2007/04/21 (Sat) 言語を通さない理解と会話
どうも、こんにちは。
きのう友人の家でパーティがありまして(フランスは今休日です)、非常に楽しい時を過ごしました。パーティの主催のフランス人の家に世界のいろいろな国の地理や歴史を写真付きで解説した非常に立派な全集がありまして、そこに日本の巻もあったので、なんとなく開いてみたんです。みなさんけっこう日本に興味があるみたいで、いろいろと質問をされました。
そんな中で一つ、何世紀頃のかはちょっとわからなかったのですが、かなり古い(おそらく鎌倉時代のはじめとかだと思います)仏教画がありまして、それに非常に興味をもった女性がいました。それは10界を表した図で中心に「心」という字が書かれていてその周りに、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏の10界が描かれているんです。
その子に内容を説明するように言われて、たまたまそれを知っていたので、説明しておりました。

だいたいこんな感じです。

「地獄っていったらhellの地獄でしょ?それから餓鬼ってのは、必要のないものでもなんでも欲しがる、自分のものとしたがる世界、3番目の畜生っていうのは、お互いに食べ合って、本能、つまり食べる、寝る、性交だけの世界、4番目の修羅はお互いを憎み合い、争い続ける世界、5番目が人間で、天上界は仏の世界と人間の世界の境目で、キリスト教でいう天使みたいに、仏の世界を護り、けがそうとする物を攻撃もする。この6つから上の世界は、まったく別の世界で4つに別れているけど、自分たち人間には理解できない世界なんだよ。」

って言ったんですね。僕がよく説明できないというのもあったのですが、事実我々は自分たちを越えた世界にことについて想像することはできないのですから(思議する事難し、ってわけです)その説明もありかなぁとか思ってたわけです。

続いて、
「これには六道輪廻って言葉があって、この6つの世界を越えるまでは自分たちの心は常に移り変わって、あるとき天上界のような心だったとしても、次の瞬間には地獄のような心になるし、絶対に安定することができないのだけど、この六道を越えることができたら、もう下の世界には戻らないということ(解脱ですね)で、仏教ではこれがある意味最初の目標になるんだよ。」

僕はこの六道輪廻に対してこういう考え方を持っているんです。我々が生きている人間界から、死んだ後別の世界に生まれ変わるというのももしかしたらそうなのかもしれないですが、僕はむしろこの現実の世界での心のあり方が、常にこの六道を輪廻し続けているという捉え方がピンとくるんです。で、実際この仏教画の10界が描かれた中心には「心」という字が書かれているので、この作者もそういうことを表していたのではないかと考えられると思うんです。

で、ここまでその友人に説明してふと思う事があったんです。

まてよ?常に入れ替わっている心??
そりゃ「複数の私」じゃないか。

常に入れ替わっている自分から、もう下には戻らなくなる最初の目標??
それは「統一した自分」を持つ事じゃないか!
ということはそれが第2の体を持ち始める時と同じ事を意味していることになるのでは?!

とか思ったんです。
うーん。ということはこの説明できない(理解は不可能である)4つの世界、「声聞」「縁覚」「菩薩」「仏」というのも、第2、第3、第4の体と対応して考えて、それと惑星世界の法則(24の法則)と太陽の世界の法則(12の法則)を合わせて考えれば、その思議しがたき世界をなんとなくなら理解できないこともないのか?!とかそんなことを突然思ったのでした。

もちろんそんなことは、彼女の為に危険なので話しませんでしたが、僕は一人で「うーん、面白い。」と唸っていたのでした。
彼女はこの絵が非常に気に入ったらしく、もう夜も遅くみんな疲れきっていてばらばらになっていたこともあって、30分ほどの間一人でその絵を眺めていたようでした。
それからまた僕のところに来て、
「いや、これらの人間界より下の世界。私は本当によく知っているわ」と話始めたんです。「自分の人生の中で、この下の世界、例えばこれとか(餓鬼の世界を指して)、もうこの世界を知り尽くすってほど私はこういう心を体験して来た」「そういう考えかたから言えば、私は地獄だってよーく知ってる・・」「そして自分がいろんな瞬間にすぐにこういう世界の中に入り込んでしまうというのもよく理解できるわ」
ってまあ、そんなことを言うんですね。
彼女は僕のほんの少しの説明を聞いて、その後長い時間これらの絵を眺めることで、これら10界の意味していること、指している内容をかなり正確な方向で理解したようなのですね。それから後いろいろ話しました。「こういうときにはこういった心が起こるし、例えばそんなのは誰の心にもあるけど、これはこの世界のことだよね」とか、いろいろなシチュエーションでの心のあり方について。
僕はそんな風に、全く違う文化の人が、ある芸術を通して、ほとんど言語的な理解を介さずにこういうものを理解し、そのことについて1時間とかの間いろんな発見を含みながら、そして僕にも新たな発見をもたらして話をできるということにえらく感動したんです。

これこそが「芸術」なんですよ。芸術というのはその物に膨大な量の意味をもっていて、その作品と一対一で相対して何時間でも会話ができ、また見るたびに新たな発見ができ、一生かけてもその意味を汲み尽くすことができないようなそういう物のことなのです。それが「芸術」であって、普通に芸術といわれているものは、ほとんどすべてが、こういう世界から見ればチリほどの価値もないものばかり。ただただ雰囲気を与えるだけの何の意味も持たない物。又は人間の、非常に低い世界の感情的自己同一化のそのまた一部分の表現でしかないものしかありません。


そんな中で、こういう本物の芸術が日本の仏教文化の中に存在していて、さらにここから何かを汲み取れるほどの何かを、しかも完全な異文化のヨーロッパ人と共有し、これほど長い時間にわたって、この芸術作品と”3人”で「会話」ができるようなことが起こった事に非常に感動したのでした。
2007/04/07 (Sat) 自爆プログラム
どうも、お久しぶりです。
第3期なんて名前をつけてしまったんですけども、どうもこの第3期のコンセプトというのは、プログにまったく適していないということが後になってわかりました。まあ、つまりはこの第3期、自分の向上のためだけにすべてのことをして来たところを、他人の向上のために自分の能力を使うというワークに切り替えるということだったんですが、これをやるように努力するということは、あまった時間をほとんど誰かと会って何かをすることに費やすようになって、ブログを書く時間ができないという技術的問題がまずあることに気付きました。
で、大事な本質的問題はですねw。いままで僕がブログを書いていた理由というのは、自分自身のワークを少しでも他人との関係の中に置く事で、客体化することと、単純にその外の世界との関係によって前進するエネルギーを生み出すことだったんです。それは普段の生活の中で「ワーク」という秘教に関わることを口に出す事ができないからでした(ここで勘違いしてはいけないのは、秘教の「秘密」に関わることというのは、理解する能力と理解するエネルギーを持っていない人間にこれについて語ることは、その人に絶対にネガティブな結果しか生まないから秘密なんです。冗談で秘密ごっこをしているわけでもなく、自分が傷つきたくないから口に出せないとかではありません。聞いた人と、その人の周りの環境全体を護る為に絶対に秘密でなくてはならないのが秘教の「秘密」です)。
しかしここに来てですね。新しいワークの形、「他人の向上のために何だってする」という条件の中では秘教のことをまったく語らないまま、他人との関係の中でワークをすることが実現してしてしまったわけです(!!)。
そうなってくるとですね。僕がブログを通して持っている他人との関係と、普段会っている人たちとの関係では、できることの範囲が桁違いなんですよ。つまり友人たちに僕ができることは、僕がブログを通してできることよりもずっとずっと多いわけで、まあ、それは当然のことですよね。ということはですね。僕が(ブログで)他人との関係性を作ることで得ていたワークを進めるためのエネルギーも、今は現実の他人を通してより直接的な強いエネルギーを得ることができるようになってしまったというわけなんです。
それは何より、僕が秘教のこと、秘密でなくてはいけないことを一切語らないまま、他人との関係の中でワークを実践する方法を見つけてしまったからで、そうなってしまってはブログを書く理由というのがなくなってしまったわけです・・^^;。
というわけで、第3期という名前をつけてしまったものの、このブログの第3期はこのブログの自爆プログラムみたいなものだったんですねww。

おかしなことですが、誠実になればなるほど、この第3期を書く理由がなくなるというわけで、これは存在できない事柄だったんです。。

そんなわけで、これからは全然別の事を書くかもしれません。今までのようにはこのブログを活用しなくなるかもしれませんが、また別の用途があるかもしれませんから。
2007/03/26 (Mon) 書きたかったことはすべて靄の中です
今、自分をまた見つめ直しております。いままでこのブログでもいろいろなことを研究して、少しずつ研究の深さを深めて来たり、また自分でも実践力を高めるように努力したりしてきました。そしてある時点にいたっていつも思う事は、何を前に進めていても、自分の存在は全然変わらない、ということです。
どうしても自分の持っている眠りの傾向を変えることができない。どんなに何かが変わったように見えても、自分が現実に観察している、自らの眠りはまったくそのままそこに残っている。そしてそんなときにいつも思う訳です。これを変える方法は本当にないのではないかというふうに。それは「絶望」というふうに言っていい物と思うのですが、実はその「絶望」にはある効果というものがあって、その「絶望」に至ったときには、何か根源的な力がどこかに見つかるような気がするんです。なんというか、その絶望にいるときだけ自分は完全に「地に足をつけている」という感覚がありまして、それは結局現実の中に存在しているということなのかもしれないと思うのですね。絶望がなぜあるのかといったら、現実を直視しているからなのだと言えるのかもしれません。
そしてその力でまた何かを初めるわけですが、そうするとまるで靄(もや、ってこんな字なんですねw)にかかったように、例の眠りの世界に迷い込んで、そのときに見ていた「現実」がまったく見えなくなってしまうようです。

僕がワークをするのにははっきりとした、見間違いのない目標があります。それが自分がいつも観察している「眠り」から本当に覚めることです。それを事実しっかりと観察しているから絶対見間違えないんですよねw。僕のワークはその目標を達成することにだけに興味を持っているので、それ以外の事は本当にどうでもよく、また逆に、そのことに関してだけはどうしてもやり遂げなくてはならないと思っているんです。それもできるだけ早くなんです。
なぜかというとその後にどうしてもやりたいことがあるからで、それが僕が芸術家として実現させたいあることなんです。もし目覚められないのなら、僕のやろうとしている事はどこにも進めないと思いますし、そのために僕が知りたいことすら、知るすべはないように思っているんですね。だから、どうしてもできるだけ早く「この眠り」から目覚めなくてはいけないと、真剣に考えているんです。

そんな僕のワークの中で、また今、絶望の時がやってきて、周りをじっと見つめています。いろいろと雑多なことが観察されて、あまりに多くの事実、また多くの問題が見えているために、どうしたらいいのか、何をすればいいのかがはっきりとつかめないのですが、何か今までは見えなかったもの、ほんの小さな自己知ですが、それを通して自分のとおるべき道のようなものも、何か少しだけ見えるような気がしています。
それをどうにかしてここに書いてみたいと思ってこの記事を書き始めたのですが、今日はどうもそこまでいけそうにありません。


これは山登りのような感覚がありますね。自分の目の前に恐ろしいほど巨大な山が見えていて、そこに向かって歩いているのに、ほんの一歩足を踏み込むのにも四苦八苦している。そしてその向こうにはまた考えられないほど巨大な氷山が見えていて、今の自分ではそこに一歩すら踏み込む事ができないのがわかっている。道具もそろえないといけないし、今の自分の能力ではあそこでは呼吸すらできないでしょう、という感じです。
2007/03/22 (Thu) 名前のないもの
前回を補足する意味で少し「師」について書こうと思います。前回書いたように、「師」という概念を理解することそのものがものすごく難しいことなんです。


師を見つけようとする際、非常に難しい障害があります。それは師というものは絶対に名前を持っていないという原則に依っています。もし本当の師が自分のそばにいるのなら、それに気付けるかどうかというのが非常に難しい問題なのです。なぜならわれわれ人間は恐ろしいほどに、名前をとおしてしか物事を認識していないからです。
それがゆえに人間は名前がないものを扱う事ができないし、それをすることに大きな不安、また強い不快感すら持つんです。そして理解しなくてはならないことは、この世界の中に存在するもので本当に価値のあるものには絶対に名前はついていないし、つけることは不可能であるということです。
まあ、話がずれました。師ですが、気をつけなくてはいけない理由はもう一つあります。本当の師というのは絶対に自分の能力をみせませんし、知識をみせたりもしません(師になり得る人間が獲得する存在にいたれば誰でもそういう態度をとるからです。そういう人間は必ず目的をもって何かをしているので、その目的に必要でない、そういった行動はとらないのです)。だから普通、師を求めているような人が、本物の師になり得るひとを目の前にして、自分の方が彼よりも優れていると考えたり、また自分と同等のレベルにしかないものと無理に想像しようと真剣に努力したりしてしまう物なのです。この事実は恐ろしいものがありますが、僕の以前の師と関わっていた人間を観察すると、ほとんどすべての助けを必要としている人間がそんな反応を師に対してしていたのをいつも見ていました。
こういうことから、実はわれわれが普通にとっている態度からは、どうしても「師」というものの存在は隠されてしまっているというのが事実なんです。
人間は驚くほどに完璧に、どんな例外もなく、人と人との関係を上下にわけて考えています。人と関わるときには絶対に自分がその相手よりも下なのか上なのかを常に判断していて、この事に関して一度した判断を覆されることを異常なほどに恐れています。そしてそれを信じないようにするためになら文字通り「何でもする」のがわれわれ人間です。そして特に、社会的には特別な位置にいない、社会的には自分と同じような立場にある人間が、自分よりも圧倒的な能力を持っていたり、優れていたりする事を異常なまでに恐れ、それを認めたくないためにあらゆることをします(多くの場合は強い悪意をその人物にむけたり、あらゆる嘘を自分についたりです)が、本物の「師」は必ず社会的にはわれわれと同等のところにいますし、「師」であることを人には言いませんから、この前提からわれわれには「師」に接触する事が恐ろしく難しいのです。
こういった傾向は、僕の観察から、日常のあらゆる会話の中に見て取っているので、はっきり、まったくどんな人も例外なく、この罠の中にいると言い切れます。
というわけで、これは本当に難しい事ですが、できうる限りこの世界観、相互の関係を上下で分けている世界観から少しでも離れる方法を見つける事が非常に重要になります。すくなくとも、師を求める人が、「師」を前にしたときに、その世界観から一瞬でも外に出れないのなら、その人はその師と関わるチャンスを完全に逃してしまうでしょう。「師」は道を求めている人間なのかどうかは気付きますから、たいがいはヒントは与えてくれます。しかしそのヒントに気付けないならいちいち気付くまで待ってはくれないのが「師」です。なぜなら師は常に目的を持っているから一人の人のためにそれほど多くのチャンスを与えている暇はないし、それに気付けないのはまだ準備ができていないということを示しているからです。

グルジェフはこういった心理的な現象をベルゼバブの口を借りて「カーストにお互いを押し込む事」と言っていて、これはわれわれの持ってい問題の根源的なものであるとすら言っています。エゴイズムが存在するのはこれが原因だし、狡猾、羨望、憎悪、偽善、軽蔑、高慢、卑屈、ずるさ、功名心、二枚舌などはこれがゆえに発生していると言っています。

上下でものをみないということをするためにもやはり観察が非常に大切になると思います。というのも他人を自動的にとらえた場合は必ず上下にわけてしか関係を見れないようにわれわれはできていて、それに対抗するのは意図的な観察しかないからです。われわれが深く他人を(自分もですが)観察する事を学べば、普段自動的に判断されているものとは全く違う人々の関係性の見取り図が見え隠れするようになるし、そのことはわれわれに上下はなく、タイプがあるだけなのだということ、そして機械的である限りは人生における「成功」も「失敗」も自動的にしか起こっておらず、何の意味も持っていないということがはっきりと実感して見えてくるからです(はっきりと実感しない限りは意味がないのですが)。

ここから逃れることは容易ではないことですが、少なくともわれわれがこれほど真実からかけ離れたところにいるということ、そしてだからこそ、今のわれわれの住んでいるような世界がその結果として存在しているのだということを、まず忘れないでいようと努力することは有益だと思っています。
2007/03/18 (Sun) バファー
前回に書いたように、今現在、自分の周りに、僕の導きによってどこかに向かおうとしている人間が2人できました。これはなんと呼んだらいいのかわからなくて困るのは、「弟子」とか大げさなものでもないし、事実彼らは僕を通してどこに向かっていく事ができるのかということはすっかりわかっていないし、だいたいが僕がどんなメソッドを持っていて、それがどういう名前で呼ばれているかも知らないわけですから、何かの生徒とかでもないし、とりあえず、なんとも名付けようがないわけです。

そんななかで、非常に面白い事に気付きました。彼らは複雑に絡まったいろいろな問題の中でどこかに向かおうとしているわけですが、その為に何かをしなくてはいけないと思っているからこそ、僕の助けを借りようという気持ちになったわけです。そして僕もその為に必要なこと、自分が持っているメソッドの中で何か使えることを提示したりもするし、とりあえず彼ら自身と、またそれぞれの状況をできるだけよく観察してみるわけです。そうするとこの観察の結果として明らかに、しかも非常によく理解できる事は、彼らは自分がどこかに向かうために必要なものに限って何一つ手につける事ができないということなんです。そのうちの一人に関しては、いろいろな意味である程度の意思をもって、人生をかけて「何か」に辿り着こうと思っているし、その為以外に人生は存在し得ないとすら確信しているほどの男で、彼の普段の行動そのものが自分の意志の上ではすべてが「どこかに向かうため」にしか選択していないにもかかわらず、それらすべての行動が今の自分を変えて、今の自分に必要なものを得る方向に”だけは”どうしても向かえないんです。それらは非常に単純なことで、やれば誰にでもできるようなことなのにもかかわらず、それだけは絶対にさけて通りまたまったく別の何かを探して来てそれをやろうとし始めるのです。そうして同じ事を繰り返し続けているのに、当然彼自身はどこかに向かい続けていると思っている筈です。

こんなことがなぜ起こるのか。これをここで説明するのはまた不可能だろうと思われます。というのも、これはグルジェフの言う、バファーというものの意味を理解しなくてはならないし、これを理解したいなら、少なくとも自分の心理的機能(自分が思っていることそのもの)がこのバファーの結果として生まれいるのだということを、一つや二つぐらいは自己観察によって知らなくてはしょうがないからです。実はこのバファーという機能はすべての人間に複雑に形成されていて、これを通してしか世界が見えないために、人間は真実が一切見えないようになっているんです。
もしも、このバファーが自分の中でどう機能しているのかということをわかることがあるなら、それはそのバファーが破壊される時か、もう機能しなくなったときだけなので、われわれは自分の中に機能しているバファーに関して自分でそれを見る事は不可能であると言ってしまってもいいものなんです。そしてもし何かを得たいならば、このバファーはできるだけ多く破壊してしまわなければならない(例によってですが、これを破壊したけらば、どうしても自分が死んでしまうほどの苦痛を受け入れるしか方法はありません)。
これはどんな例外もなく誰にでも、たくさんのバファーが機能していて、それがゆえにわれわれが思っていること思わされていること、見ていると思い込んでいる物は例外なくみーんな真実とは違う物になってしまうわけですね。これを少なくともいくつか自分の中に発見すると言いましたが、それは結局はいくつかは破壊するところまでいってみないとそれを発見することはできないわけですから、それを実現するしかないわけなんですが、なぜそれを少なくともする必要があるのかといいますと、そのことで初めてバファーとはいったいどういったものなのかを想像することができるようになるし、それが少しでも想像できて初めて、自分の深いところにものすごい数のバファーが多重に張り巡らされていて、それによって「自分」という存在が形成されているのだということにも気付く可能性が生まれるからです。

そんなわけで、バファーの結果だけが理由とは言い切れませんが、われわれ人間はどうしてもまったく不必要なことしかできない。また逆にいえば我々の、異常なまでに弱い意志が求めるものは常に、1時間かもしくはもっと短い時間ごとに入れ替わっていて、それらはすべて自分の進化のために不必要なものだけを選択するようにできているとすら言えるのです。つまりそのバファーの結果、自分が”やりたい”と思う事は絶対に進化の方向に向かっていないと言ってしまっても全然問題ないほどです。
今回そんな風に、自分の(弟子的な)友人たちを、導く事を目的として観察していたためにそんなことが非常に明らかに観察でき、またその結果どういうことが起こっているのかもよく見つめることができたのでした。

そしてもちろん思っていたことは、自分自身もまったくそうなのだということ、また自分だけの集中力ではこの状況から逃れる方法はまったくないということは確実ですし、僕もまったく同じように、自分の進化に向かえることに限ってどうしても手をつけることができなくなっている筈だということは容易に想像できるのです。
結局そうしてわかることは、またもや原則に戻ることになるわけですが、「師」がいなくては何も得る事はできないということです。しかもこのことからわかることは「師」の言う事を完全に信用して、彼が言う通りにすべての事をやる覚悟ができなくては(完全な服従)どこにも進むことはできないということです(またこれも原則のとおりの結論なのですが)。自分の意見をそこにまぜてしまってはまたバファーの思うままになってしまうわけです。また逆に言えば、本当に「師」がいるなら、まったく何年かけて準備をしても進まなかったことを一気に短期間で片付けることもできるということでもあります。つまりは僕がこうして人を集めて準備をしているワークも、この新たな師を求めるための準備でしかないのだということもできます。


P.S. ただ慎重になって頂きたいのはここでいう「師」という概念そのものも、きちんとした準備にしたがって「理解」をしなくてはならない概念であるということです。それは「ヨガ教室の先生」ではないことだけは確かです。

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このブログはある程度グルジェフを知っている方を対象に書かれています。解りづらいことがある場合は、このプログの初期の記事を読むか、ウスペンキーの「奇跡を求めて」など、一般的なグルジェフの入門書から読まれることをお勧めします。

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