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私たちは人間は内なる世界と外の世界を持っている存在、別の言い方をすれば、内なる世界と外の世界を区別して認識している存在です。それぞれの世界はくわしく研究しようと思うと、我々にわかるようなことはほとんどないといえるほどの複雑な世界です。 そんな世界を我々はあまりはっきりとしない意識で捉えていて、そのはっきりしない意識故に、我々の知っている実在というのは実際のところ、あまりはっきりとしたものではありません。つまりは我々が内外の世界に「存在している」と確信しているものの多くはかなりあやふやなものであるということです。 さて、その我々のぼんやりした意識ですが、我々は内外どの世界にあるものもすべて意識的に、またほとんどは無意識の範囲内で「許容」か「拒絶」のどちらかの態度をとるようにできています。 例えば内なる世界のものでいえば、自分の精神的傾向、おおらかさ、大胆さ、勤勉さ、知的欲求などの傾向はたいがい自らに「許容」するものですが、意地悪さ、恨みっぽさ、だらしなさ、などは見ないようにする、まるで無きものかのように扱う、つまり自らに「拒絶」することが多くなります。自分の行動的習慣についても同じことが言えますし、思考的習慣についても同じでしょう。それから他人の態度、言葉、傾向などもすべてに対してほぼ自動的に「許容・受け入れ」か「拒絶」のどちらかの態度を瞬時に決めます。社会で起こること、自分のおかれている状況に対してももちろん同じです。これはこうして挙げていけばきりのないことなのですが、問題はそれほど単純なことでもありません。それは我々の意識できない何かに対してもすべて「許容」か「拒絶」のどちらかの態度をいつも決めているからです。 さて、最近の自己観察からそんなことに注目し始めたのですが、実はこれを観察し続けてみると、この決定は驚くほどに自動的に起こっているのだということ、そしてその自動的な決定は驚くほど恣意的で、まったく統制がとれておらず、自分のなんらかの目的に対して矛盾しているものばかりであるということです。 まず最初の恐るべき事実として挙げられるのは、僕は自分の内なる世界、つまりは自分自身のこと、また自分の持っているいろいろな傾向のほとんどすべてを「拒絶」して生きているのだということです。まず自分の持っている向上心そのものがそこに根ざしていますし、つまりは人生においてめざしているものも、自己のうちなる世界を拒絶するところから始まっているということです。そしてもちろんグルジェフに関すること、秘教的な世界の中に何かを求め、自己を変革しようという意思もこの拒絶から来ているわけです。 外の世界を見れば、社会に起こること、起こっていること、他人の行動、すべてにおいてこの拒絶が働いています。こうあってはいけない、こうであるべきであるといったこと、そのアイディアそのものがあやふやであるにも関わらず、ここには厳然とした拒絶があるのです。そして個人的に接する人間に対する態度も、おそらくは限られた非常に親しい友人をのぞいては、あらゆるところにこの拒絶が働いているでしょう。 そうして挙げていってわかるのは、ほとんどすべての存在、現象に対して自己が自動的にとるのは「受容」ではなくて「拒絶」であるということです。そしてその自動的な決定である「拒絶」は意思の力で容易に変えられるものではありません。というよりはそのうちの一つだけを挙げたとしても、よほどの努力をしない限り変えることはできません。 その事実をもってもう一度現実を眺めてみますと、実はこの世に拒絶するべきものなどほとんどないのだということが言えてしまうと思います。こうして見て行くと、この「拒絶」にわれわれの自動性の多くが依っているということが見えて来ます。 もうずいぶん長いこと経ってしまいましたが、いままでもやっていました「グルジェフ弟子たちに語る」からの講義について書いていこうと思います。基本的なことに関して語られているところは、今までこのブログで書いて来たことと、またその他の本とも重複してしまうことが多いので、こないだの講義から少しとばしまして、第2章の4つ目の講義について書こうと思います。これはパリで1922年の8月にされた講義で、この本では「片寄った発達」と題されています。
「ここに集まっている、あなた方各人の内面の機械のうち、一つだけが、他の機械よりも発達している。3つの機械の全部が発達している人だけを、完全な「人間」と呼ぶことができる。一方に片寄った発達は有害でしかない」 ここでグルジェフが言う、3つの機械とはもちろん、思考センター、感情センター、本能・動作センターのことです。どんな人間もこれらのセンターのどれかが発達しやすい傾向をもって生まれてくるのですが、意図的な努力なしではこれらの偏向を変えることは不可能であるために、通常、人は皆この生まれもった傾向、タイプのまま世界を見、そのまま一生を終えていきます。 そこでグルジェフが上で語っていることをもう一度考えてみるとわかるのですが、ここでグルジェフ氏が言っているのは、すべての人間がまったく有害な状況のまま生きていて、解決策も知らず、またそれを解決する必要性も理解していないまま一生を終えている、ということも同時に意味しているわけです。 この講義の内容をある程度、自分の身になるほどに理解するためには、これら3つのセンターの機能を自己観察によって、自分の生活、行動、また習慣の傾向と合わせて自己の中にはっきりと認識することが不可欠ですので、今、ここで扱っている内容もかなりアドヴァンスになってしまうかと思います。とはいえ、自己観察の第一段階をすでにクリアーされて来た方々にはこの講義はすごく参考になるように思います。 ここでグルジェフはそれらの例を挙げていますが、興味深い事に、ここで彼ははっきりと、思考センターのことを「人格」、感情センターのことを「本質」、本能・動作センターのことを「肉体」と言っているんです。実はこの「基本的な三つのセンター」の理論と、「人格と本質」の理論を一つにして考え、文字通りに受け入れようとすると、いろいろなところに矛盾がでてきてしまうのです。しかし、実にグルジェフのワークの場合、こういった矛盾の中にこそ、言葉にすることのできない真実が含まれているので(真実はどんな場合にも言葉にすることはできないわけですから)、この二つの矛盾する事実を受け入れた上で、それを実践的なワークによって解決していくことで本当にグルジェフが意図していたことをつかむ事ができるように、実は意図的に作られているんですね。 実にこのことについては、僕自身がこれまでのワークによって理解して来たことをここに解説する事は無理だと思いますし、無意味であると言えると思います。というのも、この矛盾をこのままにしてあるのは、この矛盾を埋めることができるのは個人的な自己観察とワーク、体験によって知るに至る”何か”でしかないからです。こういう何かをグルジェフ氏は「肉化させること」と呼んでいるのですが、まさにその言葉の通り、何らかの「理解」が自分自身の「肉」であるかのように、現実で可視のものとして常にそこに存在している状態であることなのです。つまり通常の「理解」のように、自分の気分次第で消えてしまい、機能しなくなるような理解では不十分なわけですね。そしてこの類いの理解を通さなくては認識できない事実というのは、通常の論理でものを話した場合には、絶対に他人と共通の認識を得る事はできないのです(だからこそ、それらは秘密のまま保持されざるを得ないわけですし、ここでそういうことについて書く事も無意味になるわけです)。 ただ、ここで終わりにしてしまうのはあまりにも何なので(w)僕なりに大枠だけを書くことにしますと、「人格」と呼ばれるものの中枢部は「思考センター」に存在していて、「本質」の中枢部は「感情センター」に存在していると言ってしまってもかまわないのかと思います。そして各「基本的3センター」はそれぞれがまた「思考」「感情」「本能」の3センターに分離していて、それぞれの機能を持っているということを、グルジェフがほんの少しだけもらしているところにもヒントが隠されていると思います。センターの機能というのは一見するよりもかなり複雑な機能をもっていると思ってもいいと思うのですが、それらの複雑な機能が現実の生活のなかのどういう部分に現れているのかを少しずつ発見して行く事で、その複雑さの中にもそれそれに傾向のようなものがあることがわかると思います。そういった観察の中から、この「基本的な3つのセンター」と「人格と本質」も互いに浸透し合っているということが矛盾なく見えてくるように思います。しかしそれをどういう風に見るのかは、今回書いたように完全に個人的なワークに依っていて、そういったワークなしに他人が伝えられるものでもなければ、他人から教えてもらえるものでもないことなのです。 この先も、この講義でグルジェフはいろいろと興味深いことを語っています。 それはまた次回からにしたいと思います。 今まで書いて来ました1918年の講義も今回で最後になります。道を求める人を待ち構えている罠の話に続いて、グルジェフはその罠を回避したあと、人がどこに向かって行くのかについて話しています。
「この領域のあらゆる段階で人を待ち構えている障害と欺瞞を研究すればするほど、偶然に出会う人から受ける偶然の教えや、読書や、何気ない話から選びとった類いの情報に依存して自己開発の道を進むことは不可能であるということを、ますます確信するようになる。」 まさにこれについてはその通りで、研究をかさねるごとに、あらゆる所にある欺瞞を、その存在の根底からの欺瞞を見抜く力がついてきますし、その事実を見ることで、本当の知識を得る事の不可能性だけは本当にはっきりと認識する事ができると思います。そしてだからこそ、誠実にこの事実について研究する事が非常に重要になると僕には思えます。というのも、あらゆるインチキのありかたを研究し、いかに人が罠に陥ってしまうかを研究することで、ほんのわずかになら存在する、それらのインチキや罠と関係のないものがどこにあるのかも目につくようになるからです。 これがまさに「毒麦から小麦を分離する方法」で、小麦の粒だけを根気よく扱って行けば、時の経過とともにそれが手のひらの上にほんの小さな固まりになるぐらいはたまっていくのです。 グルジェフは言います。「おそらく、神秘学研究の曲がりくねった小道や、脇道に費やすいっさいの遍歴のうち、”ただ一つ”の建設的な結果は、確実な判断力と思考能力を維持すれば、直感と呼びうる、あの特別な識別能力を発達させることであろう。人は精神異常の道や誤った道を捨てて、辛抱強く本当の道を探すであろう。」 そして多くの観察の結果と、誠実かつ厳しい現状の研究によって、その小麦の粒がほんの少しだけなら存在しているのだという事実を人ははっきりと、この手のひらの上に見ます。それは人に「真の知識」はここにはないが、どこかに間違いなく存在しているという確信を起こさせる事になります。 グルジェフはこれをこう表現しています。「同時に人は次第にもっとはっきり見るようになる。始めはかすかに明滅する微光を、さらにあらゆる時代を通して人類を照らしてきた真理の輝かしい光を。伝授の起源は光陰のかなたに消失し、同時に、各時代をつなぐ長い鎖が展開する。「偉大な知識」は時代から時代へ、民族から民族へ、人種から人種へ次々と伝えられる。インド、アッシリア、エジプト、ギリシアにおける、伝授の偉大なセンターが、世界をまばゆい光で照らす。真理は象徴文学や伝説という形で永遠に固定され、風習、儀式、口伝、宗教芸術という形で、舞踏、音楽、彫刻やさまざまな儀式による不可視の本質を媒体に、保存を目的とし、大衆に伝達される。偉大な知識は、それを求める人たちに、一定の試練の後に公然と伝えられ、連綿とつながる知者たちの鎖によって口伝えに保存される。」 この流れに向けて突破する事、流れを見つけ出す事が探求とワークの目的であるとグルジェフは言います。その流れに入る事さえできれば、すべてに身を任す事ができ、必要があれば支援と指導を受けることができると。 そしてこの後、その流れに入った後に、銘記しておくべきこと、心構えなどについてグルジェフは語っていますが、ここでそれを語る事は全く無意味なのでやめて置きましょう。というのもワークの目的は流れに入り込む事ですし、もし流れに入り込んだ場合はその時にそれに応じた指導を受けることになる筈なので、その後の注意事項はその時で十分だからです。 ただ一つだけ、どの状況でも非常に役立つと思われる注意事項を一つ、 「あなたの視覚は、遠くの物体を近くにあるかのように見る特質を持っているということを銘記しなさい。追究する目的の近さに惑わされ、その美しさに目がくらみ、あなた自身の力の限界に無知であるため、あなたは道にある障害物に気付かず、小道を横切る無数の溝を見落とすだろう。花の咲き乱れる緑の草原や、うっそうとした草むらの陰に、深い絶壁が隠されている。目が足元に集中していないと、つまずき、絶壁を落下することになるだろう。 すべての注意を道の一番手近な部分に集中することを忘れてはいけない。絶壁を落下したくないのなら、遠くの目標に気を取られてはいけない。」 我々の通常の生活の範囲内ではこういった流れに突入した人間を見つけ出す事は不可能であるといってしまっても言いでしょう。ただし、こういう人間は、この「毒麦から小麦を分離する方法」を知るようになれば、ほんの少しだけ見つけることができるようになると思います。そしてそれらは多く、歴史上の責任ある立場にあった人物や、過去に存在した芸術家などに見つけることができます。僕がここで言いたいのは、オカルトやスピリチュアルの世界にこういった人物を見つける事はほとんどできないということと、世界全体を過去から見渡せば、そういう人物は平均的にいろいろなところに、ほんの少しだけ見つけることができるということです。 なぜそういうことが判断できるのかというと、ある人物が「秘密」を知らなければすることが不可能であるようなことを成し遂げている場合、そしてまったく普通の人間とは違う「存在」を持っている場合にです。それは多く、その人の持つ欲求から判断することができます。ある人物が言っていること(説得しようとしていること)を見れば、その人の欲求がどこにあるのかがかなり深く、細かい部分までわかりますし、その人のとる行動、また残す作品などからその底にどういう欲求があったのかを見る事ができるからです。 話が少しずれましたが、こういうことはスピリチュアルの世界に限ってあるのではないのだということ、すべての世界の裏にこのエソテリックの流れは存在していて、スピリチュアルの世界がもっともインチキの横行している場所であるというのが僕の印象です。 それにスピリチュアルの世界には、あたかも自分がこういった流れに入り込んだと主張するような人があふれるほどいますが、もしその流れに本当に入り込んだ人間がいたらその人は絶対にそのことをを言いませんし、ほのめかしたりもしませんので、それだけでも簡単に判断することができますが、さらに彼らの欲求をみれば、これはほとんどお粗末なほど幼稚な欲求にしたがっているからこそ、そういうことを主張されている有名なグル様もたくさんいらっしゃるようです。 間違った道を突き進んだりという危険を冒さないようにするために、また精神異常の道に入り込まないために、この「毒麦から小麦を分離する方法」を学ぶ事は非常に大切なことだと思います。 皆さんこんにちは。前回に書いたように、オクターブの法則に逆らう為に、1918年の講義の内容の続きを意地になって(w)書いたのですが、事実この記事を書くのに5日間ほど(いや、もっとか?)かかってしまいました。今興味のあまりない問題について書くのは非常に辛い作業だったので、もう今回きりで全部書いてしまおうと思ってがんばりました。読みにくい部分があるかもしれませんが、ご容赦ください。これ以上は無理です・・(w)。
それでは話を進めていこうと思います。前回までで書いて来たように、もしも「人間の現状」を少しでも見るほど自分に誠実であることができたなら、「自己」というものは自分には存在しないのだということ、そして自由意志も持ってはいないのだということ、そしてそのままではどこにも進めないということをこの目で確認することもできるわけです。グルジェフの講義は続きます。 「探求している人々に出会い、話を聞き、適切な本を読む事により、人は自己発達に関する問題の領域に、徐々に引き入れられることになる。 しかしここで何に出会うだろうか? はじめに出会うのは。精神無能からの脱出を求めるだまされやすい人々をたぶらかす、金銭欲だけに基づいた、このうえないいんちきである。」 グルジェフのこの講義をした時代のロシアと現代の日本(また僕の住んでいるフランスもそうですが)ではまったく状況が違うにもかかわらず、このことに関してはまったくどの場所でも状況は同じようですね。本当の「知識」を求めるのは誰にとってもおそろしく難しいことですから・・。 例え話の天才、グルジェフ氏はこのことを例えて「毒麦から小麦を分離する作業」と言っていますが、これは思わず笑ってしまうほどその通りですよね。あまりにも大量にある毒麦の中から小麦だけを取り出すわけですが、細かすぎて作業がはかどらないし、つぶが小さいだけに必要な分だけ取り出すには本当に骨が折れるわけですw。 ”分離作業”そのものに慣れるのに時間がかかる上に、作業は実に地味で骨が折れるものですから、そうこうするうちに、真理を見いだそうとする衝動そのものがゆらぐか、またひどい場合には、探求する意思そのものが病的に歪められ(もちろん毒麦ばかりが巷間に流布しているからですが)、精神をひどく害してしまうことだってあるといいます。 その第一の沼地を幸運にも脱することに成功したとしても、次にやってくるのは「似非知識」という新しい泥沼だったりするんですね(いや、むしろここで真の知識に出会う事の方がずっとまれでしょう。事実、1%もないのじゃないでしょうか)。 こういった似非知識は、隠れた能力や機能を開発する方法、少し辛抱すればたいした困難なしに、あらゆるもの(自分や、他の物)を制する力を約束されたりします。グルジェフは、生半可に実証主義を教えられ、生半可に教育された人たちに、こういった類いのものは独特な魅力を持つと言っています(現代の平均的な日本人すべてがそこに入りますよね)。 グルジェフは続けます。「この分野に精通していると自任している(自称している)人が示す自己開発の方法が非常に危険であるのは、「人間有機体という複雑で未知に近い機械と、その機械と密接につながった「精神」と呼ばれる生の一面をこうした自己開発方法によって扱うことは実践中のちょっとした間違いや、最も小さい誤り、また過剰の圧力が、機械に(つまり人間のことです)修繕不可能な被害を与えることにもなってしまうからだ」と。 そんなふうに何かを求めようとする人間には、ほとんど罠だらけのこの世の中のですが、これらのことがどれほど深刻な問題なのかを、精神世界に関わる傾向を持つ人は、どうしても人ごとのようには考えられませんよね。 「この泥沼から無傷で逃れることができればまったく幸運である。不幸にも、霊的能力や機能の開発に没頭している人たちの非常に多くが、人生に適応できない全くの疾患者になるほど、健康と精神を損ねている。こうした連中の数は神秘的なものなら何でも想いこがれて、似非神秘主義に惹き付けられる仲間によってふくれあがる。」 こういう問題について思いを巡らせると、霊能力を持つと言い、それらを使って何らかの活動をしている人たちの多くが、ひどい癌になって死んでいくのは偶然なのであろうかということを考えてしまいます。グルジェフが言うように、我々の有機体は非常に複雑で "未知に近い" ものなので、なんらかの力を強制的に加えると、本当に何かを完全に壊してしまうことになるというのは実は僕には非常に納得のいくことです。 そういった霊能力者などをそれほど多くを知っているわけではありませんが、そういった話を聞くとほとんどが、その霊能者の中に非常に幼稚な欲求を簡単に見つけることができます。自己顕示欲、支配欲、差別的傾向。それから強い恐怖心、そして単純な弱さなどもよく観察することができます。こういった幼稚な欲求また、弱さに基づいて活動をする "霊能者" といういうのは実に害でしかないというふうに僕は考えます。というのはそういう力を使って(そが嘘でも本当でも)何かをするその向かう先、ゴールがまったく稚拙で何の意味もない物に向かっているのですから。いや、何も意味がなければまだいい方だと思います。仮にそういった霊能者になんらかの力があったとしたら、これはさらに大変なことです。それこそ彼自身のみならず、その他多くの人の精神をめちゃくちゃに害してしまうはずですから。(使う本人の存在のレベルを越えている力ほど悪い物はこの世にないのです。大金だとか、巨大な権力、核爆弾とかと一緒です。) そういう能力者に群がる、能力の開発を求める人たちが、期待した特質を獲得できる望みが少なくなった時には、意図的なぺてんの手に陥るのはとても簡単ですよね。そんなわけで悪循環はどんどん進行してしまうわけです。 これに続いて、めちゃめちゃに面白いエピソードがでているので、今回の記事の終わりにこれをそのまま引用ておこうと思います。 それではお楽しみあれ。 「私は(グルジェフのことです)思い出す。裕福で、多読家で、奇跡的なものをおかまいなく探して広く遍歴し、あげくの果てに破産し、同時に、自分の研究のいっさいに幻滅を感じた、ある超自然能力研究者のことである。 彼は、他の生計手段を模索中、彼が莫大な金とエネルギーをつぎこんだ似非知識を活用することを思いついた。そう思いつくや、実行した。そして、「超能力開発コース」というような、オカルト書の表紙を飾る題名を持つ本を書いた。 このコースは7つの講義からなり、磁化現象、催眠術、テレパシー、透視、霊聴、アストラル界への脱出、空中浮遊、その他の眩惑的能力開発の秘法に関する短い百科事典であった。「コース」は広く宣伝され、非常に高い値段で販売された。 こういう問題に対する一般の関心のおかげで、「コース」の成功は、著者のあらゆる期待を上回った。まもなく、購入者たちから熱狂的で敬意に満ちた、うやうやしい調子の手紙が寄せられた。手紙は「親愛なる師」とか「賢明なる指導者」と呼びかけ、さまざまな神秘的能力を並はずれて速く発達させる可能性を与えた素晴らしい解説と、”最も役に立つ教え”に対して、深い謝意を表していた。 こうした手紙はかなりの数にのぼり、その一つ一つが彼を驚かせた。ついに、彼の「コース」に助けられて、一ヶ月ばかりのうちに空中浮遊ができるようになったことを知らせる手紙が来た。確かに、彼の驚愕も限界に達した。 彼が実際に語った言葉はこうである。「起こることの馬鹿らしさには驚くばかりだ。「コース」を書いた私が、自分の教える現象の本質について、たいしてはっきりした概念を持っていない。それでも、阿呆たちは、ちんぷんかんぷんの中に、自己流による方法を見つけるだけでなく、何かを修得し、ついには、ある超阿呆が空中浮遊さえ修得した。もちろん、まったくのナンセンスだ。消え失せればいい。じきに拘束服を着せられるだろう。それが分相応の扱いだ。そういう馬鹿どもがいなければ、もっと気が安まるというものだ。」」 今年の夏はドイツでのプロジェクトが終わった後、南フランスの友人のところを尋ねて10日間ほどダイビングなどをして遊んできました。プロジェクト、休暇を含めてこれほど長い間移動していると、新たに観察できることも多いですし、ワークという意味においては取り組むべきテーマが次々と出て来ます。そうしてブログの記事を書こうと思ったときに、書くべきいろいろな面白いテーマがあるように思うのですが、どうも今は自分の書きたいことを書くことをやめて、今まで続けて来た通り、グルジェフの講義の内容を(今の自分にはそれほど興味のないテーマを)書き続けていこうと思います。
というのも、自分の気分のおもむくまま記事を書いてしまうと、どうしてもオクターブの法則に逆らう事ができないからで、それは記事を書くという意味だけでなく、ワークを進めていく意味でも自分の興味があること、今やりたいと思うことをやっていたのでは、次々と変化する自動的な連想の思うがままにワークをすることになるので、それでは進みたいと思う方向に進むことはできないわけです(オクターブの法則については過去の記事、カテゴリーの「奇跡を求めて」などを参考にしてください)。 それゆえにグルジェフは「何か目標をたてて実行しなさい」と言っています。人は結果を得る為に何か大きな事をやりたいと思う傾向があるものですが、グルジェフは「小さいことを目標にしてそれを自分の神にしなさい」という風に教えています。目標を立てた時点の自分の意思を最後までやり通すということは、その他の自分の意志に動かされず何かをするという意味で(この意味がわかるためには「複数の私」という概念をわかる必要がありますが、それも初期の記事から参照してみてください)、それだけでも大きな苦悩と、摩擦を呼ぶ事ができるわけです。 といっている先から別のテーマについて書き始めてしまいました。これも僕の連想のなせるわざで、オクターブの法則に逆らう事ができなかったことの好例です。。 それでは再び、1918年のグルジェフの講義について話を始めましょう。 今まではこの講義について、自由意志の欠如ということにテーマをしぼって記事を書いて来ましたが、グルジェフがこの講義で指していることは、「人間の現状」です。我々が「自己」と呼べるものを持っていないという事実、そして「自由意志」と呼べるものもそれがゆえに持ちようがないという事実、そしてそのままではどこにも進むことはできないという事実、これらはグルジェフがほとんど常に強調しているように、文字通り完全にどの人間にも同様にそうなのです。まずはそのことを完全に近い形で理解することが非常に重要なことで、その事実を見る為には今までも書いて来たように、徹底した内外の観察とかなりの自己研究が不可欠です。ただ読んで、またただ聞いて何かを理解するということでは、このことを「理解」することはまったく不可能なことは、哲学や科学では理解不能であるいう例でも挙げたように、明らかなことです。 これをグルジェフは「機械性」と名付けていますが、それは「自分、そしてすべての人間が外的な要因に反応して動いているだけの存在である」ということを指しています。 そしてひとたびこのことを理解した場合、ある意味ナイーブな、自分はこういった人間であるとか、自分は他に比べてましな人間であるとか、何かの結果に近づいているだとか、そういった空想を持つ事は不可能になります。その場に立った場合はすでに、自分の事実を自分の目で見ているわけですから。 「そのような考え方は人生をシニカルに(冷笑的に)見るようになりませんか?」という質問に対して、グルジェフはこのように答えています。「これを頭で理解しただけではシニカルになる。しかし全存在で理解したときにはシニカルになっている暇はない。ただちに選択をせまられることになる。完全に機械として生きていくか、完全に人間になるかのどちらかだ」と。実際には、もしこの選択肢をせまられるようなことがあった場合、おそらくはどんな人も「人間」になるためのワークに入っていく事でしょう。なぜなら、その事実を見るまでに観察してきた自己、他人、そして社会の状況をすべて忘れてしまうことなど不可能だからです。そうしてワークに入っていった場合、その真剣さ故に、冷笑的であるということは不可能になるのです。 というわけで話を進めていきますが、グルジェフはこのあと、ワークを志そうと思った人たちに待ち構えている罠に付いて、今度はユーモアを含めつつ話しています。 今日はここまで。結局話が進みませんでした(笑)。 |





