2006/02/28 (Tue) センターの区分。
毎週「奇跡を求めて」を1章ずつ読むことにしているのですが、今週は6章。センターという章ですね。 

書いてありますよ自己観察。正直言って自己観察には自信があった(見てください以前に誇らしげに書いています・・)自分ですが、自分がまったくお話しにならない状況にいるのがまたまた明らかになってしまいました。

はっきりいって自己観察ですら不可能じゃないですか??実際。これがまず最初に始めなくてはいけない一番基本的なワークの始まりだというのに・・。 

いろいろ自分の行為なり、いろんなことをしているときの姿勢、それに伴う感情、そんなものを覚えておくことができるようになったと思っていたんです。実際それはできるようになったと思います。でも、ここに書いてあるのはそんな簡単なことではありません。 まず思考、感情、動作センターの誤った働きを自分の中で知ること、そしてそれらはかなり「空想」とかかわっている。それらを観察するのがなんでそんなに難しいかって、自分で知っている限り、僕自身の生活はほとんどが空想と現実のいったりきたりだからなんですよ。何をやっていても少し疲れてくると空想が始まる。それは疲れているから、面倒くさくなっているからこそ、思考的な動作的な、感情的な空想が始まるというのに、それそのものがどういうセンターの誤った働きからきてるのかを、みんな観察していくなんて不可能ですよ、はっきりいって。それがどれほど頻繁に起こるかを考えても、それをすることにどれほどの精神力を必要とするかを考えてもどう考えても難しすぎだと思うんです。それに加えて自分のすべての思考、感情、動作は習慣で成り立っていて、それ以外にはないとうのが前提の上で、その習慣すべてを観察し尽くすこと。自分の当たり前の行為、感情、動作のすべてをですよ・・。
でも、こうしはじめるより外に機械である自分を本当に理解することはできないし、理解ができなければ、そこから抜け出すこともできないということなんです。どうしても機械的な生から抜け出したい僕としては、本当にどうしたらいいかわからないし、めちゃめちゃに無力感を感じてしまいます。

ただし! 一つだけこの章の中に希望があります。それは「不快の感情を表現しないこと」。これをすることで、自己観察が非常にうまくいくというのですね。そしてそれだけじゃなくて、これこそが別の望ましくない習癖をつくりだすことなく自分自身やその習癖を変えることのできる数少ない方法の一つだと書いてあるんです!
こんなにクリアーで実践しやすくて、効果的なことがありますかね。
いや、本当にこのシステムの中ではめずらしいと思いますよ。ここまでやることがクリアーなのは。 しかもこれは特に感情センターにかかわっていることなので、のちにまた話すことになると思いますが、結晶化し第2の体をもつようになるためには、強く感情センターに働きかけていくことが必要になるわけなので、もう、今の人生の最大の目的である結晶化、統一した自己をもつこと、つまり人間第5番への移行とも直接にかかわってきそうじゃないですか!

このことに関しては少し最近の実践で知っているんです。自分がいかに通りを歩いているときにいろんな人間に腹をたてているか(新宿とか池袋とかを歩いている人を想像してくれたらすぐわかると思いますw)、そしてそれを表現せずに一日を過ごすことがいかに難しいか。それから例えば人と議論するなり、何か仕事上ないしは人間関係で問題が起こったとき、当然不快の感情がでてきます。そんなとき心の中で、それを表現しないことに強い抵抗感が起こるんですね。それは自分の心に「誠実」でありたい。自分を相手がこれほど不快にさせているのだということを伝えたいという欲求なんですよ。そういったものを、あえて表現しないことで、自分の感情、ならびに感情的習慣、それにまつわるいろいろな思考的習慣をびっしり観察できてしまうという、ものすごく優れた実践なんです。

ああ、もうこれは今年いっぱいぐらいはこれを中心にしていってもかまわないですね。ここからなんとか自己観察をもっと深くして、自分の機械性を深く知っていくということがどうしても必要みたいです。
2006/02/27 (Mon) 外の世界の観察
さて、きのうは複数の私についてざっと説明してみたのですが・・、 ??! なんだかんだいって説明してしまいましたねw 説明はしませんみたいなこと書いておいて・・。 まあいいや、なるようになるでしょう。

本当は一番書きたかったことは、他人の「複数の私」を観察することがなかなか難しいということだったんです。
僕自身は数年の自己観察の結果からこの「複数の私」は本当に万人に等しく真実であると確信しているわけですが、日常で自分が目にする人々が本当は彼ら自身の「複数の私」のうちの一人であるということ、あらゆることに自動に反応しているだけであるということが実感としてみえてこないわけです。
これは大問題なんです。それが見えてこないことこそが自分が機械的であることの明らかな証明になっているわけですから。 ウスペンスキーは「奇跡を求めて」の13章でとうとう「奇跡」まあ、ある種の目覚めを体験した後、通りを歩いている人たちが確実に夢の世界にいるのを見たと語っています。そして再び自分が眠りに入っていったときにはそれが見えなくなっていったとも書いているわけです。

個人的なことを書きますと、結局僕がいろいろな刺激に自己同一化して「複数の私」をいつも切り替えてばかりいるのは、他人の機械性を見ていないからなのではないかと思うわけです。以前「存在のレベルについて」で書きましたが、他人の存在のレベルも、自分の存在のレベルもわからず、機械性についても見ることができないでいる状態では、いったいこの人生で自分が何をしていったらいいかもわからないではないか!ということなんです。利他的になったらいいのかもわからないし、欲望が5分ごとに入れ替わっているような自分ですから、利己的にすらなれないわけなんですよ。本当に、困ったことにww(笑えねえ・・)。

結局ここでこういう結論になるんです。統一した自己をもつようになること、他人の存在のレベル、自分の存在のレベル、機械性などが見えるようななることが、当面の人生の目的だと。

それを可能にするのがやはりパートクドルク義務なんですよね。
もう最近はこれのみが大切なような気がしてまいりました。
2006/02/26 (Sun) 人間の機械性
グルジェフのアイディアの中の非常に基本的なものに、「われわれ人間は自動的な機械である」というのがあります。それをとりあえず「複数の私」という観点から考えてみようと思います。「複数の私」というはつまりこういうことです。自己というのは一人の人格が総合的な意思をもって生を営んでいるのではない。そうではなくて、あらゆる種類の矛盾した欲求をもった、別々の記憶をもった別々の人格が、あらゆる瞬間ごとに入れ替わって生を営んでいる、というものです。 この話がいわゆる二重人格とか多重人格とか言われている話と全く違うのは、これが完全に言葉どおりであり、すべての人間がそうであるということです。
グルジェフのアイディアとはほぼすべてが彼独自のアイディアではなく、古代から伝わっている知識なわけですが、そのことから僕はむしろ多重人格という考え方をこう想像してしまいます。それは「複数の私」を理解しきれない人が考え出した空想から始まっているのではないかと・・。 いや、でたらめな想像かもしれないけども、なんとなくそういうことってよくあると思うんです。
僕の想像話はいいとして、本題にいきましょうか。
僕自身はこの「複数の私」が本当のことであるということを自分の日常の中から完全に言い切ることができます。

はい。僕は完全にあらゆる外からの刺激に反応して生きているだけの、機械なんです。恐ろしいことに・・。

例えば、こういうテーマについてよくよく考えているとするじゃないですか、家で考えている分にはいいんです。でも外出するといろんな人にすれちがいますよね。すごく好みの女の子にすれ違うとします。そうすると、ああいう子に出会ったり出来ないものか、とかを考え出す。そういった心の中には自分がそういう子を魅了できるかどうかをすぐに計算しだすような心があるんですよ。つまり男と女のゲーム、または勝負ですよね。そこには相手側の判断からみた自分、一般的女性が自分をどう見るか、それに照らし合わせての自分の欠点、そしてそれにがっかりしたりして、気づかないうちに気分が少し落ちているw とかね。 そんなことを目的地に向いながら無意識に5分ぐらい考えているんですよ。で、電車に乗ったりします。そこに非常に不快なことしてくるおっさんに会うわけです。いかにも負け組みw きたならしいし、どうみても欠点しか見えてこないような人間。そうするとまた別の自意識がでてきます。まずは自分の正当性。そのおっさんの行為の不正当性の証明から始まって、相手の欠点をいろいろと挙げ、相手の人生を否定するだけ否定して、自分がいかにそのおっさんよりも秀でているか、そんな秀でた人間がなぜこんなおっさんに不快なことをされなければならないのか、などと考えだすんです・・。
ここに書いたことは非常に普通であたりまえの日常ですよね。そのときどきで自分がもっとも重要だと思っていることが全然違ってしまうんです。僕は個人的に、おおげさでなくて5分に一度はこんな感じに自分が入れ替わっていると思います。それを例えば欲求という観点から見ていったときには、5分に一度入れ替わっている欲求にはまったく統一がなく、5分ごとに違う望みをもっているという意味なんですよね。そんな望みは絶対にかなえることはできません。5分で入れ替わっているから手のうち用がないのです。

僕はこのことをコントロールすることがどうしてもできません。もう何年もそれを変えたいと思っているのですができないのです。正確に言えばある時期には自分は少しましになってきたと思っていても、よくよく考えてみるとちっともよくなってないし、やっていることは同じだったということになっているんです。
これを変えていくのは何か、といったときに出てくるのが、「火」という考え方ですよね。複数の自分を結晶化させて一つにするための「火」です。
それはパートクドルク義務といわれているものと重なると思います。

テーマがあまりにたくさんありすぎて書ききれませんねw
パートクドルク義務に関しても今後書きたいし、本当は他人の「複数の私」を観察することについても書きたかったんです。でも今日はこの辺にしておきます。

またよろしく。
2006/02/26 (Sun) 近づきにくいもの
まずは適当に書き始めてみたのですが、どうもこれじゃ誰にも理解されないなぁと思いました。だけれどもグルジェフのアイディアというのはある意味で誰でもが理解しなくてはならないアイディアじゃないんですよ。 だからこそグルジェフ自身、常にできうる限りわかりにくくw いろんなことを教えてきたわけです。それには深い意味合いがあるわけじゃないですか。
そんなわけで、もう少しこのまま続けてみようと思います。こんな書き方ではほとんど意味不明かもしれないけども、これはウスペンスキーの「奇跡を求めて」、それとグルジェフの森羅万象シリーズから「ベルゼバブの孫への話」 「注目すべき人々との出会い」 「生は{私が存在して}初めて真実となる」の4冊をしっかり読んでいる人には、実に簡単に理解できるはずなんです。 で、実際このクソみたいな本をグルジェフが指示するとおりに読みきるだけだって、めちゃめちゃな努力が必要なんですよ。本当に。 でも、これこそグルジェフがいうように、そんなクソみたいな努力をしてまでこのシステムについて知りたいと思う人にしかこのシステムは語りかけてきてくれないんですよね。 軽くなんとなく理解して教養の一部にするなんてことは不可能。というか、そんな触れ方をしたら人生の害になるような代物ですらあるわけです。

そのことを通してグルジェフは普通に出回っているすべての情報について「何一つ信じるな。すべては間違っている」と言っているように感じるんですよ。われわれの通常の意識のままで理解できることはこのシステムのなかにはないのではないかと思われるんです。
2006/02/25 (Sat) 存在のレベルについて
今気になっているのは「奇跡を求めて」第4章のはじめにでてくる、知識と存在の関係です。このセオリーに関してはすでにこれほどあきらかなことはないと思うようになっているのですが、問題は存在のレベルというのはどの程度あるのか、又はないのかということなんです。

存在というのはやはりどれほど頻繁に自己を想起していられるのかにかかっているのではないかという、実に個人的なアイディアをもっていました。 そして自己想起は非常に難しいにしても、自己観察、自分を知るという意味においてはここ数年、大分修練ができてきたのではないのかと自分で考えていたのです。 事実それに伴って自分のいろいろな知識は部分的な知識ではなく、さまざまな関連をとおして総合的な理解に近づいているのではないのかと、ある程度自負しているところがありました。ところが、ここで述べられているには存在するということは「成すちから」があるのかどうかということらしいのです。

まあ自分の自慢の自己観察でですよw これは一時的なものじゃなくてある程度の長さ3日、4日、または1,2週間という長さでの自己観察を振り返ってみると、本当に自分にとって物事は「成される」のではなくて起こっているのだということをすごく実感するようになったんです。
するとですよ。はっきりいって自分には成すちからなど一切ないと思われ、そうすると自分の存在(Being)もものすごく弱いものなのだということに気づかされたわけです。

正直にいってその弱さに対抗するすべなどなにも持っていないと思います。

では新たにですよ。いかにして存在(Being)のレベルを高めていけるのだろうかという疑問に出くわしました。

他人を観察してみます。世の中にはいろいろな人たちがいて、まあはやり言葉の「勝ち組」「負け組み」というのもあるじゃないですか。われわれにはそういう種類の判断力しかないのだというのが、僕の考えるところです。 つまりそれはここで言う「成す力」を判断しているわけではないわけです。彼らが如何にして「勝ち組」になったのかといえば、それはほとんど確実に「起こった」だけなわけです。 
じゃあいかにして人に「成すちから」があるのか、ないのか、または4章でグルジェフが述べているように存在を高める可能性がすでに残っていないほどにダメになってしまっているのかを判断できるのか、それがちっともわからないのです。
これは抜き差しならない問題です。もしかしたら自分自身もう成長の可能性がないほどまでに悪くなってしまっているのかもしれないのですから。

2006/02/25 (Sat) 本当は何も信じられない
さてさて、早速思いつくままに書いてみます。
ここのところ再びこの研究には非常に重要である「奇跡を求めて」P.D.Ouspenskiを読みなおしております。この本は本当に重要だと思うんです。この本なくしてはどうしてもシステムがどんな方向をもっているのかすらわかりませんからね。 
ただここのところ読んでいて思ったんです。なぜグルジェフはこの本を読むなと言ったのか。それはこの本が「本」3番だからなのではないか?と思ったんです。つまり言葉の7つのカテゴリーのうち最も低い進化の過程にある、そのうちの「3番」です。
ウスペンスキーはあれほどのマスターになったにもかかわらず、まったく思考センターだけに頼った、客観的な「作品」と呼びようのないものを書いてしまったのではないかということです。

だからです。グルジェフが言うようにこれを読んだら本当に方向を失ってしまうことになるのではないのかと・・。

とはいえこれを抜きにしては本当に何も始められませんよね。
これは皆さんよくご存知のことと思います。

さて、そんなわけで今週は5章を読み終わったところですが、毎週一章ずつゆっくりと噛み砕きながら進めていくつもりです。
そうやって読んでいくわけですが、「本3番」を読みつつ方向を失わないためには、全体像を失わないでいることなのではないかと思っています。つまり「本」に自己同一化せずになんとか研究を進めようと。
2006/02/25 (Sat) とりあえず書いてみましょうか。
なんちゅうか、今週末はとても暇だったのでブログをはじめてみました。まあ人がいうには自分の趣味のことをやり始めると、そういうことをやっている人が集まってくる、っちゅうはなしだったので、とりあず最近一番気になっているグルジェフの研究。

まあグルジェフの研究なんだけども、そうもいいきりたくないのですよ。なんでかってグルジェフはもう死んでしまっているし、グルジェフだけをたどっていって何らかの結果を得られるとはどうしても思えない。 てなわけで、僕自身はなんというかグルジェフがかつて知恵をどこかから集めてきたようなことを、現代の生活の中でできないのかと思ってるんですね。つまり「真理の探求者」って言われている、ルボヴェドスキーとか、カルペンコとかそんな人たちが死にそうになって(っていうか死んだんでしたっけ?)真理を探したように、僕自身もやって行きたいなと。

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このブログはある程度グルジェフを知っている方を対象に書かれています。解りづらいことがある場合は、このプログの初期の記事を読むか、ウスペンキーの「奇跡を求めて」など、一般的なグルジェフの入門書から読まれることをお勧めします。

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