2007/02/14 (Wed) 何の為に口をきくのか
長い事ご無沙汰していたような気がします。
この間いろいろなことを考えてました。それで更新をする機会がなかったわけなのですが、特になぜ何も書かなかったのかと言いますと、いままでしばらくの間自分がこのブログで不必要な「おしゃべり」をしすぎていたのではないかという感覚があったからです。
一体何の為に口をきくのか。これは実に重要なテーマですが、われわれ人間は普通そのことを意識することはありません。でも、これを意識する事は実に「自己想起」のために非常に役に立つことです。というのも、このことで、自分が何かを外に発する前に意図的になりますから、自分の世界の中に起こっている事に気付いていることができます。そして何かを発するときには、外の世界の状況と自分の意図をもとに何かを発する事になりますから、自分の世界と、自分の外の世界を同時に意識する事ができるのです。
そして何を言うべきか(何を発するべきか)を「知る事」は自分自身と外の世界との関係性を自分の意思で作ることでもあります。
前回の記事で、自分が何を摂取するのか(印象、食物など)を選択することが非常に重要だということを書きましたが、そんなわけで、自分が外の世界に発するものも同時に非常に重要だと思います。

ここしばらく自分が記事を書いていた動機がなんだったのか、そういった動機によって発した記事がいったい人に何を運んだのか。これは実に真剣になるべき問題だと考えていたわけです。

これはもちろん通常の会話でも同じです。この視点から考えると、自分が普段、実にとんでもなく害のある発言をたくさんしているのだということに気付くことになりました。
それは、まったく油断しているときにはいつでも「起こって」います。何の覚悟もなく、何の意図もなく、ただ楽しい気持ちでとか、ただ楽な気持ちで習慣的に友人と会話している時などは、普通に自他に害を及ぼす発言がどんどん出てくるようです。
それは自分の心に依っているように思います。最近の記事で研究していたように、自分の心の中はまったくコントロールすることができませんし、われわれが深いところに持っている習慣的な心は(それは思考、感情、本能すべてに含まれているものだと思います)実に馬鹿げた、仏教の言葉でいえば「無明」の原則の中に組み立てられていますから、そこから自動的にでてくる発言は非常に害のあるものばかりなのです。そこにはどんな人間にもぬぐい去る事はほとんど不可能である、虚栄、自己愛、偏見(そこから二次的に発する、空想、傲慢、憎悪、羨望、狡猾、偽善、卑屈など)が含まれていて、そんなものが「意図的でない場合はいつでも」次々に自動的にでてきてしまうわけですから、われわれが眠っている限り自分の発言(発現)にかなりの責任意識を持っていないと、なかなか前に進む事は容易ではないように思われる訳です。

こうして書いている自分の中にもいろいろな「害」を見る事ができます。
これはなかなか難しい事で、普段あまり自分の言う事について「考えて」いると、必要なことも何も言えなくなるということが起こります(それは思考センターの動きは非常に遅いので、考えていては状況に追いつけなくなるわけですよね)。それなので、結局は自分の発する事すべてにおいて自分が意識を持っているということ以上のことはできないと思われます。ただ意識をもっていることができるなら、害にも気付いていることができますし、もし気付いていられるのなら、その害も最小限におさえることは可能であるように思われます。


そんなわけで、これから少しコンセプトを変更する可能性があります。自分がこのブログの記事を書く動機にもう少し責任感を持てるようにしていこうと思います。
2007/02/05 (Mon) コントロールの不可能性
ひさしぶりに更新します。
ここ2週間ほどの間。とりあえず気付いたことを実践しようと継続的に取り組むことができたと、まあ、ある程度は”自分の行った事にたいして”満足はしています。
しかし、そしてここまで来てわかった事は、自分には本当にいかなる意味での自己をコントロールする能力もないのだということでした。本当に継続して来た「行」がまったく意味をなしていなかったと覚るにいたったのですが、今回は全力を尽くして行うことができたために、自分の限界を知ることができたという意味で、新たな発見にいたったのだと思います。

というのも、自分である程度はコントロールしているつもりだった、また別の言い方をすれば、ある部分は意識を持ったままで行動をし続けられると思っていたところが(でも、実はそれも事実なのです。2週間にわたって自分の課した行に集中していられる、それを忘れないでいられるのは意識を継続できていたからにほかありませんから)、実は本当の自分自身はもっともっと自分の深いところに存在していて、それを意識できていない限りは、自分は「そいつ」のいいなりなのだということがわかってきた、とでも言いましょうか。

今「そいつ」といいましたが、これはもちろん自分の無意識の中にいる存在の事です。そしてそれは実に複数いて、別々のタイミングで別々の反応として現れて来ますから、「そいつら」と言ったほうがいいのかもしれません。ここで「そいつら」に「〜センター」とか「〜センター」とか名前をつけることも可能かもしれませんが、ここではあまり意味がなさそうなので省きます。その「そいつら」はいわゆる分析心理学でいう「潜在意識」に属しているものなのだと思いますが、実はわれわれはこの上に意識というものを築いていますので、これがコントロールできない限りは、「自分のコントロール」など不可能なのだということが、あからさまにわかってしまったのでした。

てなわけで、コントロールができないがために、わかってはいるにもかかわらず、自分に害のあるようなことを繰り返し行ってしまうのがさけられないのです。

いやー、これは実にいいことに気付きました。これに気付いた事によって、ある意味では「自己コントロール」は不可能だ、ということが明らかになったわけです。まあ、少なくとも通常の状態では不可能であるということは完全に明らかですね。潜在意識がある限りはそれをコントロールできないわけですし、常識的に考えて潜在意識をすべて通常の意識下にもってくることはできませんから。


ではどうしましょうか。という話になるわけですが・・、本当にどうしましょうかww。

そこで思った事。まあ、意識をただ強化しても自分をコントロールするところまでは至れないのだということが明らかになったわけですが、それでもなお実践可能なことはいろいろとあるのです。
例えば、ある程度の自己観察の繰り返しと、それによる「理解」を蓄積するとですね、少なくとも自分の意識下にあるものは、自分の意思が続いている間に限ってはコントロールできるわけです。それによって自分の生をオーガナイズすることができます。
こういう状況を観察してみて思ったのは、自分が外界から摂取するものをオーガナイズすることが大切だという事でした。
まずはそのうちの「印象」です。これは「3種類の食物」の概念をよく理解して欲しいのですが(「奇跡を求めて」とかこのブログの過去の記事で参照できます)、その内の「印象」も自分で何を摂取するかを選択する事がある程度はできます。つまりは、とりあえず変な物を見なければいいんですよねw。 例えばこの世の中にはおかしなものがあふれていると思います。
これはほんの例ですが、先週フランクフルトに行っていましてですね、そこで日本人の知人の家にお邪魔したのですが、そこで子供たちが日本のドラマを見ていたんですね。まあ、そのドラマを僕もなんとなく見ていたのですが、これがとてつもなくくだらないんですよw。うーん。人物の観察力がゼロだし、根底にある「善」の意識が貧弱すぎるし、まあとにかく全国民的な暇つぶしです。僕はそんなドラマにまったく自己同一化せず、みるともなく見ていました。そして、何がどう「眠っているのか」をしっかり観察していましたし、なぜこういうものを日本の国民がこぞって喜ぶのかなど、いろいろ考えつつ見ていました。しかし・・。にもかかわらずです。それほど冷静に、自己同一化することもなく見ていたにもかかわらず、その後で自分を観察すると自分の中にいろいろな空想がよぎるようになっているではないですか!正直驚きました。こういったドラマにこれほど強く、人を白昼夢に浸らせる「力」があるということに!! もちろんそういった空想は人間の弱さの最も代表的な例で、これは驚くほど大量のエネルギーを「思考センター」から奪っていきますので、こういった「ドラマ」って本当にものすごい害を人間にもたらす大発明品なんですねw。うーん恐るべしです^^;
ちょっと話がそれてしまいましたが、そんなふうに世の中にはまったく「真の意味で」人間の害になるようなものがたくさんあふれていますが、そういうものを印象として自分の中に入れないということも、実に役立つ筈なんです。
それは通常の食事も同じで、本当に意思をもって食事を選択していくならそれがどれほど動作・本能センターの助けになるかわかりません。


そんなわけで、自分をコントロールするという目標はずっと先の目標である(これは要するに個体性を持つようにならなくては不可能だということだと思います)ということがわかったところで、自分に積み重ねて行く努力として、これらのことができる筈であるという話でした。
ただし、気をつけてください。摂取するものをコントロールするということは、実はこれもかなりアドヴァンスです(前回書いたようにパートクドルグ義務もかなりアドヴァンスなのですが)。というのも、例えばこのドラマの話でいいますと、これが害だからといって大のドラマ好きの人がいきなり今日からドラマという印象を摂取するのを完全に絶って、そのかわりにシュメールの石盤からギルガメッシュの叙事詩ばかりを読みますなんてことはできないじゃないですかww。そんなこと無理にしようものなら、ストレスで人間としてのバランスすら失ってしまうでしょう。習慣的に空想に浸ることを楽しみに生きて来た人は(それはほぼすべての人間のことですが)その楽しみに依存しているので、それをいきなりなくしてしまったらものすごいストレスを感じるし、それなしでは本当に息抜きもできない、テンションでめちゃくちゃになってしまう筈なんです。
それは食事についても同じでしょう。体に害のあるものをなぜそれほど摂取するのかと言えば、それがその人の精神に見合ったものだからで、その精神を持ち続けている限りはそういう身体に害を及ぼす食事をまったくとらないでいると、精神が満足することができずに、それによって健康を害してしまいます。
これは実にどんなワークに関することでも同じです。いきなり自分の習慣を無理矢理買えようとしても、それは単純にストレスを生んで、自分は墜落するだけです。ではその為に何をしなくてはならないか、それが結局「理解を得る」ということで、またいつもの繰り返しになりますが、その僕の言う意味での「理解」とは自己観察の結果の蓄積と、意識を持って何かをしたことの経験の蓄積でしか得る事はできないのです。



ちょっとだけ書くつもりがずいぶん長くなってしまいました・・。次回は、最近特に考えていた、自分の自動的に浮かび上がることしかできない「想念」のコントロールの不可能性、そしてそれがどれほど自分にとって害であるかということについて書いてみようかと思います。
2007/01/27 (Sat) 高次の物質について
ご無沙汰しておりました。だらだら過ごしてしまった2週間を過ぎて、また移動だったのですが、やはりびっしり引き締まりますね。今は非常にすっきりした気分で、しっかりゴールを見つめつつ生きているような気がします。僕にはおそらくのんびり生きる事は向いていないのでしょうね。

今考えている事は非常に単純なことです。
今になってようやく日常生活の中でパートクドルグ義務を遂行するということはどういうことなのかが非常によくわかったので、ただただこれを実践する事以外には特別何かを研究をする必要なんて全然ないなぁと思っております。
最近理解した事というのは、結局パートクドルグ義務というのは日常のあらゆる瞬間に「自分のしたくない」と思う事をすることです。こんなに単純なことになぜ今まで気付けなかったのか、まったく不思議に思う部分もあるのですが、実は答えは簡単です。それは、自分のしたくないことをする必要がどうしてもある、ということを受け入れたくないために、それを理解したくなかっただけなのでしょう。
というわけで、簡単なことだと書いたのですが、これには結構徹底した自己観察が不可欠だということが言えると思います。
というのも自分のことを観察することができないと、自分がどの瞬間に何を嫌がっているのかがわからない、つまり意識できていないからです。自己観察なしで意識の中に見えてくるのは、今あげたようなものを含めて、あらゆる言い訳というフィルターを通り抜けた感覚のみですから、これではどうしたって、最も必要としているワークに限ってさけてしまうようになってしまうのです。

そしてこの自己観察はしっかりと思考センター、感情センター、本能・動作センターの機能を区別して観察されたものでなくてはなりません。なぜなら自分のどの部分が、ある瞬間に、何を嫌がっているのかがわかることが、非常に重要だからです。

さて、こういう自己観察の土台が整えば、意図的に(これが非常に重要です)自分の嫌がっていることを行う、または逆に、自分のやりたがっている事をやらないことで、日常の中で常にパートクドルグ義務を行い続けることは可能だというのが最近わかってきたことです。
そうしてパートクドルグ義務をすると、又は単純に、自分の本当に嫌がっている事を意図的に行うと、自分の中にある不思議な感覚を感じます。それは僕の場合は多くの場合「脳」の部分に何かざわざわとした感覚を持つのですが、人に依って、また場合によっては体のいろいろな部分で感じることもあると思います。
僕の考えでは、その瞬間にグルジェフの言う「高次の物資」と呼ばれるようなものが生産されているのだと考えられるのです。この高次の物質はおそらくいろいろな種類があるはずですが、その種類を分けることはここでは重要ではないでしょう。これらは自己を磁化することに使われるそうで、この磁化現象によって、いろいろな自分に必要なものを引きつけることにもつながっていくようです(これは自分の放出している振動にかかわることですよね)。それからこの物質によって、思考センターから、又は自分の「理解」から感情センターをコントロールすることも可能にする(これは御者が馬を操るための「手綱」に例えられています)などいろいろな機能がありますが、われわれがこの物質をたくさん溜め込んで、この物質で身体をいっぱいいっぱいにしてしまうと、これが自然界で起こる事と同じように、結晶化を始めるのだそうで(食塩水が飽和料を越えると結晶化するのと同じです)、そうするとこの高次の物質は大きなかたまりとして自分の中に残りますので、そう簡単には失われることはなくなるそうです。この結晶化が起こる事がおそらく第2の体を形成する瞬間なのだと思うのですね。
まあ、逆に言うとですね。この高次の物質というのは結晶化する前は、もし作り出したとしても非常に簡単に失われてしまうのです。これはこのブログでもずいぶん前に研究しました「3層の工場」という概念を使えばわかり易いのですが、こういった高次の物質は非常に燃えやすいという特質を持っているので、ちょっとしたことで引火するし、引火すれば一瞬のうちに消え去ってしまうようなものなのです。
これは例えば怒りをもったりなんてしたら本当に一日分ためた高次物質は一瞬にしてすべて無駄に燃え尽きてしまうようです。またいらいらしたりとか、空想にひたったりとかの実際にすごくエネルギーを浪費してしまうような行為でも、簡単に引火して消えてしまうのがこの高次の物質です。

そんなふうに、この物質はためることに意義があって、これがたまればたまるほど、自分の中には確固たる自己が作られているようです。これをためる事に成功している時は(つまりある程度の期間にわたってパートクドルグ義務を続け、怒りなどを起こさずに、つまりそれを浪費しないでいられる時は)事実、他人の不快な発言など、いろいろな影響から独立していることが、普段よりかなりに楽にできるような気がします。まるで自分が慎重に貯めてきた高次の物質が自分自身を護ってくれるというぐらいの感じなんです。


さあ、そんな感じの高次の物質なのですが(これは僕の観察による感覚でものを言っているだけですから、これがグルジェフの言っている高次の物質と同じ物であるかは証明できないのですが)、ここまで理解してきて、それにしたがって行動していると、実に自分の行う行動はまるで”すばらしい仏教徒”のような感じになってくるのですよw。
結局人の嫌がる事をまったく文句も言わずせっせとやることになりますし、いらいらしたり、怒ったりで周りを嫌な気部にさせたりもだいぶ少なくて澄みますし、そんなわけで笑顔も絶やさないですし、実に行動そのものが落ち着いて来ますからね。
そしてこうして結晶化を目指してためていく「高次の物質」がなんなのかがわかってきますと、これは実に日本の仏教的文化から生まれた「徳」という概念のことなのではないかという気がしてくるんです。よく「徳の高い人」とか言うあの「徳」です。
ヨーロッパには実はこの「徳」にあたる言葉はないんです。「徳」は英語でvertue、ドイツ語でTugend、フランス語でvertuと訳されていますが、これは「美徳」のことで日本でいう「徳」とは全然違う意味なんですよね。

まあ、そんな「徳」ですが、これは実にパートクドルグ義務で、つまり意図的に苦悩することで貯める事ができますよ。というのが、僕の新しい理解でした。
(まったくだんだんはせいん教のようになってきましたねw、実は僕はすでに教祖とかになれてしまうかもしれませんよw。絶対にならないから安心してくださいねw)




P.S.

このようにしてパートクドルグ義務を遂行する事は意外と単純だというふうに書きましたが、実はこれはかなりアドヴァンスです。というのも、いままでこのブログで研究してきたようなことの理解なしに、またある程度の自己観察なしに、ただ意識的に自分の嫌な事をやろうとしても、おそらくあまり効果は期待できないと思うのです。それは結局、しっかりした「理解」なしにやると、その行為が真に「意図的」でありえないからです。 
というわけで、もしこれがしたいなぁと思われる方がいらっしゃいましたら(いや、本当にもしもいるのならですが)、やはりまずは自己観察を通していろいろなことの「理解」から徹底的に始めることをおすすめします。
これは少しアドヴァンスなので、「利他的な業」ですが、意識的に利己的になれない人には「利他的」にはなりようがないというのが、グルジェフの言っている事で、僕も本当にそう思うのです。そんなわけで、まずは意図的かつ「利己的な業」である「自己観察」で理解を得る事が非常に重要だと思います。
2007/01/19 (Fri) 危機感のある厳しい世界
ここのところ、いろいろなプロジェクトで忙しい時期が終わりまして、ある意味では落ち着いていろいろなことができるようになっております。そうしてみますと、むしろなかなか自分を保っていることが難しい、というか自分のゴールに向かって前に進む力のようなものが、危機感でいっぱいだった1週間前に比べたらずっと弱いのですよね。そうすると、自己自身もつまり身体的にも、精神的にもそして自己観察という意味においてもずっと力が弱い、いろいろなことが「まあ、このぐらいはいいか」というふうになってしまうし、実際、危機のおとずれようのない日常では、まあ何に関しても本当に「このぐらいでいい」わけです。
結局そういう意味で、自分にせまる危機感、強烈な不快感、しかし自分の目標のためにやりきらねばならないという状況、なんとしてもそこに存在し続けていなくてはならない状況というものがいかに自分を助けていたか、そして本当の意味で前に進むためにはどれほどその「険しさ」が必要なのかということを考えさせられています。
結局グルジェフが言うようにわれわれ人間は自分をコントロールするような力は一切持っていないので、ある状況の中に飛び込んで行く、決して自己を沈静化させない厳しいところに身をおかないと、どうしようもない、また、逆に言えばそういう状況を作り出してその中に居続けることでワークをする可能性というのが作れるのかもしれないということだと思うのです。



そんな中で全然関係ない話になるのですが、僕のすごく仲良くしている友人の中にフランス人のダイバーがいます。彼は本当の専門家で、チャンピオンとかではありませんが、フランスのダイビング会の中心にいて活動をしている人です。そんな彼と今日たまたま話の流れからダイビングの大会の話になったんですね。フランスのダイバーって言ったら例の有名なリュック・ベッソンの「グラン・ブルー」があるじゃないですか。あれに出てくるジャックマイヨールとかあそこに表現されているような世界が彼のいる世界なんですよね。
昔は彼も競技会などに参加していたそうですが、彼はジャックマイヨールがやっていたような、100m以上を6分とかかけて、酸素なしのマスクなしでただ潜るというような種目にはでていなかったそうです。ただ、彼が出ていた種目で2mぐらいのところにもぐってまったく動かずただ息を止めているという種目があるらしいですが、彼は4分53秒が記録でそれ以上はできなかったということです。とはいえその記録だって十分すごいように思いますが、彼の友人でもある世界記録の保持者は7分間といいますから、それに比べたらまあ全然、ってことなのでしょう。
そこで聞いたんですけどね、有名なジャックマイヨールのやっていた競技は機械を使ってすごいスピードで100mとかまで潜りますが、帰りは自分で泳いで上に上がってくる訳じゃないですか。で、動くのと止まっているのとやっぱり違う物なのかということを尋ねてみたんです。
彼が言うにはそりゃまあ、全然違うということなのですが、動くとかどうかとかそんな世界ではなくて、息を止めて長時間潜っていると、一瞬何かを考えたり、ほんのちょっとした思考の変化があっただけで30秒は記録が短くなってしまうというのですよ!興味深いと思いませんか?? 
動きたいとか思ったり、動いていることを想像したりするだけでもだめなんだそうなんです。
さらにですね、例えば記録について考えたりとか、なんかの不安、まあ自尊心うや虚栄心からの不安とかでてきたとしたらもうおしまいで、そのあと20秒もすれば苦しくなって上に上がらざるおえなくなるというんですよね。
いやー、これで僕が何を思ったのかといいますと、以前にエネルギーをいかに浪費しないで目的に使うかということを考察していたときに、思考センターがのべつまくなしにやっている連想がどれほどエネルギーの浪費につながるのかということを観察していたわけですが、ここにこの顕著な例があるではないですか!そして不安が出ようものならその時点でもう耐えていられなくなるというのも面白いと思うのは、そっちは感情センターの働きと言えるように思うのですが、感情センターがちょっとでも否定的に働こうものならもう貯めようとしたエネルギーは全部一気に垂れ流されてしまうということなのではないでしょうか。


まあ今日はそんなわけで、友人の興味深い話を聞いたという話でした。


2007/01/13 (Sat) 仕切り直しが必要ですね
クリスマスの前だったかその辺りに、今の自分に「知識」の不足を感じるため、今までして来たことよりももっと多くのものを知って行くことに力を使うべきであるというようなことを書きました(参照)。しかしその後いろいろなツアーを重ねてワークに取り組んでいくなかにまったく違う考え方を持つようになりました。
それはもちろん今までにもかなり書いて来た、「未発達の感情センター」の問題です。僕はここのところのツアーでの歌うことを含めたいろいろな実験、その経験から僕の感情センターが他のセンターに比べてものすごく幼稚であるということを痛いほど理解しました(これは文字通り痛い思いをしてきました)。
自分の感情センターとはいったい何なのか、誰なのかということを理解してくると、この感情センターは僕の中枢部(センター)の中で唯一まったくコントロールが不可能なセンターであるということが嫌というほどわかってきました。というよりはなぜ今までにそんなことに気付いていなかったのかと思えるほどです。
思考や身体はいつでも意識しようと思えば意識できる、また(それがたとえ不完全だとしても)使おうと思えば使えるのに対して、感情センターに関してそれがいったいどこにあるのかさえ、普通の状態では感じる事ができない、そして何か不快なことが起こったとき、また心地よいことが起こったときにのみ(そのときたまたま自己観察を続けていれば)その存在を意識する事ができる程度なわけです。
その様にして何かが起こった時に感情センターが反応を起こすわけですが、その反応は絶対にコントロールすることができません。押し込める、見てみぬふりをするということは可能ですがコントロールは絶対にできないわけです。また逆に(それこそが僕のできるようになりたいことなのですが)必要に応じて自分の感情センターを活動的な状態にもってくるということもまったく不可能です。
そんなふうに、自分の持っているセンターの中で、この感情センターに限っていえば、完全に起こるようにしか起こらない。ある意味、ここは自分の内部の3分の一のぽっかり空いた穴であるかのごとく、自分の意思は一切介在することができないところなのです。

そんな感情センターの弱さをもったままでは、いかなる知識も偏った形でしか入ってこないではないか。というのが今の僕の考えです。
グルジェフは3つのセンターが平均的に発達している人だけを「人間」と呼ぶ事ができると言っています。そしてあらゆる外界からの印象を受け取ることにしても、この3つのセンターが同じように発達していなくては、偏った部分でしか印象を受け取る事ができないので、それは常に不完全な、むしろ有害ですらある印象しか受け入れることができないということを説明しています。それならば、もちろん今自分が無理に得ようとする「知識」などもほとんどは思考センターの中に入ってくる「情報」以上にはなれず、ほんの少しそこに身体感覚の印象が伴う程度でしかあり得ないでしょう。あらゆる情報、印象は、常に3つのセンターがそれぞれを観察し合う状態から受け取らなくては、その真実を知る事がはできないだけでなく、それを本当に使用可能であるように記憶にとどめておく事はできないということなので、今は少なくともこの圧倒的に未発達な感情センターをなんとかしないと何も起こらないだろうと考えなおしたのです。

ああ、しかしこの感情センターをまともな状態までもってくるのにどれほど時間がかかることでしょう。おそらくこれは1年2年でなんとかなるようなものではないんです。もしかしたら2年ほど死ぬ気になって努力を続ければ(本当に続けられれば)なんとか感情センターを成長させる”方法”を見つけることができるぐらいなのではないでしょうか。そしてそれが実際に成長するにはその後じっくり時間をかけなくては成長してはくれない筈なのです。注) 
こんな風にして僕の人生は過ぎ去って行ってしまうと本当に思ってます。いくら全力をもって先に進もうと思っても、まったく自分の人生の長さで自分の必要と思われることをやりきることができそうにないではないですか。



注)というのも、グルジェフはこの感情センターに関しては、長期間をかけなくてはなかなか成長してくれないセンターであるということを説明しているんですよね。そして僕の経験から、自分の「考え方」というのは新しい理解を得ることによってかなり簡単に変えられることに対して、感情センターのあり方はよほどの苦痛が長期間かさなったとしても、そう容易には変わってくれないということを良く知っているんです。
僕が師と出会いワークを始めた8年ほど前から、僕と師とのワークというのは僕の過去に持っていた習慣的なあらゆるものを破壊することに重点が置かれていました。それは身体的な習慣も含めて、思考、感情の習慣を師はあらゆる手を使ってことごとく破壊してくれました(その手というのは師からの意図的なあらゆる種類の不快なショックでした)。そしてその破壊したところからすべてをゼロから積み上げ直していったわけなのですが、その中で思考センターに関わることというのは、一番簡単に破壊でき、それは積み上げるごとにいちいち破壊され新しい物に作り変えるという作業をおそらく2ヶ月に一回ぐらいの割合で次々に行っていたように思います、それに対して身体的な習慣を一番最初に破壊できるようになったのは、ワークを始めたから3年ほど立ってからのことだったように思われます。しかし、それに関してはその後順番にですが、だんだんに変化することが可能でした。それに対して感情センターは、本当に長年の間非常につらい苦痛を体験し続けていたにも関わらず、最初にその習慣が変わり始める兆候が見えたのがほんの1年半とか前で、その時はすでに師と別れを告げる直前でした。それほどに感情センターの習慣のというのは頑固に自分の世界に閉じこもっているのだということを、体験から理解しているのです。



P.S. ついでにちょっと軽い話を書きますが、

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このブログはある程度グルジェフを知っている方を対象に書かれています。解りづらいことがある場合は、このプログの初期の記事を読むか、ウスペンキーの「奇跡を求めて」など、一般的なグルジェフの入門書から読まれることをお勧めします。

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