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さあ、意識の問題にやっと入ります。
最近はまた例のオクターブですが、このブログのおそらく第2インターヴァルを過ぎたのでしょう、どう研究を進めていこうか気持ちが定まらずにいます。ただ明らかなことは、自分の中で前に進もうとするエネルギーはすごくあるということです。どこへ向かうのかは書いているうちに定まるのでしょうか。 それかなんらかの偶然のショックでですかね・・。 意識には4つの段階があると、グルジェフは説明しています。4つのうち最初のものは眠っている状態。夜にふとん、ベッドの上で寝ている状態です。第2のものは起きている状態で、われわれが普段あらゆることをする時の意識状態を指しています。普通はこの2つの意識状態しかもっていないということがまず理解されなければならないことです。 第3の意識状態が何かということを言う前に、グルジェフのシステムの中でのこの低いレベルの2つの意識状態がどう考えられているかを考えようと思います。 われわれは起きている状態と寝ている状態を、まったく違う状態、まったく違う意識の状態として体験していますが、もう一つ高い意識の状態からそれを観察すると、この2つはほとんど同じような意識状態であるといいます。 それは夢に浸りきっていて、現実をみることができず、自分の意思で何かをすることができない。外の影響に単純に反応しているだけの存在であるという意味で同じだというのです。 これを文字通りに理解するためにはかなり徹底した自己観察が必要になります。自分がいかに意思を持っていないか、自分がどれほど外からの影響に対して無力なのか、自分のセンターがそれぞれいかに間違った形で機能して、空想の中に浸っているのかをまず見ること。それらをよく自分の中に観察することによって初めてこの第二の意識状態が本当に睡眠とほとんど同じ状態であることが納得できるように思います。 ここにいたって自分がまったく夢の中で行動していた瞬間を気づくことが起こってきました。そのときの感覚はまるっきり目的やなんらかの意思をもたないまま、ただ自動的に何かをしているという感覚です。それが20分間の間そうしていた、と思うときもありますし。ここ2日ほど何をしていたのだろう。と思うときもありました。これが最近それほどながいことにならなくなったのは、このブログのおかげでしょう。結局ワークが不特定多数にですがコミュニカティブになったことで、より集中していられるということでしょうね。 意識の第3の段階については、いろいろな説明がありますが、本当は説明不可能なのではないかと思っています。それは結局その意識状態を体験して初めてわかるような類のことだからです。 だからあえて今回はその説明をどこかから引用したりしません。 でもここを理解するために結局一番有用になってくるのは、自分の機械性を実際に自分で理解することで、それはつまり「自己観察」になるのだと思います。それが長い時間可能になってくると、もともと持っていた意識状態と違う意識状態があるのだということを体験を通して知ることになると思います。 それは第3の意識のもう一つの特徴ともかかわっています。その第3の意識というのは、普通に生きているだけでも、ごくたまに(おそらく年に2,3回とか)起こっている意識なのですが、それは自分を意識的に見ているときにだけ、違った味わいをもって観察できるのです。だから自分を見ているときが多ければ、つまり自己観察をしている期間が長くなれば、その意識状態を区別できることも起こるわけです。 そして目標は、年に2,3回とかじゃなくて、自分の日常の意識のほとんどをその第3の意識に変えていくことで、そうすると初めて第4の意識、まあ単純に言って神秘的な意識にいたる可能性をもつことになるというわけなんです。 P.S. いままで「人格」と「本質」についてだいぶ書いてきたのに、実に基本的なことを書いていなかったです。
「本質」というのは自分がもともと持っているもの。生まれたときにもっている自分自身のことで、 「人格」は自分自身ではないすべてのものというところです。 自分自身ではないものというので、一番大きいものは教育があります。まずは親から「こうするべきだ」「ああするべきだ」という社会的規範を学んでいくわけですよね。 「人格」はそれをなぞることによっても形成されていきます。 それだけでなくても、無意識のうちに他人からまねて身に着けていく動作や、感情の表現も「人格」に含まれます。 それは本当にごく普通のプロセスなのですが、なぜか人間はそういう教育や外界からの影響を通して自分自身を成長させる代わりに、別の自分を形成するようにできているようで、それが「現代社会」のように行き過ぎると、実に難しい問題にまで発展してきてしまうようなのです。 グルジェフは恐ろしいことを言っています。 町に歩いている人をみると大部分の人の本質がすでに死んでしまっていると・・・。 本当に本当に恐ろしいです。 自分の本質が死んでたらどうしよう・・・ ってなりませんか? まあ、それほどまでに現代は「本質」にとって災難の時なのだということのようです。 さて、気をとりなおして行きましょう。 こうして「本質」についていろいろ書いていて、素晴らしいのは、自分がいつでも行動の中で、動機などを観察してそれが「本質」から来ているのか、「人格」からきているのかと自問できるところです。そうすると日常の中では、自分の小さな欲求をよく観察することができます。なぜか気分がよくて飛び跳ねたくなっている自分は「人格」なのか、「本質」なのか。腹も減ってないのに何かが食べたくなっている自分が「人格」なのか「本質」なのか。なぜか関係ないのに性的な欲求が生まれてきて、人肌が恋しくなるのは「人格」なのか「本質」なのか。 これはこの2つでそれぞれに大きな違いあると思います。 そこに観察が言っていると、実はそんなことは本質的は欲求と関係なさそうだと思うと、そうした欲求を無視するか、置いておくかすることがたまにできるようになります。それだけでも大きな違いなのだと思います。 結局「人格」の小さな欲求をいちいち実現させようと行動してしまうことで、自分が「人格」のつまり外からやってきたものの奴隷と化してしまうわけですから。 つまり、人格と本質を自分で判断することは不可能だといっても、常に自問することはできる。そしてそれだけでもこれから何かを知っていく準備にはなるのではないかということです。 「人格」と「本質」について書いてみようと思います。
まず、これの決定的な違いは「人格」は偶然の法則にしたがい、「本質」は運命の法則にしたがっているということです。ここで言う「運命の法則」とはもちろん惑星、宇宙の影響のことで、タイプ別にしたがう影響が違ってくるわけです。 「本質」が「人格」よりもすぐれている点は、「本質」は運命の法則に支配されているために予測することができ、前もって将来の準備をすることができる点にある。しかし注意しなくてはいけないのは、それが必ずしも良い運命であるとは限らないということです。 そして、その次の課題として始めて一般的法則(48の法則)から逃れることを通して運命を変えていくことになるわけです。 (それは24の法則の支配下に入ることで、第2の体(アストラル体)を持つにいたることです。なぜならアストラル体は惑星界に属した体なので、惑星界の法則である24の法則にしかしばられないのです。そのアナロジーに関してはまた別の機会にやってみようと思っています。) 僕はこのことを始めて読んだとき、占いが当たらないことがあるのはそれでなのか! と、とても素直に納得したものでした(僕は妙なところで信じやすいんです)。 これが「人格」と「本質」に関することの一つの側面です。 もう一つ大切なことは人間の固体性(アストラル体も含んだ統一された自分)は「本質」からしか成長することができない、ということです。 つまり我々がワークの中で必死に成長させようと、パートクドルク義務なりをしていくのは、他でもない、この「本質」を成長させ一つの自分を持つようになるためなんですね。 これはつまり「複数の私」は自分のいろいろな「人格」たちの集合体であり、我々が自然のままでいると、我々の「本質」はそのうちの一人という非常に低い地位にいることになっているわけです。ワークは「本質」をそれら複数の「人格」の支配者にし、「人格」を「本質」の手足として使うようにすることを最初の目標にしているのです。 それが実現したときに、固体性を成長させる可能性、例の「火」によって結晶化する、一人の自分。意思、意識、第2の体を結晶化させる可能性が生まれることになるわけです。 これについては、まとめて話をしてくのがすごく難しいです。あらゆることが複雑に絡み合っているからです。 次回、いかにしてその「本質」をみわけるのかということを書こうと思っています。それはもちろん「本質」を自分で見分けるのは不可能だとグルジェフが言っていることを承知の上でやるのですが・・。 とはいえ、どうしても見分けるための努力はしなくては話がすすまないのです。それは自己観察を強化してくれます。 きのうはずいぶんと社会に批判的なことを書いてしまいました。気づいたらそういうことになっていたというのが驚きなのですが。これも自分の機械性で、思考センターがしっかりとひとつのことをとらえているには力が足りないということなんでしょうね(「理解について。」はおとといの日付になっていますが、僕がドイツに住んでいるために起こってるタイムラグです。僕にとってはきのうの日曜日に書いたのがその記事でした)。
これには理由がありました。きのうは久しぶりのゆっくりした日曜日で誰にも会うこともなかったので、いろいろとインターネットで新聞なり、ブログなりをほとんど一日中読んでいたんです。きのうの記事を書く前はかなり政治的なものをいろいろ読んでいたので、例の僕の社会に対する怒りが心の中に残っていたんですね。それで社会に「存在」の概念がかけていることを批判し始めたりしてしまったんです。 でもこれは僕がここでしたかったことでは全然なかったんです。 僕は以前、今よりもより子供っぽくて未熟だったころに、熱意に燃えてホームページをやっていたことがありました。テーマは反逆で、社会のあり方に反逆していくことが自分の生き方だと思っていたんですねw(本当に滑稽ですが・・)。 その反逆ってのには一応自分なりに与えていた定義がありまして、それは革命の反対概念としての、反逆だったんですね。社会に何か足りないものを見たときにそれを変えようとしていったときに行き着くものは革命で、革命はなにも生むことはできない。ただそういった世界の中で反逆的に生きるということで革命ではない変化を起こせないだろうか、ってのが僕のまあ青春の一ページっぽい熱望だったんわけです。そのころはもっと哲学に凝っていて、浅田章と柄谷行人がやっていた批評空間やNAMなんかにあこがれたりして、知的でアカデミックな芸術家をめざしてたわけなんですw。 でもページを初めてから一年もするとその熱意はなくなってきてしまいました。それはグルジェフのより深い理解に伴って結局変えるべき、批判すべきは話しにならないほど馬鹿げた社会ではなくて、それ以上に馬鹿げた自分自身ではないかと思ったわけです。そのことから反逆する理由がだんだんになくなってきてしまって、そのホームページはもうできなくなってしまった。反逆という名前で何かを書いたりなんていうことはもうできなかったんですね。 そんな僕がまた青春時代に戻ったかのように社会批判を含んだような記事をかいてしまったのは、本当に僕の自動性、機械性の表現でした。 ワークはやはり、自分に向かっているものでなければどうしようもないと思います。 最近とうとう(日本を出て7年して)自分の日本語の文章がおかしくなってきたと感じはじめました。つまらない言い訳、自己弁護ではあるのですが、結局ヨーロッパの言語と同じように文章を始めてしまうと、その文章をくくるときにおかしなことになってしまうのですね。簡単な例を出せば、「僕が思うに」で文章をはじめるというのは”I think” とか ”Ich glaube"とかと同じようになるのですが、その文章が長くなって最後にくくろうとすると、「〜〜と思うのです」ってもう一回「思う」を使うことになってしまったりするんですよ・・w
てなわけでつまらない言い分けなのですが、変な文章や変な言葉遣いがあってもあんまりバカだなぁとか思わないでくださいねww でもできるだけがんばります。僕も日本人ですからね。 さて、このブログでは「奇跡を求めて」7章の「オクターブ」のところで時間をくっているうちに、毎週1章づつ読み続けているオクターブのほうでは今週はすでに9章を読む週だったんです。ここで、平行して進行するオクターブの交差という現象が起きたわけですね(w)(ここをはじめて読む方、すいません。もうすぐ普通の話になります)。
9章まで読み返し終わって、正直、このシステムの素晴らしさに再び非常な驚きをもって感激しているところです。事実このブログを通して徹底的に自己観察ができたおかげで、その他のシステム、アイディアとのつながりがまったく新しい意味を持って理解されてきました。 これはおそらく存在と知識の関係を表しているように思います。 「奇跡を求めて」4章で解説されていることですが、我々の現代の文化では知識ということについての認識は強くあるが、存在(being)というものの認識がまったくない。というのです。現代の文化では知識が欠けていることを非常に恥じるし、その獲得のために努力をするのだが、存在(being)が欠けていることをまったく恥としないし、存在のレベルを上げていく必要性もまったく感じていない。というものです。 これほど辛辣かつ的確な現代文化に対する批判はそれほどないと思います。 この認識がかけているがために(というよりもほぼまったくないがために)あらゆる現代の問題、社会の病、未来への危機がうまれているのように思えてなりません(経済、政治、教育、社会的な問題、すべてにそれを感じます)。 本来高い「知識」を得るためには「存在」が高い状態なければいけない。もし存在なしで知識だけを溜め込もうとすれば、それは「理解」に達することができない。というのです。 現代文化、文明をまっこうから批判していくときには、言葉の問題というのが強く出てくると思います。 なぜならその文明のなかで認識されていない概念については、当然それを指す言葉も存在していないからです。 だからここで「理解」という言葉を使っても意味が伝わらないという現象が起こってくるのだと思います。 最初のころに書いた「存在のレベルについて」でいったいどうしたら自分の存在レベルを上げることができるのだろうか。という疑問を掲げています。そのときは漠然といかにたくさん自己想起をしていられるのか、ということで存在のレベルを量れるのではないのかと考えていましたが、ここまで研究してきた結果としてはそれも一部ですが、その考えはずれているというふうの考えるようになりました。 結局今思うのは、自分をより知っていくことが、直接「存在」を高めることにつながっていくということです。自分を知っていくというのは、自分の複数性と機械性の理解、その機械がいかに機能しているかをよりよく知ること、そして、自分の「人格」と「本質」の理解、つまりそれを本当に分けて感じれるようになること。これらのことはよりよく理解し、よりよく感じていくためにはほとんどきりがないほどに奥があるわけですから、現時点で、つまり人間の通常の状態では、こういう意味での自己のよりよい「理解」だけが「存在」の高さを表すように思われます。そしてその結果によって長い期間での「自己想起」、つまり意識の状態の改革。それから「良心」の覚醒なども起こって次の段階に入っていく。つまりその段階以上の存在の進化というのはまた別のことも含んで進化していくと・・。 なんかこうしてみていきますと、仏教との共通点のようなものがみえてくるようです。つまり、普通の人間は六波羅蜜をしていくわけですが、菩薩になってからはそれが増えて十波羅蜜になるみないな・・w。 そして菩薩になるより前は十波羅蜜の内容は理解不能とか・・。 そんなわけで、今日はとうとう8章の意識と、本質と人格の問題に入ろうと思ったのにまた違うことについて書いてしまいましたw。 でもここまてきて思うのは8章までのことがあまりにも大事で、ここを練っていくことのみが人間第5番になっていくための準備になると思われるんです。だから、これからさき「奇跡を求めて」を読み進めていくのとは別に、このブログでは徹底的に8章までのところを実践的に練り続けていくことが一番ではないかと今は考えています。 ここまで来て理解してきたことは、結局人間5番になることが、僕たち人間がまず目標にしていくべきことなのではないかということです。 それは固体性を持つにいたるということ、つまり単一の自分を得ていくということですし、意識と、意思を持つにいたることでもあるからです。実はそれと、高次の身体のことを考えあわせますと、また仏教との共通点が見えてくるんです。 それは結局不死性の第一段階に至ることですから、人間5番になるということは、六道輪廻を超えていく第一歩と同じ意味をもつのではないかと。 僕は今自分が人間5番ではないことを完全に理解していますし、僕は本気の本気で人間5番になっていこうと努力しております。(そんなことに本気になれる自分が少し滑稽でかわいらしい気もするのですが・・w) きのうの怒りというところから本質と人格について考えてみたいと思います。
本質と人格は「奇跡を求めて」第8章にでてきます。 僕の行動の動機、やろうとすることの裏に強い「怒り」が隠れているのを見つけたのは、きのう話したとおりです。それは簡単に説明すれば、動機のうらに「こうであるべきだ」という考えが常にあり、その行動は「こうであるべきだ」に沿わないものを正すために起こる行為なわけです。例えば自分があるべき姿ではないためにワークをし、社会や他人があるべき姿ではないために、何か働きかけたりするわけです。つまりそれを正そうとする意思の中に不正に対する怒りが強くあり、それが結局僕のほとんどのことの動機になっているのだ、ということです。 これは、エニアグラムのタイプで言えば、完全にタイプ1の「完璧主義者」にあてはまります。この完璧主義者の主要な特徴はやはり「怒り」なんですよね。 さて、しかしこの自分の特徴がいったいなんなのかとよくよく考えると、これは実は自分の「人格」だということがわかってくるんです (すいません、今回は人格と本質の説明は省かせていただきます)。実に自分に気づけなかった深いところにある意思を、今までの自己観察とパートクドルク義務で観察したわけですが、それでもなお、ここに現れているものは自分自身のものでなく、外から与えられたものであって、本当の自分ではないと、言い切れるように思うんです。 グルジェフはわれわれ普通の人間には自分自身のものであれ他人のものであれ、「本質」を見ることはできないと言い切っています。 しかし第8章に非常に誤解が起こりにくい、簡単なヒントがあります。「小さな子供はまだ人格をもっていない。彼は真にありのままだ。つまり彼は「本質」なのだ。彼の欲求、好み、嗜好、嫌悪はありのままの彼の存在を表現している」というところです。つまり普通、大人からはまったく見つけることが不可能な「本質」は小さな子供のものなら明らかにみることができるということです(おろらくここでグルジェフが言っている小さな子供とはまだ教育も受けていないような子供のことですから、言葉をしゃべる前、1、2歳の赤ちゃんのことでしょう)。 つまり、もしかしたら自分の両親や知人に自分の赤ちゃんときの趣味、興味などを総合的に聞けるのだとしたら、本来自分がどのタイプに属しているのかが想像できるかもしれないということです。 実は僕はエニアグラムタイプ判断にかなり否定的なのですが、それはこの理由からです。エニアグラムのタイプ判断の本などを見ると(もちろんグルジェフはエニアグラムを使ってタイプの説明をしていませんから、別の人たちの本です)この「人格」と「本質」の区別について何らかのシステムを持っていないし、また少しも触れていないのです。 そのタイプ判断は普通の我々自身の特徴を見ての判断以外はどこにもありません。それはつまり「人格」のタイプを探しているにすぎなくなってしまうわけです。 本来なら自分の「本質」が誰なのかをみて、そのタイプを知って初めて、自分と宇宙との関係性、その影響について研究できる筈なのにです。 次回、「人格」と「本質」についての考察を続けていこうと思います。 久しぶりに自己観察に戻ろうと思います。
いろいろ書きたいことを思いついて、それについていつも書きますって予告するんですけど、予告するほどに書かないですね・・w。まあ予告は自分に対するメモぐらいの役にしか立っていない感じですよねw。 さて、自己観察。これの「不快の感情を表出しない」というワークの素晴らしさついて、以前非常に強い感激を持って書いたわけですけども。それだけ気持ちが入っていただけにまだまだこのワークは僕の中で続いています。これは個人的に進めていくワークとしては、かなり長いこと続けているほうではないでしょうか。そしてまだまだこの勢いが衰えるような気がしません。つまりこのオクターブは大きいオクターブってことですよね。自分の意思だけで初めて自分だけで続けていることがこのぐらいの大きいオクターブになるというのは、結局始まったときのショックの大きさに依っていると思うんです。あの時はセンターを区分すること、機械性を理解するという意味での自己観察のほとんど不可能と思われる難しさに絶望感をもっていたこと、そして個人的な怒りによるかなり不快な体験が生活の中であったことで、これが始まった時の最初のエネルギーが強かったんだと思うんですよね。その結果始まったオクターブはその後特別の努力をしているわけでもないのに、非常に安定して長く続いているわけです。これが前回のコラムで僕が意味していた、オクターブのはじめ方なんです。こうした始まりのエネルギーを作り出すことに慣れてくれば、どちらにしろオクターブの法則にしたがって偏向してしまう我々人間の普通の行為も、数打ちゃあたる的に(w)少しずつでもまともな結果を生み出せるかもしれないということなんです。 この始まりのエネルギーのためのショックにはもちろん「意図的苦悩」である「パートクドルク義務」の強いショックが前提条件になってきます。そしてこういうものが多く起こせるようになるなら、偶然の結果、それぞれのオクターブがインターヴァルを補い合うようなことも起こるということなんですね。 つまりはエネルギーを起こす方法をよく身につけることと、パートクドルク義務だけが意図的な行為で、あとに起こることはすべて偶然まかせ、という間に合わせ的なやり方です。 それでもこれにしっかり自己観察が伴ってくれば、それなりの準備にはなるのじゃないかと考えています。 さて、その自己観察、不快の感情を表現しないことで見つけた新たなことですが、実際僕の心の中の不快の感情とは大部分が怒りなんです。いろいろな出来事、現象、他人の不正な行為に怒りがこみ上げてくることが多いです。こう書いていると自分でも情けなくなってくるぐらいです。 そういった怒りを表現しないように気をつけているというのはそれなりに難しいことです。なぜなら怒りは常に突然やってくるし、日常のすべての瞬間でワークのことを考え続けていられるわけではないからです。それでも今まではほとんどの場合(人に言葉を発するほどの怒りについては)気づいていることができました。それを表現しないことで、結局一番のことは、自分の怒っているときの状態を非常によく観察できたことです。それを恣意的に表現していたときには気づかなかった、自分の体の状態、胸に感じている感覚が、怒りを表現しないことに集中しているために、よく意識的に見えているんですね。その感じがすごく印象に残ったために、その感覚を覚えておけるほどになりました。 そして、そうなってから変化が起こりました。 自分が普段怒っていないと思っている瞬間にも、「怒り」を見つけられることに気づいたんです。 例えばニュースを見ているときです。僕はまったく気づいていなかったのですが、社会の不正や人間のだらしなさによる大きな害を見るたびに、特に何も思っていないときにも、心中ではかなり憤慨していたんです。その影響はその後にも続きます。つまりニュースを見たおかげで、怒りの感情を持ったまま次のことをはじめているわけです。 まあ、でもそんなことはそれほどのこともないでしょう。それが見つけられてすごくよかったと思ったぐらいでした。 しかし、もうひとつみつけたことについては本当にショックでした。それは、僕が何かを真剣にやっていこうと思ったとき、ここぞというときに最大の集中力を使って何かをやろうとしているときに、自分がエネルギーの元にしているのが純粋に怒りの力だったということです。 つまりそういう集中すべき瞬間に、ここのところ観察していた自分が怒りを持ったときの感覚とまったく同じものを自分の中に見つけ、考えてみれば、今までもずっとそうやって何かをしてきたのだということに気づいたのです。 それを考えたときに、また自分が無であるという感覚を感じました。これは本当につらい不快感です。結局僕がいままでしてきたこと、努力してきたこと、僕の欲求の大部分が純粋な眠りしか意味していない不快の感情の一つである「怒り」に依ってっているのじゃないかということを思ったからです。自分を意味するもののほとんどが「怒り」なのだとしたら自分はいったい誰ですか?という話です。 もちろん自分の無を感じることによる不快感はパートクドルク義務のうちのもっとも大事な意図的な不快感なのですが、これを感じたときに僕は無意識にしばらく悲しさから抜けられないほど強いショックがありました。 これから8章の意識の問題に入っていきたいと思っています。 今回はこれまでにオクターブについて書いてきたことの実際の実践について書きたいと思います。
オクターブの法則にすべてがのっとっているために何をしても前に進めないという現実を知り、それを受け入れた上でいかにしてスクールなしで前に進むのか。ということです。 まず、僕は2月末にある知人からの話を聞いてブログをはじめてみたわけです。この知人に話を聞いたところからこのブログのオクターブは始まりました。そう、もちろんなのですが、このブログについてもオクターブの法則にしたがって進行していくわけです。このオクターブはわりと大きなオクターブといっていいでしょう。それはこの話を聞いた知人との関係にも依っています(そこには目的以外に感情的な意思が含まれるからです)。 このオクターブの最初のインターヴァルが訪れたのは、もちろんはっきりとは言い切れませんが(これを判断することが不可能なために、付加的ショックを自ら起こすことができないわけです)、先週の3月11日、感情センターというのを書いたあたりからでしょう。 更新が以前より遅くなったという事実は、僕の時間的なものにもかなり依っているわけですが、最初は僕の心、情熱からほとばしる何かがあったわけで、そこからコラムを書いていたのに対して、インターヴァルから後はより思考を使って書き始めたといえるでしょう。 さて、これがオクターブの始まりと、最初のインターヴァルにいたるプロセスのひとつの例です。 僕の(独自のですが)論理では、こういったオクターブの始まりをなるたけたくさん起こしていくことによって、どっちにしろ最初の動機とは違った形で進行してしまうような人間の行為を繰り返しつつも、なんとか前に進む可能性につなげるということなのです(これはきのう書いたとおりです)。 さて、そう言うからには僕にはもちろんそれ以外に新しく進行しているオクターブがあります(まあ、実践派をめざしているわけですしw)。 そのうちの一つは先週からまた一つムーヴメントの講習会に参加していることです。といってもグルジェフのではなく、日本の舞台テクニックの講習会です。このテクニックは「鈴木テクニック」といって、日本の前衛演出家、鈴木忠志が彼の独自のテクニックとして確立してきたものです。これを以前、彼の劇団で10年ほど活躍してきた俳優さんを日本から呼んできまして、この町のオペラ劇場でやっているわけです。これは2週間、毎日朝早くからに2時間やっているのですが、このトレーニングは本当に僕たちが日本からわざわざ呼んでくる価値があるほどのすごいトレーニングです。基本は集中力と、底抜けの体力を使うわけなのですが、それは身体コントロールが体力の限界にいたるところで、集中力と感情の力によって要求されます。このトレーニングのもう一つ優れたところはトレーニング自体がパフォーマンスにもなりえ、直接「美」の本質とかかわっていることです。だから常に参加者を複数のグループにわけ、演じる側、鑑賞する側に分かれて交互にトレーニングを続けていきます。 ここで得たものは大きいです。こうしたセオリーと、日常生活の実践、自己観察としてのブログをやりながら、あるところで激しい身体的な、精神的な経験が別のオクターブとして始まったわけです。もちろんこれも2週間の間、数回の偏向を繰り返して、どこか予想のつかない結果に向かっていくことでしょう。実際1週間、今までやってきたのですが、この講習会全体で何回のオクターブを繰り返すことになるのか、また今までに何回のインターヴァルを繰り返しているのかはまったく判断不能です。ただわかることは少なくとも最初に見ていたこととは違うところに運ばれているということです。つまりは最低でも一度はインターヴァルを経過しています。 もちろんすべてを挙げることはできませんが、このブログの前から始まっているオクターブでもかなり大きなオクターブがいくつかあります。例えば僕にとってこの2月末は次の非常に大きなプロジェクトに向けて少し時間が空いたところだったので、本職の歌手としても(つまり僕はドイツに住んでいるオペラ歌手なわけです)新しいことを始めました。それはブログと前後して始まったオクターブで、新しい声のテクニックを身につけることです。これは歌手としましてはある程度まとまった時間がないと手をつけられないことなので、この機会に非常にフィジカルな新しいテクニックを実につけることを決心したわけです。まあ、それは知人の歌手を先生として雇いまして、数回レッスンをしながら、自分の声をいままでとは別の方法で鍛えなおしていくわけです。声とは非常にフィジカルであり、感情の産物でもあり、テクニックとして作り上げていくことは知的な作業でもありますから、これもオクターブの法則にのっとって、予想できない方向に流れていくにしても、ひとつの大きなオクターブとしてはなかなか興味深い結果が期待できます。 もうひとつはこのブログの中でも話していましたが、ブログをはじめる3週間前から僕はウスペンスキーの「奇跡を求めて」を僕の師と、オランダに住むある人物と、イスラエルに住むある人物と4人でばらばらに、でも同時に読むということを始めたわけです。彼らはみな僕に比べればずっと経験のあるグルジェフ研究家たちで、僕たちはそれについてお互いに直接話すようなことをもうしませんが、お互いがそこに徹底することによってなんらかの効果を期待しているわけです。このオクターブについては、たまたまこのブログをはじめたのが、「奇跡を求めて」を読み始めて3週間目の週末にあたっていたわけです。つまりは僕たちはこれを週で区切って読んでいたので、ちょうどドレミの最後のとき、ファに移行する瞬間にこのブログを始めたと解釈することもできると思います。 つまりはこれが僕が考えている、たくさんの始まりのみに気を使うことによって意図的に生み出す、インターヴァルに対する偶然の「付加的ショック」なわけですw(ややこしい言い方ですが・・)。 それ以外にもうひとつ重要なものとして、僕はショックを生み出すためには最高にすばらしい(??w)オクターブを持っています。それは恋愛、セックスに関することです。まあ僕にはフランス人の彼女が数ヶ月前からいるわけなのですが、これがなぜそんなに重要なのかといえば、彼女は実にフランス人らしくかなんなのか知りませんが、自由奔放かつ、ほとんどきちがいじみたほど羽目をはずす人間で・・、まあ言ってしまえばやりまんですよww(日本語でなら書いてもオーケーかと思いますww)。 セクシーが彼女の一番の特徴で、男を魅了することに関しては彼氏がいようがいまいが、いつでもどこでも精一杯やっていますww。 とはいえ彼女は彼氏ができたらいつも長いタイプなので、ある程度の節度はもっているのですが、これは「本当に素晴らしい!」としか言えないほど、素晴らしいタイミングでいつも僕に巨大なショックを運んできてくれます。 わりと僕はそういうタイプ(普通の意味でではなく、グルジェフが使うような意味での)であるらしく、ワークを真剣に始めようとしてからはいつも女性との関係が、タイミングよく別のオクターブのインターヴァルを埋める大きなショックになってくれることが多くありました。 その意味で今の彼女はいままででもっともすばらしい彼女なのですねw(つまり最も問題の多いということです)。 恋愛はオクターブとしてみるとかなりすごいものがあると思います。これはお互いの感情のオクターブの触れ合い、ぶつかり合いだからです。それに自己観察を中心にワークをしようとしている僕にとっては一番よく理解しやすいオクターブでもあるのです。常に自然に自分の感情の変化を観察しているわけですから、どこでどのようにオクターブの偏向が始まり、次の段階にすすんだのかということが非常につかみやすいわけです。それは相手の感情のインターヴァルを見つけるのは自分のよりは難しいですが、恋愛の中では常に敏感に反応を見合っているので、それも他のインターヴァルに比べればわりとはっきりしているわけです。 これはほとんど僕にとっては意図的なワークなわけなんです。それはグルジェフがプリウーレでのワークでわざわざみんなに問題を多く運んでくる人間を雇い、一緒に住まわせ、意図的にショックを作らせたのと同じような感覚ですw。 こんな話は女性が聞いたらもしかしたら嫌悪感をもつのでしょうか。まあ、そうだとしてもこれが僕にものすごく多くのものを運んできているという事実は事実でしょう。 まあ、だいたいこのようにして意図的に多くの種類のオクターブ(長いもの、短いもの、大きいもの、小さいもの)を始める、ショックが大きそうなものは無理にでも続けようとすることによって、いろいろなタイミングでそれぞれがインターヴァルを補い合うようなかたちを作ることはできる、というのが僕のまあ個人的なメソッドなんです。 そのオクターブが意図的に観察されているなら、そういった「偶然の付加的ショック」も結構大きな意味を持ちえるのではないかと考えているのです。 次回は、オクターブの終わらせ方、について書きたいと思います。これも僕の考え方ですが。新しいオクターブをしっかり始めるために重要なことがあるように思っているからです。 さて、いいかげんにオクターブの法則を終わらせたいと思います。
なんだかんだいって説明的になってしまうんですよね。こうしていると本当にきりがないので、説明は本を読んでいただくことを前提に自分の実践的なことだけを書くつもりでやっていたんですが・・。 最後の考察として、オクターブの法則にのっとって自然に方向転換してしまう振動を、いかにすれば変化させないでおけるのか、ということをはっきりさせる必要があります。 その説明は、振動がインターヴァルにさしかかった時点で「付加的ショック」が加わわることによって振動は同じ方向に進行してくというふうにされています。自然界でオクターブがまっすぐに進行していく場合は、別のオクターブが交差して進行し、インターヴァルを埋めることによってまっすぐに進むオクターブが可能になるといいます。 問題はそれをいかにして、自分の意図で自分の行為や思考に対して適応できるのかということですよね。これがわからなくては今まで研究してきたことは、僕たちのワークにとってはほとんど実りのないものになってしまうわけです。 しかしここでグルジェフは冷酷に言い放っています。みずからの力で必要な付加的ショックを生み出すことは絶対にできないと。 そしてその個人に対する「付加的ショック」はそれ自体がこのオクターブの法則に基づいて創立されたスクールでしかつくりだすことができない、と言っているんです。 この「奇跡を求めて」の中でこれほど完璧にこの先の研究の道を絶たれてしまうようなところはそれほどたくさん出てきません。ここでは完全に論理的に、自らワークをすることなど不可能なのだといっているわけです。 これがいかに論理的でまったくの事実であるかを理解するには、自分の中にある、あらゆるオクターブの法則の観察が不可欠になると思うのですが(もちろん「奇跡を求めて」をしっかり読む必要もあります)、僕たちがワークをしていこう、なんとか自分の「生」をまともなものに変えていこうとすることも、オクターブの法則にのっとってあらゆる予測不能な方向に変化してしまうので、それがスクールなしでは絶対に変えられないのであれば、もうそれは完全な絶望なのですよね。このワークに対する方向の変化こそ、僕たちワークしようと志す人たちが一番よく知っている方向転換なのですから。だってワークのうちの何かをやってみようとしてそれが何かの結果に到達するまで続けるようなことができる人がいったいいるでしょうか?自己観察、自己想起、不快の感情を表現しないこと。あらゆることが、決心したのとはまったく違って、何かの結論を導いてくる前にその勢いを失い、なんらかの残りかすのように低いモチベーションで無意味に続いていき、そのうち跡形もなく消え去るだけなのです。 これはここまでやってきた自己観察の集大成の結論として、出てきた「ワークの不可能性」なわけですから、この7章まで読んできて味わう「失望感」はかなりのものなんですよね。 ただ僕は今までの経験でひとつだけそれの「解決策」を知っています。オクターブはどうしても方向を変えてしまうことを前提のうえで。しかもそれを進めるための付加的ショックは自分で意図的につくりだすことができないことも前提の上で、 始まりを次々に生み出すことです。 つまりつねに新たな気持ちで、新たな動機でなるたけ多くのことをオクターブの始まりとして巻き起こしていこうとするのです。それは規模が大きければ大きいほどよい。なぜなら大きい規模のオクターブのドレミ(最初のインターヴァルの手前までの進行)は、小さい規模のオクターブのドレミよりもやはり長い期間続くからです(これは経験上言っているだけなのですが)。大きい規模のオクターブの始まり、つまり巨大な動機を巻き起こすためには、心に強いショックが絶対に不可欠です。それは日常生活での人間のこころがすごく弱いエネルギーしかもっていないからです。そしてそれを得ていくためにも、例の「パートクドルク義務」がすごく役立ってくれるんです。常に悪い状況を自分に引き入れようとしているようなもんですから、そういったショックを自分につくりだす機会には欠かないわけです。 それをたくさん起こしていくなら、それも他のすべてと同じようにオクターブの法則にのっとって進行していくので、ドレミまでなら自分が努力をせずとも先に進んでくれるわけです。どうせ自分でそのオクターブを次の段階に進めることが不可能なのなら、そんな努力をしている間に、次のオクターブを起こす努力に変えていくんです。 それの優れたところは、できるだけ大き目のオクターブを数多く起こしていくことによって、偶然にそれらのオクターブが重なり合ってそれぞれのインターヴァルを埋めてくれるようなことが起こる可能性もずっと多くなることです。 僕はこうしてなんとかこの場をしのぐことでスクール、第4の道に入る機会をじっと待っています。こうしているうちに僕の磁力センターといわれるものが大きくなってくれることを願うだけですね。 こうして絶望したところで、自己観察のところを終えて、とうとう次の8章では、自己想起、自己同一化の回避などに入っていきます。正直言って、今までのところでも実践できることはいくらでもある中で、これを先に進めていくのがいいのかどうかわからないところもありますが、毎週1章ずつ読むことを決めているので、とりあえずは先に進もうと思っています。 お楽しみに。 それではインターヴァルですね。インターヴァルとは振動が非連続進行していく7つの段階の3番目と4番目の間、それと7番目から8番目の間(つまり次の1に戻るとき)のことです(これを読む場合は以前のオクターブの法則に目を通していただけると理解しやすいと思います)。そのときには突然振動が半分のスピードでしか増幅しなくなります。
これは西洋音楽における7つの音階で考えると非常にわかりやすいために、グルジェフもこれを使って説明しています。 ドレミファソラシドのことです。 そのミとファ(3番目と4番目)の間、シとド(7番目と8番目)の音の間の間隔は他の間隔の約半分しかないのです(半音のこと)。これは古代のスクールが(おそらくピタゴラスのものだと想像しますが)オクターブの法則を音楽に適応できることを発見して作った音階だからそういうことになっているのですが、これが本当に不思議なことに、世界中の音楽の中でギリシャから教会旋法を通して受け継がれてきた西洋音楽以外に、この7つの音階を使っているところはどこにもないのです。 普通の民族的な音楽は必ず5つの音階を使っていてそれはペンタトニックと呼ばれています。 まあつまり現代でもありふれた形で考えられているこのドレミファソラシドという音階は実に、秘教の考えがなければ存在し得なかった音階なわけです。 また話がそれました。 さて、振動が非連続進行していくとき、インターヴァルにさしかかるとその方向に必ず「ずれ」が生じます。振動にこのような偏向があるために、どんな振動も常にインターヴァルを通して少しづつずれていき、しまいには初めに向かい始めた方向のまったく逆の方向などに進行してしまい、常に期待していたことの逆の結果、またはまったくかかわりのない結果を得ることになる。これがオクターブの法則の中でわれわれの自己観察に非常に重要になってくる部分です。 自己観察をしていくとき短いスパン、例えば1時間の間の仕事でも長い期間、例えば1,2週間、半年、または2年、3年という期間にもあらゆる決心、あらゆる決定による自分の行動がこのオクターブの法則にしたがってまったく無責任な方向に変わってきてしまうことがわかります。自分の趣味や仕事、目的などの最初に持っていた動機のままそれを続けることができないことなどからもこのオクターブの法則が観察できます。 昨日の「3日坊主」の話ですが。ドレミの間はいろいろな努力が続くのですが、4番目に移行するとき、つまり最初のインターヴァルにくると同じようには努力を継続できないということ。これが「3日坊主」っていう言葉に当てはめられそうじゃないですかw! まあ、そんな話はいいのですが、これを本当に理解するためには徹底した自己観察が必要になります。なぜなら我々はいつでもその変化に気付かないまま、最初のことをし続けていると思い続けているからです。 そしてそれをあらゆるところに観察しそれを回避することの不可能性を理解してくると、グルジェフがなぜ我々人間は「為す」ことができないといっているのか、その「為す」とは何か。また、なぜ我々の思考が機械的に頭に浮かぶだけで、なぜ我々にはすべてが「起こる」のかということがよく実感と体験と「絶望」を持って理解されてきます。 ただ、この理解に達することはそれほど簡単ではありません。 まずは前回のオクターブの法則で書いた、現代人には受け入れにくい2つの原則を受け入れなければなりませんし、そのあとに長い期間の自分を容赦しない自己観察が必要だからです。しかもその自己観察は自らの緩衝機を超えたものでなければなりません。 ただこれを完全な絶望と共に受け入れて初めて「一度死に、生き返る」というプロセスにいたれる。つまりは、完全に現在の自分が死んでしまってもかまわないと思える時点まで自分を持っていくことができる。それが人間5番として結晶化する(生まれ変わる)ための膨大なエネルギーを自分の中に作り出すことができるということなのだと思います。 それではあとはまた次回にまわしたいと思います。 さあ、オクターブの法則です。
これは宇宙のすべてが振動からできているということを基本にしています。 それを納得しないと意味がわかりません。それは本当にすべてのことを指しています。 そして現在の科学では振動は何かに妨げられない限り連続して進行すると考えられていますが、まったくそれに反する古代の考え方、振動は非連続進行するという考えを受け入れなければいけません(それは20世紀頭でのグルジェフの説明なので、もしかしたら現在の最新の物理学では何か別のものがあるのかもしれません。まあ、とはいえ一般の理解や今まで応用されてきた科学的な考え方では振動は連続して進行するというのが今でも普通なのでしょう)。 まずこの2点を素直に受け入れることも実はある種の人には難しいことでしょう。 現在は世界中で(まあ「先進国」と言われている国々では特に)絶対の科学信仰がありますから、それがいかにして誤謬に陥るのか想像をつけることは非常に困難だと思います。 まあしっかり(論理的に)見ていけばあらゆるところに誤謬があるのは明らかなのですが、そんなものは大学の権力関係によって無視することができるので、決して真実に近づくことができないのですよね。 まあ関係ない話になってしまいました。 話を戻しましょう。 非連続進行する振動は7つの段階にわかれて変化します。これは音楽や音響学をやっている方には実に基本的な考え方でしょう。倍音でくぎっていけば、7つの段階を導き出すことができます。ただ大事なことは宇宙はすべて振動でできているということです。音だけじゃなく物質もエネルギーも、やる気も、行動もすべてが振動でできているということなんです。 さて、これを受け入れて自分の中に観察すると、なんで自分が眠っているのかがよくわかることになります。 はじめたことは決して同じ方向に同じように進んでいかず、あらゆる変化をしながら進行します。自分のやっていることの最初の動機を覚えていてそのままの気持ちでやり続けている人などどこにもいなというほどです。 次回にはオクターブの法則の「インターヴァル」というところからまた話を続けますが、 このインターヴァルという考えを含めて考えると、「3日坊主」がすごくよく理解できるんですよね。 これはもしかしたら「3日」という言葉を文字通りにとらないほうがいいのかもしれません。 そうすると、実に秘教的な教訓になるではないですか!w それはまた! choroさんからの質問から今日はいかにして感情センターを発達させるのかについて書いてみたいと思います。
まず、パートクドルク義務という言葉がありますが、僕の言葉に対する理解は「意図的苦悩」をしていくということに集約されています。 「意図的苦悩」とは他人の不快な表現を受け入れていくことであるといいます。 それは感情センターで書いたとおりです。 まずは感情センターの発達を語るうえで、それが一番の基本になると思っています。 そして次に出てくるのが不快の感情を表現しないというアイディアです。そのことによって不快な感情の表現が自分の機械性の表現であるということがわかってくるだけでなく、やっていくほどに自分のなかに動かない何か、どういう苦境にたたされても冷静に状況をみれる可能性が開かれていくように思えます。 それはすでに強靭な感情センターという考えに近いものだと思います。 (これは「笑うかどには福来る」の実践的な説明といえないでしょうか) しかしここで問題になってくるのはそれでは感情センターの「強さ」とは何かということなんですよね。 例えば「怒り」。めちゃめちゃに強烈な怒りをもっている場合はどうか。 「恨み」。めちゃめちゃに強烈な恨みを持っている場合はどうか。 不快の感情を表現しないのなら、それらはいったいどこにいくのかということが問題になってきます。 しかし、実はグルジェフのシステムの中ではこれらの不快な感情はすべて機械的なものであってそこに真実は一切含まれないと説明しているのです。つまりはこのシステムで感情センターの進化という話をする場合は、不快な感情を除いた感情のみの進化を意味しているのです。 これは大事な観察だと思いますが、そもそも普通に我々が語る意味での感情的現象とはほとんどが不快の感情の表現に属しています。ヒステリー、イライラ、怒り、恨み、緊張などです。「感情的な人間」という言葉がネガティブな言葉としてあるのはそのせいでしょう。では、それ以外の感情とはなにかというと、熱意、信頼、友愛、喜び、そういうものになります。みなさんも試しにやってみるとわかると思いますが、不快の感情を挙げていこうとすればいくらでも挙がってくるのに対して、それ以外の感情について考えてみると数えるぐらいしか挙がってこないのです。 つまり我々はもともと非常に弱い、単に機械的な感情センターを持って生まれてくると言えると思うんです。いや、もしかしたら社会の環境やエジュケーションによってそうなっていくのかもしれませんが、少なくとも物心ついてから大人にいたるまでの現代人は非常に衰えた感情センターで生きているというのが現状なのだと思います。 のちにでてくるのですが、そういったグルジェフのアイディアからみればほとんど完全に機械化している感情センターに働きかけることが、第2の体を形成するにいたる唯一の方法であるというほど、これが大切なことになるようなのです。 さて、今週は「奇跡を求めて」第7章を読む週です。
いままで「複数の私」、「センターの区分」などをとおして、まったく独自の(しかし最も古い古代の)方法での自己観察を学んできたわけですが、ここにきて始めて「自己想起」がでてきます。 ここでグルジェフがいままでやってきた自己観察の結果気付いていかなくてはならないこととして、このことをまず指摘しています。 それは自己観察をしている時の自分がどこにいるのか、というところから、自分が自分を意識できている時間が本来ものすごく短いのだということに気付かなければならない。そのことから自分の意識は実はほとんど一日中自分自身に「気付いていない」ということを知らなければならない。というのです。 そして、何をやっている最中にも自分に気付いている状態。どんなことに集中していても、自分の心のあり方、思考のありかた、身体のあり方を見ていられる意識の常態を「自己想起」といっています。英語ではセルフ・リメンバリングになるので、単純に自分を覚えていることとも言えます。 この視点から見れば自己想起とは、長期間のたゆまない自己観察を可能にする意識の状態といえるでしょう。 しかしこれはまったくそれだけではすまない、ものすごく大事な意味をもったアイディアです。 そして、自己を想起していることほど難しいことはこの世にない。これは試しに2,3ヶ月やろうとしてみると誰でもがわかってくることです。そんな意識の状態を保ち続けるのは本当に不可能に近い。 「奇跡を求めて」のこの章では少し自己想起にふれて、すぐにオクターブの法則の説明に入っています。 ここがウスペンスキーのかしこいところかもしれませんね。実は宇宙の法則としてのオクターブの法則と、それを自己に適応しての自己想起というのはのちに大きな関連をもってくるのです。 それでは、今日はこの辺で。 次回はオクターブの法則と自己想起の関連を含めて書きたいと思います。 今日ははきのうの仮説を具体的な例をいれて話していきたいと思います。
まずきのう書かくのを忘れてしまったのは、現実に生きていて第2の体をもっているような人間はどこを探してもいないということを前提に考えているということです。 それは前提として機械でない人間がいないということと同じですから・・。 そんな中で自他を観察してみますと、身体の不調、病気や疲れ、または性的な欲求、食欲、睡眠、そういった本能的なことを含めての体の状態は、確実に感情に影響を与えているわけです。どんな場合でも体が不調なら感情も不快を感じるし、その結果いろいろネガティブな思考をもつようになります。これはまったく人間として普通の状態と言えるでしょう。例えば性的な欲求と、異性を好きになるということ、これは言い切りにくいですが、この関係も一つの例にのではないでしょうか。長い間寝ないでそれとは関係なく感情をよい状態に保っていられる人間もほとんどいませんし、食欲も同じだと思います。 つまりこのまったくの普通の人間の現実はこの章に書かれている、第1の体しか持たない人間の説明にぴったり一致します。説明とはつまり、第一の体の状態が、感情を支配し、感情の状態が、思考を支配しているということです。 というわけで、この仮説を信じるなら、僕は確実に第2の体をもつにいたっていない。ということができるのです(まあ、もしかしたらそんなこと仮説をたてるまでもないほど明らかなことなのかもしれませんが)。 さあ、そこでこの機能が逆転しているような人間の例を探そうとすると、本当に困難なことに気付きます。つまり最初に書いたように、そんなものを持っているような人間はほとんどどこにもいないということだと思うんです。 ただ、これは逆に驚くべきことですが、この考察をしていて、一人だけその機能が逆転している人間を僕は知っていることに気付いたのです。実は僕にはこの道の「師」と呼べる人間がいます。その方はある芸術家ですが、僕はその芸術という特殊な道を通して、ある種のスクールのようにこのアイディアを学んできたんです(つまり僕も芸術家のはしくれです「カミングアウトパート2」w。) 彼は考えてみると僕が出会ったころから感情、快や不快は身体の状態から独立しているような人でした。 例えば、彼が数年前にあるひどい病気になってしまったとき、彼は病院にいこうとせず彼自身の仕事にすごいエネルギーを使って打ち込んでおりました(もちろん普段からそういうエネルギーで仕事をしているということです)。しかしあるときとうとう一度だけ病院に顔をだしました。すると「今すぐ集中治療室にはいってください。あなた死にますよ」といわれたそうです・・。しかし彼はそれを受け入れず、続けてまた同じようなペースで彼の仕事に打ち込み続けていました。その病気のひどさは近くにいた僕にはよくよくわかっていたのですが、彼の仕事をぶりをみて、まわりの人間は少しでも彼の体調が悪いかどうかなんてことは考えもしませんでした。だって本当に少なくとも人の2倍は仕事に打ち込んでエネルギッシュに他人に影響を与え続けていたわけですから。まあ、つまりこれは極端な例ですが、それほどの体の状態にもかかわらず、感情センターが送り出してくるエネルギーには一切影響を与えなかった。また逆に言えば、感情センターがエネルギーを作り出すことによって、半年後にはその病は回復し始め、それから2ヶ月ほどして健康な状態にまでなってしまったのでした。 この例はまさに、身体の状態から感情が影響を受けず、逆に感情センターが身体を影響下においているという数少ない例だと思います。 それどころか彼の場合は思考が感情センターに方向を与えているのではないかと思えるところまであります。もしそうなのだとしたら彼は第3の体までもっているということになるのかもしれません。 まったく最近にいたっては僕のことを同僚のように扱ってくれる師なのですが、今回の考察、仮説からいけばこれはとんでもないことになってしまいますね。 あ、となると師の自己が統一されているのか、それとも複数の自分をもっているのかをよく観察することで、前回で疑問として挙げていた「4つの体」と「複数の私」の関連性もみえてくるのかもしれません。 とんでもないことになってきてしまいました。 これは本当に単なる僕の妄想かもしれませんねw 第一この仮説自体があやふやでわけがわからないものなんですから。 まったく・・・。 これまらまた冷静に観察を続けていきたいと思います。 ただ一つだけ。師は自分がいったいどういう段階にあるのか、どういう力をもっているのかということを一切言わないし、聞いたって絶対に教えてくれないし、それを示そうとすること、主張するることも絶対にないんです。それはグルジェフももっていた態度であるし、また世界中にいるあらゆる偽霊的指導者たちが持っていない態度でもあると思うんです。 師のその態度は確かでゆるぎないものであり、師として尊敬に値すると思っています。 あることに突然ひらめきました。
「奇跡を求めて」の第5章に「4つの体」という考え方が出てきます。それは普通の身体である第1の体をもって生まれてくる人間が、ある意識的な努力によって第2の体を結晶化していくことができる、第2の体を持つものは同じようにある意識的な努力によって第3の体をもつことがでるようになると。そして第4の体についても同じような過程で形成されることになる。というものです。 ずっと疑問に思っていたことは、その4つの体という考え方と人間のカテゴリーのおける7つの段階との関連性です。僕は直感的に人間第4番が意識的な努力によって初めて「複数の私」を統一して人間第5番として結晶化される過程が、第2の体を結晶化させる過程とリンクしているのではないかと考えています。しかしそれを正確に説明している信頼できる話を僕は聞いたことがありません。 もう一つは自分はいったい人間何番として生まれてきて、今は人間何番なのか、自分はいったい第2の体を持つようになったのか、という疑問があります。そしてそれを他人の中にどう観察できるのかということです(これは他人の存在のレベルを判断できるようになりたいと以前に書いたこととも関連してくると思います)。 そこでひらめいたことです。 第2の体があるのかどうかは、ある人間がその機能をが持っているかいないのかで判断することができると、グルジェフは「奇跡を求めて」のなかで説明しているのですが、その機能の特徴については何も説明していないのです。 ただその後でこういう解説がでてきます。第2の体を持っている人間はその機能によって、第1の体を完全に支配することができる。第3の体を持っているものは第1の体、第2の体をその機能によって完全に支配することができる。そして第4の体についても同じようであると。そしてこういう説明もある。第1の体とはつまり通常の身体であって、第2の体は感情、第3の体は知性をあらわすと。この2つを単純にパラレルに考えてしまっていいのかというのも問題になってくるのですが、この考えからすると身体と感情の支配関係を見れば、その人が第2の体をもっているのかどうかがわかるということになるわけです。 つまり感情が身体の状態に左右されているような場合は第2の体をもっているとはいえない。という仮説が成り立つと思うのです。 この仮説の考察は次回にまわしたいと思います。 それでは! 感情センターがここにきて大きな意味合いをもって感じられてきた。
これはいままでも何度か挙げてきたパートクドルク義務にも強く関係している。パートクドルク義務は、「意図的苦悩、意識的努力」のことであると言われているが、そのうちの意図的苦悩というのは主に「他人の不快な表現を積極的に受け入れること」とされている。 考えてみれば人間の生活は快適を求めることにすべてが終始しているといえると思う。あらゆる欲求、自尊心、虚栄心、これらは結局社会のなかで生きていくうえでの快適の追求とも言えるのではないか。 そうしたなかで他人の不快な表現こそが最も自分に必要なことなのだとしてしまうと、自分のあらゆる欲求、行動の規範に影響を与えざるを得ない。いや、これを徹底していくならすべてが変わってしまうといってもいいのではないだろうか。 その他人の不快な表現を受け入れることによって大いに影響を受けるのはもちろん、感情センターなのだ。 いうまでもないことだが快、不快で物事を捉えるのは感情センターの仕事なわけだから。 話は変わるが、さきほど友人とのたわいもない会話のなかで、いろいろな芸術家、作家、思想家を一人の人間として捉えるとき、彼らがやったような仕事を成し遂げるために費やさなくてはならないエネルギーの量は、自分の普通にできることと比較したときに考えられないような量だという話になった。まあ、僕らは感嘆をこめて、いったいどこからそれほどの執念なり、膨大な量のエネルギーを呼び起こしてきたのか。と話し合っていたわけだ。 ふと、その答えを思いついた。それこそが感情センターなんだと。 何か意味のある仕事をしようと思ったら、普通に人間として生まれたまま持っているようなエネルギー量ではまったく手も足も出ない。まして、この機械的な生に気付き、そこから逃れようとすること、それほどのことをしようと思ったときには膨大なエネルギーが必要になる。 これは、ワークを試みようと少しでもやってみた人間にはよくわかることだと思う。普通人間にはそんな努力を続けようとするエネルギーなんかまったく持ち合わせていないのだ(これは本当にやろうと思っても数分しか続けることができない)。 そしてここ数週間のグルジェフ理論の洗いなおしと、自己観察の結果、感情センターが強く刺激されたときにはやはり、どこからともなく強いエネルギーが流れ込んできているということが見えてきた。 それらはむしろ偶然起こったことだったのだが、結局パートクドルク義務とは意図的にそのようなことを起こし、必要なエネルギーを得ていく方法であるし、意図的であるからこそ、複数の自分を結晶化させて一つにするための「火」になるのではないか。と思う。 感情が発達していない人間は強いエネルギーを呼んでくることはできない。これはしばらく重要なテーマになりそうだ。 さてさて、今週末はですね。グルジェフムーヴメンツのワークショップに参加するために、ケルンに行ってきました。
ケルン??! って思いますよねw はせいん、実は現在ドイツに住んでおります。 (カミングアウト!・・、どきどき・・。) 講師はWim Dullemen って方。ムーヴメンツにかかわっている方だったらもしかしたら名前ぐらいはご存知かもしれません。 ピアニストもやっていて何枚かムーヴメンツのCDを出しています。 オランダ人で現在はドイツに住んでいてアムステルダム、ベルリン、ケルンでムーヴメンツの講習会を開いています。 ド・ザルツマンの直接の弟子からムーヴメンツを学んだ方だそうです。 今回は 3rd of September, チベットのエクササイズ、などを主に土曜日に朝10時から夕方6時まで、日曜日は9時から夕方3時まで全部で休憩を含めて14時間、集中的にトレーニングをしてきました。 ちょっと今回はケルンから戻ったばかりで疲れているので、ムーヴメンツのレポートは次の機会にしたいと思います(ドイツは現在日曜の夜10時です)。 それでは次回に! 不快の感情を表現しないこと。徹底的にやってみました。
ここのところの徹底した研究で人間の機械性というのが非常に現実味をもって感じられて来たので、正直この不快の感情を表現しないという「ワーク」がたどっていくべきたった一つの綱のように感じられて実に一生懸命やりましたw これは本当によくいろんなものが観察できると思います。まず自分が何か不安をもったりいらいらしたり(怒ったり)したときだけでなく、深刻にものを考えているときにも、それは外から不快に見えるかもしれないというところから、無理にめちゃめちゃに楽しそうな顔をしてみました(なんかくだらない実験のようになってきましたが・・)。そうするとこれは本当に面白いのですが、考えることができないんですよ。ほっぺたを上げているだけで! つまり、これは「習慣」のはなしですね(「奇跡を求めてを読んでいない人ごめんなさい。これはこの本の中の概念で普通の意味とは少し違います)。動作的習慣、ここでは深刻な顔をしていて、それ相応の体の緊張をもつ、と、感情的習慣、ここでは難しいことについて考えこむ、が密接に連動しているわけですね。 そうそう、ここで考え込むことを感情的習慣といったのも、自分なりの自己観察の結果なんです。 これについてはまた別の機会にゆっくり書くことにします。 それと、これをしているだけで、他人が非常によく客観的に見えてきました。結局不快の感情と表現しないと、他人から来るいろいろな感情の外側にいるような感じになれました。すると他人に自己同一化することがなくなってきてたと思います。そうすると、相手が感じていること、相手の習慣的な何か、相手が無意識であること、そんなことがちらちらと見えてくるんですね。 それともう一つすごく大きな効果がありました。単に表現しないことに努力するだけで、小さい不快の感情はすぐに消えてしまうんですよ。おどろくほどに簡単に消えてします。これも動作的習慣と感情的習慣の関連からくるのでしょう。すると、自分にとって重要な大きな苦しみ、大きな目標だけがよりクリアーに見えてくる感じでした。 これもすごかった! そんなわけで、今日はこの辺で。 実際に今は新しい発見の感動の真っ只中にいるので、ひどくまとまらないことを言っただけになってしまいした。 とりあえず中間報告ということで、許してください。 |



