|
きのうの無意識なときに起こった不思議なことに関連して、もうひとつ書いて見ようと思います。
まったくこの無意識のときに起こる現象は僕を凹ますといいますか、なんとも歯がゆいものがあるんですよね。まあ僕はこのブログでは意識的になることの重要性を中心に、進化の可能性を説いているわけですからね・・。でも自己否定につながるような現象を見つめるのはいいことです。とにかく自己過信よりもずっとずっといい。 このことも本当は思考センターの働きと関係している筈だと思うのですが、そのことはちょっと後回しにして、また軽いお話を書きます。 先週のできごとでした。友人と一緒にダンス・・、チャチャチャとタンゴだったんですが、まあダンスの会に参加したんですね。そんなのをするのは初めてだったんですが、2時から6時まで、先生にいろんなステップを教えてもらいながらたっぷり4時間踊ったわけですw(楽しかった〜、けっこうw)。 それが終わって、それほど疲れるというほどではなかったのですが、体全体によく血がまわって非常に心地よい、なんというか、一日気持ちよく、ゆったりハイキングをしてきたような心地よい疲れ方をしていました。そしてその友人と二人で車で家路についたわけですが、二人で心地よい疲れを感じつつ黙っていると、突然彼女が「A,ha-!」と言ってどこか遠くのほう見始めました(外人だから「ア、ハー!」ですw)。何かに気づいたようで、しばらく考えにふけっていました。しばらくしてまっすぐ前を振り返ったので、聞いてみました。「何に気づいたの?」と。すると彼女は「え?」といって何かあわてている様子。「だってア、ハー!って言ったでしょ?」と聞くと、「何も言ってないよ。私、少し疲れてるのかな。」と言っておりました。 それでやっと気づいたんです。彼女はその時、本当に何も言っていなく、僕は彼女の心の中で言った「ア、ハー!」という声を聞いたのでした。 それが無意識の最中に起こった不思議なことです。 それはまったくの無意識、僕自身ボーっとしているときに、突然頭の中で彼女の声が響いたのでした。 僕はそれを彼女が口に出していないことをほぼ確信しているのですが、それには理由があります。実は同じようなことが、過去に2回あったんです。 今日という日は久しぶりにブログを更新してから、フランスから戻ってきて疲れていたこともあって、一日おそろしいほど何もしませんでした(もう、本すら読まなかった!)。いやー、こういうのは芸術家の特権といいますか、なんといいますか、ある意味ではおきらく人生でもあるわけです。
そんななか、食べるものがなかったのでふらふらと買い物にでて、カフェに座ってコーヒーを飲んだりしていました。そうしたら道端で再来週にやるコンサートで一緒に歌う歌手にばったり会いまして、今度一緒にやる現代曲のCDをさっき郵便で受け取ったところだといって、それを僕にわたしてくれました。たまーにわけのわからない仕事をしなくてはならないときがあるんですww その曲っていうのは、ソプラノとテノールの2人でやるんですが、楽譜を見ただけでは、どうやってやったらいいのかいまいちよくわからないような曲なんです。しかも、音程がないのですww。つうことはつまりリズムが読める人なら歌手がやる必要もないような曲なわけですよね・・。まあいいや。そんなわけでまあCDを聞く必要があって、作曲家に送ってもらっていたわけです。 まあそんな偶然でCDを受け取ることになったのですが、それからほんの2分後、これまた劇場の、今度はテノールの友達にばったり会いまして、ちょろっと話をしました。それから家に帰りまして、受け取ったCDをコピーしまして、まただらだらしてから、約束の時間から大分遅れて、劇場にそのCDをあずけに行きました。そのソプラノの子は明日からまた移動らしくて、その間に聞きたいからというので、どうしても今日返さなくてはならなかったんですね。すると劇場に着くよりも前にまた偶然道端で彼女にあったのです!(劇場に返しておくといったのとは全然違う時間にです) CDを無事返しましてほっとしていましたら、今度は以前音大にいた頃の後輩に会い、少し一緒に歩きながら近況報告をし、そこから家路に着きました。 まだもう一つあるんですw。家に着く直前、前から本を読みながら歩いてくる男がいるんです。変な男がいるなあと思っていたら(ドイツでそんなことをする人は絶対にいません)、それは2,3年前にやったオペラで照明の手伝いをしていた男でした。彼はジャズのピアノもやっているのですが、今日はコンサートがあるから誰かと来てよ、なんて誘われました。 そんなわけで何もやっていない一日のうちにわけがわからないほどたくさんの人に偶然に会って、しかもその偶然だけでCDを借りて返すところまで(だいたい彼女がたまたまそのCDを持っていたんですから!)できてしまったという、摩訶不思議な日でした。 僕は普段このブログで「意識」ということを中心にいろいろと書いているわけなですが、これが本当にまったくの無意識、久しぶりに完全なだらだらモードにはいった今日、こういった偶然が立て続けに起こるんですから、まったく不思議としか言いようがないと思うんですよ。 グルジェフなどを研究していると、こういった偶然を引き寄せるにも、なんらかの宇宙的法則が関わっていないわけはないと思うのですが、それがこんな時に起こるなんて!!ってある意味ショックなんです。僕は普段がんばっているつもりなのに、まったく腑抜けのときにこんなことが起こるんですから。 実は以前にもこれと似たようなことが一度起こったことがありました。その日も今日のように多くの知人に町でばったり会って、その夜にはあるパーティに呼ばれたので、行ってみたんです。その時はそこで自分の人生を変えてしまうような人と出会うことになりました。フランス人のその時19歳だった女の子だったのですが、その子とそれから数ヶ月、めちゃめちゃな激しい恋をしたんです。まずその年齢差(当時僕は30歳です)、ティーンエイジャーと激しくドロドロな恋をすることもかなり気が触れていましたし、その激しさも普通もじゃなかったんですね。しかし彼女は考えられないほど頭がよくてまったく付き合うのに問題がないどころか、今までの付き合った女性の中でも格段に頭がよかったというほどでした(一応言っておきますw。僕はロリコンではないし(爆)、かなり年上の非常に教育のある女性とも付き合っていました。それでもその子はずば抜けて頭がよかったんですね)。彼女は生来の芸術家で、まだ何もそれを表現する方法を持っていませんでしたが、その冴えたものはいろいろなところに見えていました。そんな気質が僕と波長があったのでしょうか。 まあ、それも数ヶ月で終わってしまったのですが(そういった激しいオクターブは、やはりものすごいスピードで終わるのだと思います)、そのとき以来僕の外面的な生活はがらっと変わってしまったのでした。 それまでは僕は非常に道徳的、倫理的な人間であって、正しいことを好み、正しく努力し、正当にいろいろなことをし、そういう価値観で自分を作り上げてきたのだと思います。しかし芸術家としてはそういうものが足かせとなって、自分の心の底から溢れてくる何かにブレーキがかかり、その壁を越えられないことに悩んでいたのでした。まず、第一に芸術を始めると志してからそのときまでの間必死にやってきたのが、人間が勝手に作り上げた善悪の基準である「道徳」の観念を破壊することだったんです。それがそのときから全てがどうでもいいものになってしまい、まったくの自由な気持ちでいろいろなものを見るようになったのでした。僕はその時、その時点ではっきりと意識したのですが、その時から、音楽家であり、声楽家であり、求道者であった自分が、「芸術家」になったのだと思います。そして今振り返ってもそれは一過性のものではなく、そのときからずっとそうなってしまったんですね。不思議なものです。 まあだらだらと過去の話を書いてしまったは、僕が完全に「眠っている」というかwww、だらだらモードに入っていて、そんな感傷を自分に許してしまっているからなのですが、それでも不思議なことを認識しなおす助けにはなってるかもしれませんね。 その子はまるっきり、完全に僕のそばから消え失せてしまったのですが、連続していく人生の中で、いくら変えようとしても変えなれなかった部分に劇的な変化を運んできて、しかもその変化が一過性なものではなかったというのですから、おかしな話です。それが単なる激しくドロドロとした性的な関係でなんですよ。 もう一つおかしな話がありまして、その子の自然な体臭はなんとも今までにかいだことのない、いい匂いだったのですが、もうあれからだいぶ年月がたった今でもそれが僕の体に残っているんです。つまり僕の体臭がそのとき以来変わってしまって、全然この匂いは消えないんです。だって汗のにおいもこの匂いになってしまったんですから・・。 今付き合っている彼女はこの匂いが大好きで、道を歩いているときもたまに匂いを嗅ぎたがったりするのですが、まさか、それが以前の彼女の匂いだなんてことは絶対に言えませんww。 おかしなことを書いてしまいました。でもこういったこともなんだか不思議な現象で、なんらかの自分の目的に合わせて、自分の意思が引き寄せた何かだったのじゃないかとも思われるんです。 僕はどうしてもその時までにいた「監獄」から抜け出そうと思っていたわけですし、そういったときになぜか偶然に人を次々と引き寄せ始めていたことも、宇宙法則にかかわっていて、何かが自分の中で開いていたということだと思いますしね。 そしてもう一つは、今日も、こんなにだらしなく、単なる無意識だった今日も同じことが起こったということです。それらがどこから来ているのか、それを知ることで、何か自分の目的をはたす為の方法も見つかるのじゃないかと思うのですが、それも途方もないことな気がしますね。 地道にいくしかないか・・。 久しぶりにブログに戻ってまいりました。僕は仕事の性格上、しばらくどこかに出かけていって練習とコンサートをして戻ってくるということも多いのですが、そういう時にはやはりいろんな普段とは別な刺激がありますので、自分がワークとして取り組むことも自然と変わってくる。その場では取り組める課題そのものが変わってくるんですよね。そうすると考えていることも自然に変わってしまうので、突然戻ってきて、以前ブログで書いていたことの続きを書こうとすると、いったいどこからどうやって書いたらいいものかよくわからなくなってしまいます。
今まで書いてきたことは、性の問題について少し考えたいことがあったので、その準備として3層の工場の話(参照)とか、錬金術的なワーク(参照)とかをやっていたのですが。帰ってきて考えていることは「思考できることの限界」とうことで、性のことなんてほとんど完全にどうでもよくなってしまったんです^^; ここ最近「思考でき得ることの限界」というものをちらちらと感じるようなことがありました。自分のもっている認識を思考(つまりは言葉を使ったロジック)で解析しきれない。そうしようとすると、まったく論理がなりたたない。にもかかわらず、認識そのものはしっかりそこにあって、明らかな理解として、何かの判断の基準にすらなれるほどはっきりしているという・・、そういった感じです。 ということはつまり、そのことを文章にしようとしても全然できそうにないわけで、それをブログにも書くこともできないということなんですよね。そもそも神がかり的な文章というのは意味わからないじゃないですかw、まあそれと似たようなものかもしれません(もちろん似ているだけで、そういうレベルの話じゃないのですが)。それは結局文章の形を使っているのに、通常の論理の体系をもっていないから意味が通じないんですよね。そう考えると「ツァラトゥストラはこう言った」のような完全な神がかり的な認識をああいう方法で文章にしきったニーチェはすごいですよね。ニーチェは非常にすぐれた思考家(この言葉は日本語ではありませんが、ドイツ語だとDenkerで、まあ考える人って意味です)だと考えられていますが、僕の秘教的な視点から見れば、彼のやった仕事の中のもっとも重要な部分はちっとも「思考センター」で論理的に考えられたものじゃないんですよね。だからこそカントからヘーゲルとかのドイツ観念論をやっている「哲学者」たちに、ニーチェは馬鹿にされるんですよね。彼らには論理が全てですからね。 でもこういう視点から見るとニーチェのすばらしい点は彼が哲学の世界にいながらまったく哲学的じゃないことなのかもしれません。あれだけキリスト教批判を徹底的にして「神は死んだ」という言葉をセンセーショナルに語ったニーチェが、本当はまるっきり世界が始まって以来苦しみ続けている「預言者」のような人種なんですから、まったく魅力的な人だと思ってしまいますw。 「思考でき得ることの限界」については「センター」と「3層の工場」のことからも説明できます。思考センターは人間のもつ通常の5つのセンター(思考、感情、動作、本能、性)の中でもっともスピードが遅いセンターです。それはセンターの中で最も洗練されていない物質をエネルギーにして働くセンターなので、その働きも最も遅いんですね。 そのために、それに比べて実は想像のつかないほどの早さで作動している感情、動作、本能センターで知覚したことをとらえることが全然できないということが起こるんです。 その実例や「3層の工場」の働きとの関係を次回にやっていこうと思います。 さて、第一の付加的ショック(参照)である「自己想起」に加えて、さらに第二の付加的ショックを起こすことによって工場(参照)の生産性を普通の状態から比べて考えられないほど上げることができるのだということを書きました。そしてその第二の付加的ショックについて言及し、それによって何かの結果を得ようとしているのが、錬金術なのだということも書きました。
僕は錬金術に関して特に調べてみたことがないので(それは「本物」に出会うことが困難であると判断したからです)、そこで一般的に何が語られているのかわからないのですが、この第二の付加的ショックに関しては、グルジェフは正確な解答をしておりません。 グルジェフはただ、このことに関しては普通の状態では第一の付加的ショックである「自己想起」のように明確に語ることは不可能であると言っているだけです。しかしこれは実は非常に理性的な解説の仕方なのではないかと思っております。なぜなら以前にも書いたように、どちららにしても普通の状態から「自己想起」をある程度長期にわたって呼び起こし、「ミ12」や「ラ6」を作り出すことよりも前に、あらゆる無駄な心的緊張(不必要な不快感、杞憂、不機嫌、焦り、短期、せっかち)、あらゆる無駄な身体的緊張、空想や白昼夢から自由になる必要があるわけで(参照)、そのためにはかなり徹底した自己観察とそれによる人間の機械性の理解が不可欠だからです。それに加えて自己想起がどれほどできるようになるのかという問題になりますと、これはやればやるほど、真剣に試せば試すほど、難易度が上がるかのように思えるほど長期間の自己想起は大変です(グルジェフは、人間が自己想起していない状態が今の宇宙のシステムには必要な条件になっているがために、誰かが自己想起しようと努力すると、10倍もの力で眠らせようとする力が働くとすら言っています。それは例えるなら映画「マトリックス」のエイジェントみたいな役割だと思いますw)。そして第二の付加的ショックを呼び出そうという努力にはその二つのことが非常によく準備されていることが必要条件になるのです。なぜなら普通の状態では「シ12」しかその先に変性させるべき物質は体内になく(参照)、第二の付加的ショックで変性させるべきなのは「シ12」と「ミ12」の両方だからです。もしもそれがない状態で第二の付加的ショックを意図的に起こしていくと、必然的に「シ12」にのみ働きかけることになるので、これはある種の人間的異常を呼び起こすのだそうです(後で解説するつもりですが「シ12」は「性」と深くかかわっている物質なのです)。 そこまでの準備がどうしても不可欠である上に、その準備だけでも普通の人間にはほとんど不可能だと思われるほどのワークなのだとしたら、いったいその第二の付加的ショックについてどれほど「知っている」必要があるでしょうか。それがゆえにグルジェフがやった解説はとても理性的だと思うわけです。 実際、この準備は恐るべきほどの大変さなのですが、このうちの最初のもの「自己観察」による人間機械の理解と、それによる無駄なエネルギーの浪費を抑えることがしっかりできるだけで、おそらく普通に見ていて超人のような状態になってしまえると思われます。事実僕はこういうことが少しできるようになってきたのですが(なぜ少しと自己評価するのかといえば、結果は見えるものの、自分がどれほど空想に浸っているときが多いのか、どれほどの心的不安を心に持っているのかということを自分の中によく観察しているからです)、それだけで相当多くのところで「何か特別な人」、「注目に値する人」と思われることが多くなってきました。それには簡単な理由があります。これがちょっとできるようになっただけで、例えば集団の中でわりと長期間にわたって一緒に何かをやったりすると、他人に比べて異常なまでに疲れないのです。それから何かに心を奪われて苦悩するということが非常に起こりにくいことも、まったく普通じゃないと感じられるようですし、身体能力とか、学習スピードもなぜか他人に比べて恐ろしいほど早いんです(これは以前にはまったくなかったことだし、以前住んでいた日本よりヨーロッパの人がそれほど劣っているということでもないと思われます)、それでいてそれらに自分を誇るような心が起こらないところをみて、「いったい何なんだこの人は・・」というふうに感じたりするようなのです。それがもっと進んでエネルギーの浪費がもっとなくなるだけでいったいどんなことが起こるのか(ここではまだ「工場」の機能は普通の機能しか使ってない状態なんですよ!)、それに加えて「自己想起」が長期間できるようになり第一の付加的ショックが加わったらどんなことが起こるのか。これらの自分に起こっている現象と、このセオリーを比較してみると、第2のショックが自己のワークとして必要になるような状態はまだまだずっと先のことになるのだろうと予想されるわけです。 ここまで書いただけでこの第二の付加的ショックの性格が大分はっきりしたのではないでしょうか(まるで逆説のようですが・・)。 この第二のショックは感情生活と結び付いていると言われています。「奇跡を求めて」の第13章ではウスペンスキーがとうとう「目覚める」ことに成功し、(目覚めているときのみですが)グルジェフと心の中だけでかなり込み入った会話をすることが可能になったことを語っていますが。このときにグルジェフがその始まりを助けるためにウスペンスキーにしたことも、激しい感情的なプロヴォークで、むしろ彼を侮辱し、意図的に感情的に耐えられないような状況に追い詰めたのですね。これはおそらくそういった種類の激しい感情の摩擦のことなのだと思われます。どちらにしても、そういった恐ろしいほどの心的危機感が、目覚めるためにどうしても必要なのは間違いのないことのようです。そして不快感を表現しない訓練、「自己同一化」や「内的考慮」をしない訓練がこの第二のショックを得るための訓練であると、それに関してははっきりと解説されているのですが、おそらくこういった激しい心的な状況、恐ろしいほどの他人の不快な表現、侮辱などを「利用」してそれを表現しないこと、そこに自己同一化しないことによって起こすようなショックのことなのかもしれません。 (ああ、これはまるでキリストが死ぬ前に行った業のことのようではないですか!) 昨日は人間の通常の生で、外の世界から入ってくる栄養を変性させる過程を書きました。それによって得られる「物質」は食物によって「シ12」、空気によって「ミ48」、印象によって「ド48」でした。そこから印象への働きかけ、今までも書いてきた自己想起(参照1、参照2)をすることによって、印象から始まるオクターブ、つまり第三のオクターブがさらに進展し「ミ12」を得ることができます。それと同時に空気から始まるオクターブ、つまり第二のオクターブも自己想起による付加的ショックで「ラ6」まで進展します。 比較するとこうなります。 普通の生で、つまり人間一番、二番、三番が獲得できる物質の最高のものが、 「シ12」、「ミ48」、「ド48」 そして自己想起がわりと長時間可能になった場合(この章で、これは人間第四番の機能であると説明しています)。 「シ12」、「ラ6」、「ミ12」 さて、ここにでてきた物質のうち、「シ12」と「ミ12」はインターヴァルで止まっているわけですから(参照)、ここに付加的ショックを与えることによってさらなる進展を促すことができます。 僕はこの物質の変容のことを、「錬金術的ワーク」とこのブログで勝手に名づけましたが、それはこの物質の変性、低次の物質を高次の物質に変換していくということが、まさに錬金術でいう非金属から貴金属を作り出すということだそうだからです。ここでは僕はグルジェフの説明を信じるしかないのですが、錬金術で問題にしていることは、この第2の付加的ショック、つまり「シ12」と「ミ12」を変性させることなのだそうです。 ちょこちょこ切れていて申し訳ないですが、この第2の付加的ショックからまた次回始めたいと思います。 人間をある種の工場、宇宙的な意味で粗悪な物質を純度の高いものに変える3層構造の工場と考えることができます。これは以前書いたように(参照)食物を体内にとりこみ、ある部分は排泄し、ある種のエネルギーを作り出す過程のことを言っています。普通の状態ではこの工場はその本来産出できる生産量のほんのわずかな分しか生産しておらず、そのため、その工場(つまり人間自身の生命)を存続するためだけにすべての産出物を使い切ってしまいます。それがわれわれ人間の現状です。それがゆえに目的もなく、ただ生命を維持するためだけに、われわれは適当な楽しみをみつけて生き、死んでいくのだと言ってもいいのだと思います。さて、それではこの工場の生産力をあげると何が起こるのかというと、これによって人生で何らかの「意味のありえる事」をするためのエネルギーが生まれ始めるわけです、生産された良質の物質で、生命維持以上の余剰分がたまってくると、その物質が工場全体(人間の体内)に蓄積し、特殊な方法で結晶化しながら、次第にそこに定着していく。その後何が起こるのかは置いておくとして、この3層の工場について見ていきましょう。
この工場の上層階を人間の「頭」、中層を「胸」、下層を「腹、背、下半身」と考えます。 ここにそれぞれ3種類の食物のうちの(参照)第一存在食物の「印象」が工場の上層階である頭にはいり、第二存在食物である「空気」が工場の中層の胸にはいり、第三存在食物の「口から食べる普通の食物」が下層の腹に入ってくるわけです。 この生産の過程を見ていきましょう。 まず、第三存在食物(普通の食物)がお腹の中にはいってきます。ここで以前説明したように、宇宙の中のすべての現象は振動の法則であるオクターブの法則によって(参照)進行するので、この食物の消化、エネルギーの生産の過程も同じようにオクターブの法則によって進行していきます。まずこの「食物」は消化の過程で第三層(お腹の中)で「レ(384)」(カッコ内の数字は物資の純度と考えてください)となり、体内にある別の物質と結びついて工場の中層階である胸に行き、「ミ(192)」に変容します。ここでもうひとつ思い出していただきたいのですが、オクターブにはインターヴァルあるので(参照)「ミ」から「ファ」への以降はなんらかのショックがなくては進みません。そこに自然はそのインターヴァルを埋めるために「付加的ショック」用意しています。それが第二存在食物である「空気」です。第一オクターブ(普通の食物のオクターブ進行)の「ミ(192)」は第二オクターブ(空気から始まるオクターブ進行)の「ド(192)」のショックにより「ファ(96)」を生み出します。そこから先はまたオクターブの法則にしたがって、次のインターヴァルがくる前の「シ(12)」まで止まることなく進んでいきます。ここで生み出された「シ(12)」はわれわれが普通の状態で生み出すことのできる最良の物質で、さきほどの胸にあった「ファ(96)」からできる「ソ(48)」は工場の上層階である頭に移動し、「ラ(24)」は再び胸、そして「シ(12)」は最下層の下半身に生み出されることになります。 第二オクターブである「空気」の変容は「ド(192)」として工場の中層(胸)に入ってきて、そのまま「レ(96)」に変容します。それが上層(頭)に移って「ミ(48)」になりそこで生産は止まってしまいます。そこからさきは「付加的ショック」が用意されていないからです。 そして第三オクターブになる「印象」は「ド(48)」として上層である頭に入ってきますが、そのままでは十分にエネルギーを持っていないために、それ以上変容することができません。 ふう・・。 ここまでが普通の状態での人間工場の生産過程です。口から食べる食物が第一オクターブの過程によって「シ(12)」まで変容され、第二存在食物である空気が第二オクターブの過程で「ミ(48)」にまで変容し、第三存在食物である印象はそのまま「ド(48)」として体内に残ります。 ここからさらに良質な物質を生産させようとするということは、もちろんこれらの途中で止まってしまったオクターブをさらに進展させていくことになっていきます。それは結局第三オクターブの「ド(48)」である「印象」の質を向上させて、第二オクターブの「ミ(48)」との結合をはかることによって両方のオクターブの進展を進めることなのですが、入ってくる「印象」の質を向上させるということは、もちろん、あれです。例の・・。ww 「自己想起」のことですね。 正直ここまで一心不乱に書きましたが、たぶんこれってもともと知ってた人しかわかんない感じですね。図を描いてみました。 きたない図ですいません・・。 ![]() 今日も「工場」の話を書きません^^;
何かを書こうとすると、すぐに別のことが気になりだすんですよね。これは僕の思考センターの弱さを示しているのでしょうか。一つのことを徹底して考えられないという・・。まあそれもそうなのですが、「石橋をたたいて渡る」ような部分は僕がずいぶん昔から持っていた傾向でした。土台がしっかりしなくては何か立派なものを建てていくことができないというイメージが僕の心の奥にずっとありまして、そんなことをやり続けているのが僕の人生でもあります。人生はわりと短く、そんなことをしているうちに人生が終わってしまうということがあまり頭にないのです^^; ガウディのサグラダファミリアのように一生かかっても門構えしかできないような建物もありますからね・・。 まあいいです。気になったことを書きます。 きのう僕が記事をかいた態度について気になることがあったのです。きのうの書き方だと、まるで自分が何かを達成していて次の段階に進むべき位置にいるようになっていたし、心のどこかでそういう風に考えていたのだと思うのです。そういった自分の態度に自己批判したくなったのです。 グルジェフが語った「ワークの原則」の中で僕が非常に重要視している点が2つあります。 そのうちの一つが、努力をすればするほどその人への要求は増す。真剣な努力をしない限りはその人のへの要求はわずかだが、彼が努力をすると即座にその人への要求は増大する、というところです。 そしてさらにこう付け加えています。 「これはよく間違えをおかすところだが、自分がそれまでにした努力や功績が自分にある種の権利や便宜を与え、そのため課せられる要求は減り、またワークをしなかったときとか、後でまずいことをしたときの言い訳になると思っている。もちろんこれは最もひどいまちがいだ。きのうやったことが今日の言い訳になるということはない。全くその反対で、もし昨日何もしなかったら今日も何ひとつ要求されない。もし昨日何かをやったらなら、今日はそれ以上のことをいなければならないのだ。」 これは人間そのものに対する辛辣な批判とも言えるのではないでしょうか。 普通、努力というのは何らかの未来の安楽のためにあり、それを想像するから今の努力もできるし、その結果ある段階までいけば「ふんぞりかえる」ことを社会からも、自分自身からも許されるようになる。これはどこの世界を見てもその原則によってなりたっているのではないでしょうか。 しかしこれをワークの視点からみるとまったく逆、そうである限りはどこにも行き着くことができないのです。 そしてもう一つは、ワークの目的は自分がまったくの「無」であることを常に感じ続けるようになることだ、というところです。 これもものすごく難しいことだと思います。僕のきのうの記事のように、人はやればやるほど、なんらかの結果がでるほどに、自分が何かまともなものに見えてきますし、そうすることによって安心を得たくなるのです。「自分はこんなにがんばったのだ」と・・。そして本来はこの安心感こそが自分の弱さの表現に他ならないのです。 秘境的なワークというのは多く、そういった自分が(又は「自分たち」が)特別であるとか、一般人に追いつけない境地にいたっているとかそういった自尊心を呼んでしまうものです。しかし、グルジェフはここにこそ釘をさしています。「ワークによって自分自身の無を自覚するかわりに、自分が重要であると思い込む人間は、誤った人格をを成長させる」と。 そんなわけで、昨日記事を書いた後、何かおかしな、そういった種類の「疑念」が自分に湧いてきて、いろいろ自己批判をした結果、自分はおそろしいほど眠っているのだということを再び強く感じました。とにかく自分はワークをするにはあまりに怠惰で、自分に甘く、自分に安楽を許してしまう人間なんですよね。本来あらゆる瞬間がワークでありえるところを・・。これをとにかく頻繁に思いだせるようにすることが、まず大切なのじゃないかと思いました。 われわれの最初の目的はいつの日か「為すこと」ができるようになることだと思います。つまり外からの影響の奴隷であることをやめ、自分自身のするべき事を「為す」ことです。そのためにはまず、「死ぬ」必要があり、そして個体性を持つようになる必要があります。結局はわれわれの持つべき最初の目標はそこにしかないのだと僕には思われるのです。
その機械的であり、奴隷的である現実に十分に気づき、それを肯定し、そこから逃れるために何かを始めてみようとすると、自分にそのためのエネルギーがまったくかけていることに気づくことになります。今まで機械的に、外の影響からのみで動いていた自分が、それ以外のことをしようと思うと、まったく集中力がかけている、今まで集中していると思っていたことも、機械的に、外からの影響で集中していただけだったことに気づき、それ以外の事をしようと思うとそのためにはまったくエネルギーが足りないということに気づくのです。 そこでまずしていくことは、普通の生活で垂れ流すようにしていたエネルギーの流出を防ぐことだといわれます。それは不必要な不快感、杞憂、不機嫌、焦り、短期、せっかち、空想、白昼夢などから自由になっていくことで、それ以外にも仕事に必要な量以上の無駄な筋肉の緊張や、ひっきりなしにしているおしゃべり、まったく関心のないことにも絶えず注がれる関心、それから注意力の不断の浪費などもものすごい量のエネルギーをたれながすことにつながるようです。 このことは一度気に留めて自分の中に観察してみると、普通の人間が普通にやっていることばかりだし、道徳的に見てもまったく肯定されていることばかりなので、ある意味何が悪いのかよくわからないだけでなく、いったいそのことでどうエネルギーを浪費しているのかということがなかなか理解できません。でも、これは自己観察を短いスパンだけでなく、一週間、2週間、2ヶ月など長い期間の間のデータを取って置けるぐらい自分を覚えておけるようになるとだんだんにその真意がわかってきます。事実これらのことはわれわれからものすごく多くのエネルギーを奪ってしまっています。そのことの意味がわかってくるほどに自己観察が実現すると、実は自然にこれらのことをしなくても済むようになってきます。それは「理解」がすでに自己の存在を高めているということなのでしょう。その馬鹿さ加減が痛いほどにわかると、当たり前のようにしないようになったりするのですね。実はエネルギーを浪費してしまうようなこれらの事をしないということだけで、すでにかなりのレベルで「目覚める」ことを意味してきます。 ここまで実現すると人間はすでに膨大な量のエネルギーを蓄えることが可能になります。そこでたやすく自己研究と自己完成への努力を始めることができるというのですが、さらに先に進もうとするとまだまだ問題は困難であることがわかります。ある程度自分の機械の均衡をとって、それが思いのほか多量のエネルギーを生み出すことを確かめたときに、人はそれでもこのエネルギーでは十分ではなく、もしこの先ワークを続けたければさらにエネルギーの量を増やさなければならないということがわかってくるのです。 さて、ここでようやく、きのう書くことを予告した、三層構造の工場という考え方がでてくるんです。きのう話したように、人間は本来低次の物質(エネルギー)を高次の物質(エネルギー)に変えていくように作られていますので、それをエネルギー生産のための工場と見ることもできるのです。 今日書きたかったのは、まあ元々はこの工場のことだったのですが、それを変更して、ここから先に書いていくような工場の話などは、すでに一つ高い段階のワークにはいっているのだ、ということをまず言いたかったんです。今まで書いてきたような自己観察と人間機械の理解が進み、多くのことに自己同一化することがなくなってくると、ある「存在」の段階にくることができるのだと思うのですが(つまりこれはエネルギーの浪費を防ぐ行為を導きますし、またその逆もそうで、パラレルに助け合って進んで結果を生みます)、ここで初めてこの先の錬金術的なワーク、まあ、より高度でより攻撃力がある(つまり今までの自分が死んでいくためにですがw)ワークに入っていける。そしてこの特別なむしろ秘法的な錬金術があるからこそ、第二の体を形成するようなことも起こりえるのだということなんですね。 その理由で、このブログでは「奇跡を求めて」の第8章までを徹底してやっていこうと思っていたのですが、少し「性」のことについて書きたいと思ったがために、その先のことまで書かざるを得なくなってしまったんですね・・(うかつでした)。 でもこの機会ですから先に進めていこうと思います。 ただここで一応書いておきたいのは、もしもグルジェフ的なワークを始めてどこかに行き着きたいと思っている方がいらっしゃったら、これからこのブログで書いていくことよりも、「奇跡を求めて」の第8章までに書いてあること、つまり自己観察を中心としたところを徹底的に読んでその部分を長い年月をかけて身につけていくことをお勧めしたいです。このグルジェフの自己観察の部分は、ある意味(僕の勝手な解釈ですが)剣道で言えば「面うち」とか「切り替えし」、空手で言えば「正拳突き」みたいなもので(w)、どんなマスターになっても(5段とか6段とか?)これで完璧などということはないほど、極めつくせない領域であり、もっとも重要な領域だと思うからです。 3種類の食物についての話を続けたいと思います。
きのう書いたように、「口から食べる食物」、「空気」、「印象」がこのシステムでは同様に「食物」と呼ばれています。 これらはそれぞれ「第一存在食物」「第二存在食物」「第三存在食物」と呼ばれています。 そしてこれらはそれぞれ同様に人間に欠くことのできない栄養なのです。 空気が人間にとって「食物」であるというのはわりと理解しやすいかもしれませんが、印象が「食物」であるという考えを理解するのは少々やっかいかもしれません。これら3つの食物の人間にとっての重要性は同じではないのですが、実はわれわれのとる栄養として「印象」が最も重要で、普通の食物がもっとも重要でないという、順列すらついています。 その説明はこうです。人間は普通の食物をとらなくても比較的長いこと生きていることができます。水と食べ物をまったくとらないでも数日間は生きていることができるわけです(もちろんかなりきついですけども)。それに対して第二存在食物である「空気」をとらなかったらおそらく2,3分以上生きることはできないでしょう。そしてもしも(これは本来起こり得ないことですが)人間が一切の「印象」を絶たれてしまったら一瞬にして死んでしまうのだそうです。 僕はこの話を始めに聞いたときにある変な話を思い出しました。村上龍の小説でちょっとした性倒錯者サークルの物語のようなものがあったのですが(そんな話ですいません・・^^;)、Sのおっさんが特殊な樹脂を使って(彼らは科学者なんです^^;)女の子の耳を完全に塞いでしまって、目隠しをして、全身を縛って身動きが取れないようにして放置しておいたそうなんです。そうしたらその子は失神してしまってまったく回復する見込みがなく、えらく困ってしまったというのがありました。そのとき仲間の科学者たちが、「そうそう完全に感覚をなくすと、そういうことも起こるんだよね」なんて心配しつつも納得し合っていたのでした・・。変な話になってしまいましたが、もしこんなことを実体験で知っているような人がいらしたら是非密かに教えていただきたいと思っちゃいますww。もちろんこの場合は完全に印象を絶っているわけではなくてそれに近い状況というだけだし、何の参考にもならないわけなんですが、なんとなく僕はそういう連想から、・・そういうこともあるのかなぁと納得したのでした。 話を戻しましょう。 このようにしてわれわれのとる食物の中で第三存在食物である「印象」がもっとも重要な食物であるということなのです。印象とは常に世界をとりまく自然から与え続けられる栄養でわれわれの主要なモーターであるとすら言われています。 このことを食物の概念の別の側面と、宇宙の中での人間の役割というところから見ていくとより納得することができます。 グルジェフの食物の概念とは、有機体に栄養を与えるということだけでなく、ある低次の物質を高次の物質に変換していくプロセスなんです。そしてはわれわれはこの宇宙の中で惑星の影響を受信して地球に伝え、それを月にまで送るという役割を持っていますから、われわれは事実、宇宙からの視点(創造の光の視点)から見れば、惑星の影響を受信する受信機なのです。そのわれわれが宇宙からの影響を「印象」として受け取り、常にそれをより高いエネルギーに変換するという、有機体としての役割をはたしているのです。 すこし話がややこしくなってしまうのは、それぞれの概念について説明が十分にできていないと話すことがほとんど不可能だからなのですけれども、この辺で妥協するしかないでしょう。 さて、そのようにわれわれは「印象」という「食物」をより高い物質に変換する役割を持っているのですが、実はわたしたちは現在、生まれたままの状態ではこの印象をより高い「物質」に変換する術をほとんど持っていません。実はいままでに何度か話した第3の意識の状態「自己想起」をすることによって初めてこれを可能にするのです。「自己想起」とは外からくる印象と、それを感じている自分の印象の両方を同時に感じていることなので、つまり受け取っている印象が第二の意識状態の倍になっているわけなんですね。そしてそれができることが、人間が今現在の機械的に外の影響の奴隷であり続ける生から解放されるための始まりであり、これが人間に次のステップに進むための大きなエネルギーを運んでくれます。 このことを理解するには人間をエネルギーを作り出すための3層の工場と見立てて考えることが必要なのですが、このことはまた次回にまわしたいと思います。 「性センター」のことについて話をしていこうと考えていたのですが、その話をするためにはどうしても「食物」について話をしておかなくてはいけないことに気づきました。
グルジェフのシステムでとても興味深い点は、人間、宇宙を理解するうえで、いくつか現代の理解のされ方とはまったく違った特別なやり方があることです。宇宙のことに関しては自分で証明することが困難だし、今の話題には必要がないので置いておきますが、人間の理解に関しては自己観察をしていくことによって、むしろその考えが現代のものよりもずっと真実に近く、その考えを使えば他のいろいろなことを理解する上で非常によく応用がきくことを理解できるのです。 いままで書いてきたことの中では、例えば「センター」の考え方があります。現代の考え方では人間は一つの脳をもっており、その脳が人間のすべての機能をコントロールしていると考えられていますが、あたかも人間に3つの脳があるように考える。それが「思考センター」「感情センター」「動作センター」と呼ばれているんですね。それらが独立して人間のそれぞれの機能をコントロールすることができるというものです。もう一つは「意識」の問題。現代では意識は有るか、無いかとしか考えられていませんが、4つの質のことなる意識の状態があり、それぞれの意識の状態で思考も感情も、身体の機能もすべて異なる表現ができるということ。もう一つは複数の私。現代では自分は一人しかいないと考えられていますが、本来「自己」と呼んでいるわれわれ自身の中には互いにまったく責任を取り合わない複数の自己が存在しているということです。 今挙げた3つすべてが人間を理解する上での「枠組み」そのものを大きく変更するような考え方です。 それに加えてもう一つが「食物論」といわれるものです。 これも現代の理解とは大きく異なっています。現代では口を通して食べる食物だけを「食物」と呼びますが、このシステムでは3つあります。 「口から食べる食物」、「空気」、「印象」の3つです。 もちろんこれらをパラレルに「食物」と呼ぶからには、これらはまったくパラレルな機能と性格を持っているんです。 ううん。なかなか話がややこしくなってきました。ちょっと今日はもうすこし頭を整理して、続きは次回にまわそうと思います。 それでは! 性の問題について書こうと思います。
性の問題は僕にとって長年非常に重要なテーマでした。性の問題は非常に難しい問題だと思います。いきなり言ってしまえば、性ほど人を堕落させるものもないのに、性ほど人を高めるものもないからです。このことは(大人なら)誰もが心の中で感じていることなのではないでしょうか。そしてこの問題をさらにややこしくさせているのは、常にこの問題がタブー視されているからだと思います。 そこでまず、これをタブーにしないところから一つその障害をやぶろうというわけですw ワークの観点からみて、すばらしい性生活を送るということは結局単に、だらしないセックスでなく、最高に気持ちいいセックスをするということではぜんぜんありません。普通の「良き性生活」を求めるだけならそれで終わりだと思うんです。つまり自慰行為とかではなくて、よいコミュニケーションとしてのセックスを体全体と心のそこから、自分の全存在をもって楽しむというようなことです。(そういった良き性生活を送るだけでもどれだけ難しいことでしょう・・。) それに加えて「ワークの観点」から見るというのは、それが自己の進化にとって有益であるのかそうでないのかということが問題になってくるのでさらに話が難しくなってくるんです。正直、本当にいいセックスをしていても、それが明らかに自分の進化へのエネルギーを弱めることもあるからです。 そんなところにまで「進化」だとかの概念を持ち出すのは大げさなんじゃないか、という意見があるかもしれません。しかし性センターのエネルギーは他のセンターに比べてあまりにも強いのでどうしてもここを通らないでいると、人間は「性」にというか「性センター」に振り回されて生きることになってしまうんです。 ポルノや性風俗産業があれだけの巨大産業であるという事実だけを見ても、本来それにどれだけ人が振り回されているのかというのはしっかり見えるはずです。それは男性だけではありません。女性が「美」にこだわるのはなぜでしょうか?女性に限らずファッション雑誌や週刊誌、ゴシップがなぜ売れるのか、何を基にしてこういう産業が成り立っているのか、これもほぼ性でしょう(最近の流行で言えば「雑誌、週刊誌の80%は性でできています」とかになるんだと思いますw)。社会人が唯一の娯楽であるかのようにやる「合コン」だとか、あけすけに言えば男がなぜ常にできうる限り金持ちになりたいと思っているのか、これも性なはずだと思われます。 「奇跡を求めて」の12章に「性センター」のことについて書いてあります。これはそれほど多くのページを割いてはいないのですが、これだけでも考察するのにまったく十分すぎるほどの素材を含んでいます。次回からそのことを少しずつやっていこうと思います。 ここで仕事の報告をするというのも変なのですが、
以前話題にしたときに、あたたかい言葉もかけていただいたので一応一言だけ・・。 マタイ受難曲、今回は本当に意欲的ないいコンサートでした。 さすがに古楽の国、オランダだということをみせつけられた感じでした(オランダではバロック音楽がとてもさかんなんです)。みんなの曲に対する理解力がとってもとっても高かったです。 僕以外のソリストにはワールドクラスの人たちもいたのですが、その中でとてもいい仕事ができたと思っています。 ここのところ起きているのがつらいと感じるようになってきました。それはつまり実際起きているかどうかではなくて、高い(できればの話ですが)意識の状態を保っているのがつらいと感じるようになってきたということです。このブログを始めてからここまで自己観察という意味でかなり集中していられたし、その成果としてだと思うのですが、いろいろなところでエネルギーがあふれていて、自分の芸術家としての道にも大きな進歩があったぐらいでした。それがここ数日、正確に言うと、・・6日木曜日の夜からですね、一人で家にいるときに意識の糸を保っていることができなくなってきたように思います。これはいつも思うことなのですが、外にでているとき、仕事をしているときはいいのですが、疲れてくると自分ひとりでいるときに意識を保っていることが難しくなる。まあ、つまりは「ちょっとぐらい休ませてくれよ〜」という気持ちになって家に帰ってからは思うがままにだらだらしたくなるんですよね。
いや、それぐらいはいいのかもしれません。もちろんそんなことは問題ないんです。ただ、そのためにいままで前に向かっていたエネルギーが方向を変えてきた。これが問題なんです。 これもオクターブの法則なのでしょう。ここに何らかのショックが必要。というよりはおそらくまた何らかのエネルギーの始まりを起こす必要があるのでしょう。 ショックなら実は強いものがあるんです。今週はオランダで仕事がありまして、それが終わったら少し空いてフランスのほうに仕事に行くので、しばらくは移動生活になるんですね。ドイツの外にでて仕事をするのは、すごく違う環境になるので、これがある意味でいいショックになってくれるだろうと思います。 今回オランダではバッハの「マタイ受難曲」というのを歌います。これはオーケストラと合唱とソリストでやるキリストの受難の物語で、今がイースターなのでまあシーズンなんですよね。 で、復活前の木曜日と金曜日が非常に大事な日なので、今年は12日木曜日、13日金曜日とコンサートがあるわけです。 僕はテノールのソロなのですが、僕が歌うもののなかに「Ich will bei meinem Jesu wachen」 という曲がありまして、これはキリストがユダの裏切りによって捕らえられる直前、ゲッセマネの丘で父である神に祈りをささげているとき、待っている使徒たちに「寝てはならない」と言いつけているんですね。キリストは2度戻ってくるのですが、その間誰一人として起きていることができなかったという物語で、僕が歌うこの曲は、使徒の立場から、「キリストのそばで起きていたい!」という切実な思いを歌う歌なんです。この「起きている」というのは、もちろん、最初に書いたのと同じことで、実際に起きているかどうかではなく、高い意識の状態を保っていられるかどうかということなわけですよね(もっと言えば第3の意識の状態を保っていられるかどうか、と言ってもいいかもしれません)。 なんとなく、今、この時に、起きているのがつらいと思っている時に、そして自分のために切実に起きていたいと思っている僕が、この曲を歌うことでそれ自体がおそらく今の起きているのが難しいと思っている状況を変えるショックになってくれそうであるという事実が、興味深いなぁ。なんて思いました。 (長い文章すいません) 死ぬ気で起きていたいと、切実に思います。 うーん。やっぱりテンプレート気に入らないので
とにかく暫定、シンプルなのにしておきます。 いいものみつからないっすよ、なかなか。 これでいいのかも。 オクターブの話はもうずいぶん前になってしまいました。その頃オクターブの法則にしたがっているがためにコントロール不能で、どこにも辿り着くことができない我々の哀れむべき生(w大げさですかね)を、複数のオクターブを頻発させることによって少しでも前に進ませる可能性もでてくるのではないか、というのをまあ「はせいんメソッド」(w)として提案していたわけです。
このオクターブを頻発させるためにもう一つ僕なりのメソッドがありまして、それはいかにオクターブをきっぱりと、すんなりと終わらせるかというところにあるんです。 参照、オクターブの法則、インターヴァル、オクターブの法則3 参照2、オクターブを頻発させるテク 僕は時期によっていろいろな作家にはまったりしてきたのですが、そのうちの一人にヘルマン・ヘッセがいます。この人、実に秘教的、スピリチュアルなことをこころの底からよく理解している人だと思うのですが、そのうちオクターブの法則についてはおそらくマスターと呼ばれる域に達するほどよくよく知っている人なのだと感じるんです。 彼の詩にこんなのがあります。 Stufen Wie jede Blüte welkt und jede Jugend Dem Alter weicht, blüht jede Lebensstufe, Blüht jede Weisheit auch und jede Tugend Zu ihrer Zeit und darf nicht ewig dauern. Es muß das Herz bei jedem Lebensrufe Bereit zum Abschied sein und Neubeginne, Um sich in Tapferkeit und ohne Trauern In andre, neue Bindungen zu geben. Und jedem Anfang wohnt ein Zauber inne, Der uns beschützt und der uns hilft, zu leben. Wir sollen heiter Raum um Raum durchschreiten, An keinem wie an einer Heimat hängen, Der Weltgeist will nicht fesseln uns und engen, Er will uns Stuf' um Stufe heben, weiten. Kaum sind wir heimisch einem Lebenskreise Und traulich eingewohnt, so droht Erschlaffen, Nur wer bereit zu Aufbruch ist und Reise, Mag lähmender Gewöhnung sich entraffen. Es wird vielleicht auch noch die Todesstunde Uns neuen Räumen jung entgegen senden, Des Lebens Ruf an uns wird niemals enden... Wohlan denn, Herz, nimm Abschied und gesunde! Hermann Hesse 日本語の訳詩を持っていないので、自分でだいたいの意味を訳してみます。 「段階」 すべての花が枯れ、すべての若さが年老いていくように、すべての「段階」や知識、それぞれの時代の美徳は枯れていき、永遠に続くことはかなわない。 すべての生の「段階」において常に別れを告げる準備ができていなくてはならない。そして雄々しく、悲しむことなく新しく始まりを迎えなくてはならない。 そしてすべての始まりに「魔法」が隠れていて、私たちを守り、生きることを助けてくれる。 私たちは勇敢に空間から空間へと移動し続けなくてはならない。だれも故郷のようなものにぶら下がり続けることはできない。 世界は私たちを縛り付けたり、押しとどめたりはしない、逆に私たちを段階から段階へと上昇させようとしている。 心地よさに慣れきってしまうことはできない。今あるものを壊し、旅立つ準備のできているものだけが、無感覚になった習慣から逃れることができる。 もしかしたら死の瞬間にすら、新しい空間が用意されてるのかもしれない。 生からの呼び声は決して終わることはない。 さあ、心よ。別れを告げろ。快活に! ヘルマン・ヘッセ 普通、詩には「。」を使わないんですよね。まあいいや。だいたい意味は訳せたと思います。というかけっこう満足していますww (興味がある方があったら本屋さんで訳詩を探してみてください。僕は日本に住んでないのでできないんです・・。僕のは、はしょっているところもありますし、ちゃんとしたものを読んだらもっとよくわかるかもしれません) ここに出ているように、始まりにこそ世界からくる力があふれているのだということを信じて、一つの段階から思いきり飛び出してしまうんです。いままで続いてきたオクターブに心を残すことなく、潔く別れを告げるんです。こうしていくと、本当に力強くあたらしいオクターブを始めることができると思います。その別れを告げたときの心のショックが大きな力として次の始まりを助けてくれる感じなのです。それがヘッセの言う、すべての始まりにこもる「魔法」なのではないかと感じています。逆に、何かを心に残していると新しいオクターブの始まりに力が生まれないと思うんです。 この詩がすべてを説明しているので、これ以上何も書く必要はないように思いますが。 そんなふうに、終わりそうなものにはどんどん別れを告げて、新しい段階に勇敢に向かっていくことでオクターブは力強くたくさん起こすことができると思います。 以前僕の師について書いたことがありました(仮説の考察)。そのとき自分の知っている人間の中で唯一、身体の状態に感情が左右されない人間が自分の師で、それは第2の体の機能なのではないか。つまり彼は第2の体を持っているのではないかというようなことを書きました。まあその時もとんでもない妄想をしているなぁと自嘲したのですが・・。
その後そのことについて師と話す機会がありました。 すると師は「そんなものを持っているんだったらとっくの昔に芸術なんかやっていない。オペラなんかすぐにでもやめているよ。こんなもんは病人のやるものだ。(オペラなんかをやってる奴らは)みんな病人だよ。」 と笑い飛ばしました。 僕も、さすが我が師だ、と思って満足して一緒に笑いました。 身体のコントロールはグルジェフのワークの中でも実はかなり重要な位置を占めています。もちろんグルジェフムーブメンツもとても重要なのですが、それじゃなくても非常に基本的なワークの前提として次のことがあります。グルジェフが説明するにはあらゆる習慣、つまり思考的、感情的、身体的な習慣は互いに密接にかかわり合っていて、どれか一つを変えようと試みても他のものが邪魔をして変えることができない。例えばある姿勢の習慣はある習慣化している感情を呼び起こし、それは同時にある習慣化している思考を呼び起こす。そのうちの思考だけを変えようとしても、それはほかの姿勢、感情の習慣にささえられているので、どうしても変えることができない。 そこで何か完全に新しい思考や感情を学ぼうと思ったときにはまずは身体から、姿勢をコントロールするところから始めるのが一番良いと。なぜなら姿勢は意思の力でコントロールするにはもっともうまくいくからなんだそうです。 新しい姿勢をを手に入れて初めてそこに新しい思考や感情が実現できると言っているのです。
僕は職業的な意識(オペラ歌手としての)からもそうだったのですが、この理由からかなり身体のことを徹底してやってきました。いろいろなムーブメンツをやってみました。 それで知ったことは、結局最も大事なことは自分の体をいかに意識していられるのかということ、自分の腰骨の状態が今どうなっているのか、それに伴って背骨の状態はどうなっているのか、そして背骨はその状態でどれほどの可動性を持っているのか。これを中心にして、自分の重心の位置、肩の状態、それから無駄な力を使わずに姿勢を保っているのか、又は作業をしているのか、ということ。これらの感覚をよく注意深く修練していくと、常に自分の体を感じていることができるようになってきます。 それは僕にとって自己想起の大前提となっていると思います。自己想起とは、つまりは自分に気づいていることなのでこういうことが言えると思います。例えば、何か外で自分に不快なことが起こるとします。そんな時それに完全にとらわれてしまうことが「自己同一化」と言われていますが、その瞬間に自分の体全体が意識できていると、自分の身体の感覚が変化してることに気づきます。そういう不快な現象に対して、自分の体のある部分が緊張(つまり硬くなる)したり、または落ち着かなくなっていいたりするのです。 こうすることによって「現象」と「それに反応する自分自身」の両方を意識して見ていることができます。これはある種の「自己想起」と言っていいはずです。 同じことが芸術に触れるときにも起こります。偉大な芸術、それは僕の観念から言えば、思考、感情、身体をすべて使って実現されているようなそんな芸術を前にしたときには、自分の体の感覚が強く変化します。なぜか空間を通して、目で見ているだけの筈が、おそらくなんらかの磁場を通して自分の体に強い影響を与えてくるのです。それは僕の想像するにはその作者の持っていた身体感覚なのでしょう。 これらの感覚も身体を研ぎ澄ますことによって身に着けることができますし。芸術を目指している方たちには、これをとおして本当に芸術作品と「対話」ができるようになってくるのです。 あと、これによってセックスも絶対うまくなります。男も女もです。身体を深く理解していくわけですからね。人生充実ですw P.S ちょっとデザインを変えてみました。
変かなぁ。 戻そうかな・・。 いかん、すっかり忘れてしまっていました。前々回(「意識の状態」)で、意識の第3段階にいたることについて書きましたが、その第3の意識の名前についてはまだ書いていなかったのですね。それをまずやらなくては。
さて、第3の意識状態は、ここでも何度か言葉を出したことはありましたが、「自己想起」と呼ばれています。 「自己想起」を導くために、またはまずは理解するために一番役に立つのが、結局「自己観察」、それによって自分の機械性を理解すること、自分が眠っているのだということに気づくことだとそういうふうに(「意識の状態」で)書きました。 もう一つ「自己想起」を呼び起こすために非常に有効な手段があります。それが「自己同一化」を避けることです。通常人間は「自己同一化」をつねにしているために「自己想起」できないと言われています。 自己同一化、これも簡単には理解しにくい概念です。なぜかというと、通常人間は絶え間なく何かに自己同一化している。つまりそれはあまりにも普通の状態で、自己同一化していない状態を体験したことがないために、なんのことなのか理解しにくいという類のものなのです。 自己同一化とは注意を注いでいる対象になりきってしまって自分のことを忘れてしまうことをいいます。 例えば食事をしているときには、食べているものに自己同一化します。自分が食べているという状態は見えていなくて注意はすべて食べる対象に向かってしまいます。 誰かとしゃべる時も、自分の使っている言葉に自己同一化してしまいます。少しややこしい話になったときに、自分が主張したい内容を簡単に忘れてしまうのもそのせいだと思われます。今話していることがすべてになってしまう。つまり今使っている言葉に自己同一化しているのです。 もっとも悲劇的なものの一つは「複数の私」のうちの一つに自己同一化してしまうことです。まったく本来の自分の欲求と矛盾した「複数の私」の欲求に自己同一化してしまうことによって、自分の欲求は絶対にかなえることができなくなります。そのときの気分で、偶然でてきた「欲求」がまるで自分の最も大切な欲求であるかのように考えてしまうのです。 結局自己同一化が起こると他のコンテクストをまったく覚えていられなくなってしまうわけです。そのために行為しているときに、その動機や、やっている自分自身、その周りにあるものを常に感じていられるようにする。そのことで、その忘れっぽい状態から逃れることができます。 結局これが「自己想起」になっていくわけです。 この「自己同一化」についてもやはり自己観察を通して自分の生活の中から例を探して、体験しないと「理解」することは難しいと思います。ただこれをもう少し明らかにするために「自己同一化」の特殊な形態である「内的考慮」についてもいつか書きたいと思っています。 週末はハンブルクに行ってまいりました。僕は職業がらというか、電車の旅にはわりと慣れていて、3時間までなら特別苦もなく移動できるのですが、ハンブルクまでは5時間かかりまして、これはかなり大変でした。
僕の考えでは、うまく使いさえすれば、移動時間は日常生活の中で一番たっぷり時間を使って落ち着いてものができる時間です。 なぜならほかの時には常にしなければならないことに中断されることになりますから、それほどゆっくり読書なり、ものを書いたりなどはできないわけです。 ただ、それが5時間ということになるとそうはいきませんでした。 何が問題になってくるのかというと、一番は姿勢が保っていられなくなるのですね。考えてみると人間、電車や飛行機の移動以外で同じ姿勢を5時間とり続けることなんてないんですよね。非常に訓練された瞑想が得意な人ですら、やはり3時間ぐらいでやめるのじゃないでしょうか(ちなみに僕は全然しません)。(一人でだったら特に長くはできないですよね) 腰が重くなってきたり、椅子によっていろいろありますが、姿勢が保てなくなってくることによって、精神、意識もどこかにさまよい始めてしまうのです。それが始まるともう落ち着いて何かをすることができなくなる。 これが今回の観察です。 グルジェフの、身体と感情、思考は密接につながりあっていて、普通の人間の場合、身体の状態が感情を、感情の状態が思考を支配してしまうというセオリーをここでもみることができます(これについては「仮説の考察」で少し解説しました)。 逆に言えば、自己観察を続けるためには身体の感覚を感じていること、コントロール下においておく事が前提条件になるのかもしれません。それはもちろん、自己想起にもつながるわけですから、身体のコントロールの重要性を再確認させられるようです。 以下他人の観察です。 |



