないのか」（to be or not to be)という事以外に問題になりうることなんてほとんどないのだというのが結論になるわけです。 ]]>
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<dc:subject>考察</dc:subject>
<dc:date>2009-05-10T20:37:35+09:00</dc:date>
<dc:creator>はせいん</dc:creator>
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<title>愛情、自動性</title>
<description> 今回はまた人の自動性について書いてみたいと思います。以前あるこのブログでの友人と話していたことでもあるのですが、人にはある種の周期のようなものがありまして、ある時期にさしかかりますと、僕の場合、突然に多く異性の興味を惹くことになるんですね。それが、今回は去年の１２月末頃から始まりまして、多くの女性がいろいろな種類の愛情を僕にむけてくることになりました。そうなると僕は普段孤独な人生を歩んでいるほうな
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<![CDATA[ 今回はまた人の自動性について書いてみたいと思います。以前あるこのブログでの友人と話していたことでもあるのですが、人にはある種の周期のようなものがありまして、ある時期にさしかかりますと、僕の場合、突然に多く異性の興味を惹くことになるんですね。それが、今回は去年の１２月末頃から始まりまして、多くの女性がいろいろな種類の愛情を僕にむけてくることになりました。そうなると僕は普段孤独な人生を歩んでいるほうなので（w）、その都度非常に嬉しい思いをするし、いろいろな意味で心を動かされるわけです。そうしたなか、それが始まってからいままでの３ヶ月間、いろいろな女性が通り過ぎて行きました。　www！ちょっと待ってくださいね。こういうのは書き方が難しいのですが、つまりは、僕がもうそれほど若くはないために、いろいろな意味で慎重ですし、それほど興味がでない場合は、そこからもう一歩踏み出すということもないわけです。そしてこういった感情はなんらかの媒体が与えられないと、わりとすぐにさめていくものなので、いろいろな感情が向けられ、それに僕が反応しながらも、たくさんの感情がただ消えていったという意味です。<br />さて、ちょうど一ヶ月ほど前でしょうか、すごく忙しくてブログの更新もできなかった２月末ごろ、ふと気づいたことがあったんです。多くの感情がただ燃え上がり消えていった中で、僕に残っている感情が３つあったんですね。つまりその中で３人の女性には僕の感情が残っていた。３人というのが面白いなぁと思って考えはじめたのですが、それがまさに例の３つなんですね。まずそのうちの一人に惹かれているのは僕の本能でした。僕の感情はその子にちっとも興味をもっていないために、その子に例えば会えないとしても痛くも痒くもないのですねw。また、その子は僕にとってあまりにも子供っぽいために、僕の思考もちっとも興味を持っていない。ただ本能だけはすごくその子のことを思っていて、それがゆえに非常に大事にしたいという感情があり、その子と関係することですごく嬉しい気持ちになっていたわけです。そしてもう一人女性は、非常に強い感情的な力を持っている女性で、その人に会っているだけで、そういった熱いものがほとんど熱感として胸に伝わってくるというほどだったんです。僕はその子には特に本能的には惹かれていないのですが、そういった強い感情に、明らかに僕の感情も反応していたのでした。そして最後の一人に関しては少し違っていて、その子は思考から言っても理想の人間であったし、感情的にも惹かれ、本能的にもすごく大事に思っている、そんな子でした。<br />さて、まあそういった詳細はまったく重要なことではないのですが、僕がそのことに気づいて、またそれぞれをまったく別の愛情として認識したことは非常に重要なことでした。なぜなら、これらの僕がいちいち動かされている「気持ち」はすべて誰かに対する反応であって、完全な自動性にしか根ざしていないということが明らかに見えてくるからです。しかも驚くべきことにそれぞれの「気持ち」は僕自身のある一部分が持っており、僕のほかの部分はその感情についてまったく驚くほど無関心でいられるのだということがわかったからです。これを認識するほど、自分がばらばらに存在していることを、現在の存在の感覚として明らかに見せたことはありませんでした。そしてその認識を通して連想的に確認できることは、他人もまた同様に自動的に彼らの存在のある部分だけで僕のことを愛しているのだということなのです。<br />さあ、問題はこの自動性に身をまかせるか、この自動性から意図的な愛情を作り上げるかということなのでしょう。１８世紀以降のヨーロッパ文化のおかげで現在では、全面的に肯定されているこの「愛情」について、何か議論を展開するつもりはないのですが、少し客観的にみる視点があってもいいのだろうと僕は考えます。 ]]>
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<dc:subject>考察</dc:subject>
<dc:date>2009-03-25T20:17:39+09:00</dc:date>
<dc:creator>はせいん</dc:creator>
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<title>ご挨拶。</title>
<description> どうもです。グルジェフとは全然関係がないことなのですが、最近趣味で写真をやっておりまして、写真のブログを作ってみました。興味がおありでしたらこちらのほうもよろしくお願いします。the visible spacehttp://visiblespace.blog16.fc2.com/
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<![CDATA[ どうもです。グルジェフとは全然関係がないことなのですが、最近趣味で写真をやっておりまして、写真のブログを作ってみました。興味がおありでしたらこちらのほうもよろしくお願いします。<br /><br /><a href="http://visiblespace.blog16.fc2.com/" target="_blank" title="the visible space">the visible space</a><br />http://visiblespace.blog16.fc2.com/<br /> ]]>
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<dc:subject>つぶやき</dc:subject>
<dc:date>2009-03-25T09:20:29+09:00</dc:date>
<dc:creator>はせいん</dc:creator>
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<title>命令</title>
<description> 先月末からすごく忙しい日々が続きまして、月一で更新しようと決めていたのに、ブログのほうも残念なことに更新できませんでした。まあ、なんというか僕の忙しいというのは、もしかしたら一般の日本の企業とか省庁で働く方々に比べたら忙しくもなんともないのかも知れないんですけどね、というのも、録音のプロジェクトで朝から夕方まで缶詰だったとはいえ、夕方５時半までと決まっている時間を超えることは絶対にないわけですから
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<![CDATA[ 先月末からすごく忙しい日々が続きまして、月一で更新しようと決めていたのに、ブログのほうも残念なことに更新できませんでした。まあ、なんというか僕の忙しいというのは、もしかしたら一般の日本の企業とか省庁で働く方々に比べたら忙しくもなんともないのかも知れないんですけどね、というのも、録音のプロジェクトで朝から夕方まで缶詰だったとはいえ、夕方５時半までと決まっている時間を超えることは絶対にないわけですから。ところが、最近はなぜか友人たちがやたらといろいろなところでパーティをやるもので、ほとんど毎日、録音の後どこかのパーティに呼ばれて、それでへとへとになっていたのです。。<br /><br />そんなある晩のことでした。その日は仕事が終わってから久しぶりにパーティもなく家に戻ってきて、もう８時頃から眠くて何もできずそろそろ寝てしまおうかと思っていたのですが、そこに友人から電話がかかってきたんです。たいした用事はなかったのですが、その友人はその時仕事が休みで（フランスではしょっちゅうそういうことが起こるんです）すごく暇だったらしく、いろいろと話をしてくるんですよ。僕はいつも疲れているときと同じように、まともに話もせず、突拍子もない受け答えを続けていました（実は僕の老年になった時の目標は、ムラーナスレッディンのような人物になることで、今でも親しい友人にはかなり突拍子もないことをよく言うんですw）。そうして話にもならない話をしていたら、ふと、彼女が「時間があるのに、ちっともやることが思いつかないし、何もやる気が起こらない」というようなことを言ったんです。この日初めてその友人が「真実」を言った瞬間でした。まさに、それがゆえにめちゃくちゃに疲れている僕をつかまえて、だらだらと話をしているわけですから。その瞬間にですね。まさに、ムラーナスレッディン的な、というかむしろグルジェル的なアイディアが出てきたんです。そこで僕が言ったのは「わかった。じゃあ命令を下すから。それを実行してよ」（日本語に訳すとちょっとヤバメですが実際はもう少し普通っぽいです）ということでした。僕がなんとなくその時に思いついた命令は、今から誰か友人のところに行って、今彼女が凝っているゲームがいかに、どのようにして面白いのかということを２時間以内に説得してくる。といういいかげんな、どうでもいい命令だったのですが。もちろん彼女はそんなことをまともに取り合ったりはしませんでした。にもかかわらずですね。僕は内心すごいことを思いついなぁと思っていたんです。<br />というのも、命令という言葉を使った瞬間に彼女は非常に固い反応を示したんですね。これはその友人だけの話ではないのですが、人間は全般的に、命令に従うということを心から恐れているんだと思うんですよ。自由を侵害されるという意味でです。恐れているという書き方はもしかしたらちょっと解釈を加え過ぎかもしれません、直接的に書けば、命令をされることを意地でも拒否しようとするのが、我々普通の現代人です。<br /><br />しかし、その実態は非常に複雑です。まず最初に言わなくてはならないのは、我々は命令なしには何一つものを実行する力を持っていないということなんです。これは事実で、グルジェフの世界ではこれを自明のこととしていつも言っているのは「我々は為す力を一切持っていない」ということで、さらにはこれが人間の自動性、機械性の根本にあることなんですね。さて、しかし実際には社会ではいろいろなことが起こっている、みんないろんなことをやっているではないかと言われるかもしれません。しかしこれも実は、絶対に命令に従うことを拒否しているにもかかわらず、我々には社会に参加している人間ほぼ全員が自動的にしたがっている命令があるんですね。それが社会的な命令で、社会的道徳なんです。人はすべからく仕事をするべきであり、というところから始まって、どのように仕事をし、また若ければどのように学業をし、どのように振る舞い、どうして生きていくべきかと、細かいところまでその命令は浸透していて、人はその命令に着実にしたがって生きています。そして恐ろしいことに、人が力を発揮しなんらかの結果を導きだせるのは、ほとんど、この自動的命令の力を使った時だけなのです。そうであるがゆえに、フランスではよくある特別に意味もない休日、また日本では定年後の人生もそうですが、その命令の強制力からはみだしてしまうと、することが一切ないのに気づきますし、何をすべきかもわからなければ、何をしないべきかもわからなくなるし、第一自分がなんで生きているのかも、わからなくなってしまうわけです。<br />つまりはそのような自動的命令に従って生き、その命令なしでは何一つ為すことができない状態で生きている我々が、誰かに命令をされると、つまり命令されていることに気づくと、突然自由を侵害されると感じ、それを心理的に、または生理的にも強く拒否するのです。そして我々には「意図的に」命令に従う「能力」がまったく欠けているんです。自動的にしか命令に従うことができないのです。<br />それがゆえに実は友人に命令し、また友人の命令に従うというこの遊びが非常におもしろい遊びであると思った訳です。命令される側が意図的にその心理的拒絶を無視するから面白いわけで、また命令する側にも責任が伴うという意味で非常に面白いのです。<br />まあ、もちろんそんな遊びをできるほどの友人はいないわけなのですが。<br /><br />そしてもう一つここで気づけることは、我々には従う能力だけでなく、命令する能力もまったく欠けているのだという事実です。いや、命令する奴はたくさんいるなんて言わないでくださいね。しっかりと観察すれば、命令しているように見える人間は、例の社会的命令に従ってそれを強制すること以外には何もしていないということがわかるはずです。命令をするには意思が必要で、意図することができなくてはいけないわけです。そのような命令がもし可能であれば、その命令そのものがすでに聖なる領域に達していると言わなくてはならないほど、そのような意図は通常の人間には持ちようがないものです。<br /><br />そうしてこのテーマに関する我々の持つべきゴールも見えてきます。それは我々が自らに命令をし、その命令に従う能力を持つことと言えるでしょう。こうしてみるとまるでニーチェのようになってきますね。このような命令の話は、実はこれも言ってはならない秘密のたぐいに属するはずです。まあ、ニーチェと違って僕の言っているようなことはそれほど真に受ける人間もいないはずなので、日常でこうこうことをやたらと言わない限りは今のところ大丈夫だと思っているのですが。。<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>考察</dc:subject>
<dc:date>2009-03-12T09:41:08+09:00</dc:date>
<dc:creator>はせいん</dc:creator>
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<title>空想</title>
<description> ここ２週間ほどか、まあ、月に一度はブログを更新しようと考えているので、今考えていることを記事にしようと何度か試していました。しかし、どうしようも記事にすることができないでいるんですよね。問題は今考えていることを論理的に筋の通った記事にすることができないことなんです。その考えていることというのは、まず、我々の社会の空想性です。秘教などに関わっていると、この社会が空想的であるというような話はいろいろな
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<![CDATA[ ここ２週間ほどか、まあ、月に一度はブログを更新しようと考えているので、今考えていることを記事にしようと何度か試していました。しかし、どうしようも記事にすることができないでいるんですよね。問題は今考えていることを論理的に筋の通った記事にすることができないことなんです。<br />その考えていることというのは、まず、我々の社会の空想性です。秘教などに関わっていると、この社会が空想的であるというような話はいろいろなところで聞くと思います。ただそれが「次元」という視点から話をして３次元空間は空想であるとかそんな話になると、そんなものを理解したところで何の意味もないと申しますか、少なくとも実践的な理解、存在を伴った理解などしようがないし、たいがいは（というかほとんどすべてが）その議論そのものが空想的な話になってしまっています。にも関わらず、最近実践的な実感として社会が空想であるということをいろいろなところに見るようなことがあるので、そのことを少し記事にしたいと考えていたのでした。<br />実際に我々の生きている社会は驚くほど多くの蓄積（ヘリテージなんて言い方をする人たちもいますが）を伴った巨大な空想なのです。僕が言っているような意味では、我々生物の存在理由をを理解しようとする努力の過程の中でその空想性はしっかりと見えてくるはずです。<br />そうすると新たに「人はなぜ生きるのか」という一般的に論じることはほぼ不可能なテーマにぶちあたってしまうわけなんですよね。<br />誰かがこの答えを手にしていたとしても、それは絶対に暫定的な理解でしかあり得ません。まあ我々が人間である限りはそうでしょう（つまり誰かが仏陀とかになった場合だけは例外だということですw）。<br />ただ実はこれらの問題、「社会が空想である」ということと「人はなぜ生きるのか」という二つの問題の答えはグルジェフ氏の著書「ベルゼバブの孫への話」にすべて書いてあるのです。おそらくあの本を４、５回繰り返して読めばしっかりと理解できてしまうでしょう（まあそれができればの話なんですが。。）。そうなんです、あの本は部分的に理解しようとしてもほとんど何を言っているのかわからないようなことが延々と９００ページ分繰り返し書かれているのですが、本当に身にしみてしまうぐらいに読み込んでいくと、普通に理解することが不可能であるようなあらゆるテーマの答えがそこに書いてあるという異常な本なんです。<br /><br />さて、そんな感じでこのテーマは語ることが不可能ですということを書くだけの記事になってしまいましたが、さらに議論を進めていくともっとわけがわからないことになっていきます。<br />僕が最近感じているのは、いろいろなところで言われているようにこの世界は本当に空想なのだということと、それと同時に、にも関わらず、というか、だからこそ、この社会の中に存在し、完全に社会に生きる人間としてコミットメントすることが大切なのだということなのです。それはもちろんパートクドルグ義務に関わったことで、この社会が完全な空想であるにも関わらず、我々がクンダバファーによる空想的な自己から脱却して真に責任ある存在として宇宙に存在するには、非常におかしなことに、この社会の中に完全に存在しきることしか方法がないのです。この社会という空想から逃れようとして、社会から遠ざかっていけば、単純にさらなる自己の空想の中に入り込んでしまうだけなのだということです。<br /><br />というわけで、議論のレジメだけを書いて強引に結論だけを言うことになってしまいましたが、このことに関しては今はこれ以上明確に何かを言うことはできなそうです。もしかしたら後になってこれらの議論をつなぐことができる何かが言えるときが来るかもしれませんが、まあ、おそらくは無理でしょうw。。 ]]>
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<dc:date>2009-01-31T00:40:26+09:00</dc:date>
<dc:creator>はせいん</dc:creator>
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