2006/05/25 (Thu) さあ、心よ。別れを告げろ。快活に!
以前からこのブログを読んでいただいている方たちはご存知だと思いますが、僕はこのブログを書くのと同時にウスペンスキーの「奇跡を求めて」を毎週一章ずつ読んでいました。そしてそれらをワークの「オクターブ」と呼んで(参照)、複数のオクターブが絡み合うことによって、オクターブの偏向を「偶然」おさえられないだろうか?という狙いのもと、それぞれを続けていたのです。
そして今週がその「ウスペンスキー読み」の最終の週で。昨日、18章の「離脱」まで、すべて読み終えました。

そこで、これはこのブログの初期の頃から計画していたことだったのですが、この本の読み直しの終了をもって、このブログも一緒に終りにしようと思います。
本当は5月いっぱいまで続けるように計画していたのですが、ちょうど書きたかった「性センター」の話をとうとう書き終えたという区切りでもありますし、この週末からはまた仕事にでかけてしまうので、どちらにしろ5月いっぱいまで書ききれないという状況なので、これが一番いい区切りかなと思うにいたりました。このように、すばらしくいい区切りで終われるのも、オクターブの法則がうまく進行してくれたというこのなのでは・・、と嬉しく思っています。
これは自分自身のワークの進行具合からいっても、ほとんど完璧といえる区切りです。今回の「読み」+「研究」で僕自身が得た新しい「理解」はかなりの量だったと思っていますが、これらを自分のものにするには、これらの「理解」をかなり時間をかけて実践していくことしかなく、そのためにはこれ以上の研究は無意味といいますか、ここからしばらくは純粋な実践の時期としてやってくかなくては、結局それらの「理解」も理論の範囲を超えることができないと思われるからです。つまりはどう考えても研究の進み具合に対して自分の「存在」のレベルが低いと思われるので、「存在」が追いついてくれるまでこれらの実践を繰り替えしていくのが一番いいだろうということなのです。
これにはもちろん、このかなり大きかった「オクターブ」をすっきり、きっぱり終わらせることによって、新たなオクターブの「ド」音をドラマチックかつ強力に響かせていくという狙いも含んでいます。例の、ヘルマンヘッセの「さあ、心よ。別れを告げろ。快活に!」です(w)。(参照

いままでたびたびこのブログを訪れてくださった方々、いろいろな助言、質問などコメントを残してくださった方々に深く感謝しています。
いろいろ教えてくださったやわたうまさん。
控えめのコメントながら、いつも真剣に読んでいてくださり、真剣な質問をしてくださっていたchoroさん。
いつも優しい言葉をかけてくれていたLyricaさん、
たまにコメントをくださっていたバシールさん、
身体の力の常住不断さん、
エニアグラムのことで本を紹介してくださったAragonさん、
本当にどうもありがとうございました。

このブログは誰かの研究の役に立てばとの狙いからそのまま残しておこうと思います。
もう更新はしませんが、みなさんのサイトにはまた遊びにいかせていただきますので、よろしくお願いします。


はせいん



2006/05/24 (Wed) 性的快楽と人間の進化
前回書いたように、性のエネルギーは別のセンターに流用されて、熱狂的かつ、しばしば非常に危険で破壊的にすらなるいろいろな行動、心理的状態を人に作り出すのわけですが、逆に、他のセンターにエネルギーをうばわれてしまった「性センター」は他のセンターが使うべきエネルギーを盗むことになります。
以前にも書いたように、「性センター」は本来「物質12」で働くべきセンターですが、この場合にはそれよりもずっと粗雑な物質である「48」や「24」を使って作動することになってしまいます。そうすると「性センター」の活動によって受ける感覚、印象もずっと粗雑なものしか受け取れなくなってしまいます。これは結局、非常に気持ちいいはずの性的行為がまったく「チープ」な空しいものになるということなのだと思うのですが、まあ通常、性センターが「物質12」で働くことはほとんどないわけですから(以前の記事を参照してください)、われわれの知っている性的感覚はこのずっと粗悪である性的感覚である筈なんですよね。そして、その「物質12」を使った、最高な(w)性的快感を得るということは、これ、実に人間の進化にとってもものすごく重要なことなのです。それは、「物質12」で働いた性センターは他のセンターが受け取ることのできない非常に微細な印象という食物を受け取ることができるからなんです。微細な印象からなる食物は、より洗練された物質を作り出すために非常に有用です。そして、それが何を意味するのかといえば、もちろん、第2の体の形成を早め、それを可能にするということなのです。もうだいぶ長いことこのことの関して話していなかったので付け加えると、その第2の体を持つにいたることが、機械的である人間の生から離れ、偶然に縛られる奴隷状態から開放され、自らの意思で何かを為す力を持つことのできる唯一の道なのです。

(申し訳ないですが、ここではもう(参照)をつくってリンクをもうけたりしません。この辺の話はどうしても自己観察を伴った「システム」のある程度の理解を必要としますので、興味のある方は、ゆっくりと以前の記事を読んで、ゆっくりと理解するようにしてみてください。それができれば、このとっても重要である「性」の問題w。快感の重要性までちゃんと理解できる材料はそろっているはずです。)

さあ、このようにして性センターがしっかり「物質12」で作動するとすごいことが起こるのですが(w)、そえれでは、いかにして「性の誤用」を起こさないようにして、性センターを正常に働かせることができるのかということが問題になってきます。
それに対してグルジェフはこう答えています。

「これらの誤用を避けるために何をしたらいいのかということを言うのは不可能だ。正しいワークは恒久的な重心をつくりだすことから始まる。それが作り出されたとき、他のすべてはそれに従うように配置され、割り当てられる。だから問題はこうなる。つまり何から、またどのように恒久的重心を作り出すことができるのか?
これに対してはこう答えよう。その人のワークに対する態度、評価、そしてそれ以外のすべてのものの機械性と目的のなさの自覚だけが彼の内部に恒久的な重心を生み出すことができるのだ。」

そして恒久的な重心ができ、性センターが「物質12」を使って働けるなら、性センターは高次感情センターのレベル(つまりは第2の体「アストラル体」のレベル)に立つことになります。そして他の全センターはこれに従って、正しいエネルギーを使って正しく働くことができるようになるのです。
これが実現するだけでも存在のレベルはかなり高いことを示しているようです。(しかも、最高の性的快楽のおまけつきですからね。ホントすごいですw。)


非常に駆け足で、まだ必要な観察がしっかりできてない部分も残っていますが、これで、だいぶ長いこと書こうとして回り道をずっと続けていた「性センター」の研究を終わろうと思います。
2006/05/23 (Tue) 異常な熱狂性と無用性
昨日書いたことの続き、通常の人間のセンターの中で最も大きい「性センター」のエネルギーが、一生ほとんど使われずにいったいどこに行ってしまうのか、という話です(昨日の記事参照してくだい)。

きのうの説明であきらかなように(だといいのですが・・)、通常人間はまったく「性」を正しく機能させていることはありません。それをここでは「性の誤用」と呼んでいるのですが、それは主に性センターの使うべきかなり洗練されたエネルギー(物質12)が正常に使われることなく、別のセンターにその力が流入することを言っています。

それを見分ける大きな特徴はある「特殊な嗜好や情熱」と、それと結びついたその働きの「無用性」、あるいはある活動に対する、「過剰な熱狂性」だと言われています。
例えば、思考センターが性センターのエネルギーを使い出すと、哲学、科学、政治などの関わり(まあインテリといわれるようなもののこと全般を指すと思われます)で常に何かと戦い、言い争い、批判し、新しい主観的な理論を生み出す。僕の観察ではこの熱狂の特徴はそこにある種、猟奇的だといえそうな残酷かつ冷徹な喜びがいつも見え隠れしています(これは微妙な感覚なので、しっかり深く観察しようとしないとまったく観察できない特徴ですが、実はどこにでもありふれている状況でもあります)。
それが感情センターについては、キリスト教的罪の恐怖、禁欲主義、地獄、罪人の責苦、または、永遠の生を説く、といった例が挙げられていますが、これもすべて性センターのエネルギーを使って、あるものが異常に誇張されたことで起こることのようです。もう一度書きますが、このこともまったく他人事のようにとらえるのは大きな間違いだと思われます。この部分の観察は「心理的な観察」になりますが、罪の意識、道徳的な意味での悪徳への恐れ、そういったものが誇張され、そういった意識を他人にも強要するようなことは日本でかなり頻繁に、あまりに普通だから気づかないほどに起こっている現象です。そして同じように感情センターで使われる性センターのエネルギーは革命への情熱や、強盗、放火、殺人などを人にやらせたりするといいます。これはその熱狂的な特徴を考えれば、実に納得しやすいことかもしれませんね。
動作センターで使われる場合は、スポーツ、いろいろな記録の更新、レスリング、喧嘩などに関わっていると言われます。
先ほど挙げたようにこれの大きな特徴は、異常は熱狂性とその無用性なのですが、「思考」「感情」「動作」のどのセンターも「性センター」のエネルギーを使って有益なものを生み出すことはできないと言われます。
この「有益」ということも説明が必要ですが、つまり進化のためにまったく無用なことしかできない。という意味です。そしてそのように無駄なエネルギーを使うということは、考えなれないほど害であるということが、3層工場の概念と、変性、「アストラル体」と手に入れるということの意味を十分に理解していれば、しっかり納得できることだと思います。
これがまず「性の誤用」のひとつの例です。
もう一度強調しておきたいのは、これは何かの特殊な例ではまったくないということです。われわれのほとんどの行動、行為にこの「誤用」が含まれているといっても言い過ぎではないほど、普通のことであるし、エネルギーがある限りは必ず、それに伴ったプロセスが起こるという原理を思い出していただければ、性のエネルギーを一生の中でほとんど正常に使える機会がないという事実を確認しただけでも、大量なそのエネルギーがこういった誤用に常に使われているということを納得することができるでしょう。

次に「性の誤用」のまた別の例を挙げていきます。


追伸。うー時間ががかりますね・・。 がんばってやり抜きます。
2006/05/22 (Mon) 性センター
さあ、なんとかがんばって性センターのことを書いてしまおうと思います。

今までセンターのことに関してはばらばらに書いてきたのでちょっとわかりにくいかもしれません。
まず最初にしっかり理解しなくてはいけない枠組みとして、「思考センター」「感情センター」「動作センター」の3つのセンターがあります。これは「3層構造の工場」とも対応していますし、すべての自己観察はこの枠組みの中でされて始めて意味を持てるので、ここが一番大切なところになります。そこに「本能センター」と「性センター」が加わってくるのですが、これは「動作センター」と組になって、下部の「3の法則」の動力として働きます(ああ、そうか、3の法則についてはまだやっていませんでした・・)。これで5つのセンターがそろいました。
そこに以前に一度だけ話した、「高次感情センター」と「高次思考センター」があり、これはそれぞれ、第2の体、第3の体の機能とかかわっているセンター。つまりは宇宙的な法則のもとに働いている、非常に早い振動を持った、密度の薄いセンターです(振動と密度のこともやっていませんでしたね・・)
この7つのセンターがグルジェフが説明しているものとしては全てです。

このうち、「高次感情センター」と「高次思考センター」についてはわれわれには完全に関係なく、しかも変性が起こる、すなわち第2の体、第3の体をもつようになると、自然に、完全な形で作動するそうなので、特別に理解する必要もないセンターです。
そして「思考センター」と「感情センター」「動作センター」については十分に今までに語ってきたと思います。

そこで今回はどうしても「性センター」についてやっていこうというわけです。

さっき書いたように「動作センター」と「本能センター」「性センター」はこの3つが合わさってひとつの力として発現することができるセンターですが、これには少しだけ「3の法則」の説明が必要なんです。ですが、ここではとりあえず、この3つは何らかの力の発現に対して「肯定的」「否定的」「中和的」な立場をとることになり、それぞれはいつも入れ替わっているということだけを書いておきます。

そのように動作の発現、性の発現、本能的な発現にこれらのセンターが関わりあっているのですが、これも例の「感情センター」と同じように、本来起こるべき正しい、あり方で機能することはほとんどありません。

以前に書いたように、性センターは「物質12」で働くセンターで、通常のセンターの中で、考えられないほど制度の高い、スピードの速いセンターで、「思考センター」に比べて9億倍、通常の「感情センター」と「動作センター」「本能センター」にくらべて3万倍のスピードで働くすごい力を持ったセンターです。
「性センターの」正常な働きというのは2つあり、それ以外にはありません。それは以前にも説明しましたが、子供をつくることと、第二の体の形成、「アストラル体」を作ることです。それ以外のことに働くならば、それはいつでも非常に危険であるといいます。それはなぜなら、性センターそのものがほかに比べてものすごいエネルギーを持っているからです。
しかし考えみると、われわれが成人して、「性センター」がしっかり機能するようになったあと(男性なら20歳、女性なら16歳頃、つまり生理がちゃんとくるようになったときのことだと思います)、子供を作るためのセックスが一生のうちにどれだけあるでしょうか。そしてアストラル体を形成するための行為、「パートクドルク義務」(意図的に苦悩すること)をやっている人がいるとすれば、おそらく地球の総人口が60億として、そのうち多めに見積もって10000人がやってたとしても、それは0、000006パーセントとか(w)そんなことになっていまします。つまり通常は「性センター」が成人してから死ぬまでの間に正常に機能していることなんてほどんどない、ということになるわけです。
じゃあその通常の人間のセンターの中で最も大きいエネルギーは、一生ほとんど使われずにどこに行ってしまうのか、それを考えるところに「性の誤用」の研究が始まります。

ううう。時間がかかりますね。この先は次回にします。
2006/05/21 (Sun) 休日
今日は休日でゆったりしております。コンサートが一区切りついたときがたまたま日曜日だったりすると、ドイツの場合は日曜日はどこもかしこも閉まっていて、本当の休日(^^;)なので、なーんにもすることがないんですよね。なんだかんだとやることぐらいは探せば絶対にあるはずなんですけど、疲れているだけじゃなくて、達成感とかがあったりもしますし、なんとなくすぐに次のことに手を出せないんですよね。 
そんなときに自己観察をしてみると、そういう自分を責める気持ちと、前に進めないことの不安な気持ちと、なんとなく昨日の晩コンサートのあと無意味に遊びに過ぎてしまったことの後悔(年甲斐もなく4時まで遊んでいました・・、すいません。。)の念とかがあるんですよ。
いったい「思考センター」というのはどうしたら休んでくれるんですかねぇ。こんなときですら、無理やりにでも不安を作り出して、どうにかして人を落ち着かなくさせるんですよ。

しばらく思考センターの空想について気づいていたときがありました。実は思考センターというのは非常に単純な働き方しかしていなく、これは僕に限ってはほとんど「空想」しかしていないんですね。僕の場合はどう考えても主なところは、「本能センター」と「動作センター」にあって、思考センターの働きは異常なまでに弱い。 つまり生まれもって僕はまあイメージ的にもっとも原始的な人間第1番なんですね。まあそれはイメージに過ぎないんですけどね。人間1番、2番、3番は等しく機械的で、原始的なんですから。
で、思考センターはというと、僕の場合はちょっとした数の計算(これもえらく鈍く働きます^^)と記憶。それから本能センターが認識したことや、感情センターに起こったことの説明付けを適当にする。ということ意外はまったく役割をもっていないんですよ。そのほかは全部「空想」です。と言い切れるぐらい。でその思考センターはほとんど無用な動きばかりをしているのに、ひと時たりとも休まないんです。もう、すべての瞬間に空想をし続けています(寝ているときも夢を見続けています)。
ああ、つまりは自己想起をしているときだけが、そうではないときなんですよね。完全な観察側にまわっているというか、そういうときには僕の言っている意味での「空想」はしていないと思われます。
しかしそうしていられるのが、一日のうちにどれだけ短いか・・。
それはあまりにも短いために、何の役にも立たないぐらいです。

これは僕の勝手な考え方なのですが、自己想起をするにも本能センターが自己想起しているときと、動作センターが自己想起しているときと、思考センターが自己想起しているときと、それらが一緒に自己想起しているときとあると思うんですよ(僕の場合は感情センター、性センターが自己想起していると感じるときはありません)。おそらく完全な自己想起とは全部がいっしょに自己想起していることなのではないかと思うのですが、僕の場合やはり、何をやるにも本能センター、動作センターのほうが優秀に働くからなのか、自己想起に関しても、頭ではまったく空想に浸っているときにも、しっかりと体が何かを覚えているとき、本能がしっかり何かを感じ取って、それを覚えていたりする瞬間があるんですよね。それを思考センターは少し後になって気づくんです。

まあ、そんなわけで、今日はまったりした日曜日に、まったりとなんかを考えておりました。
2006/05/20 (Sat) 否定的感情の研究
否定的感情はまったくの無用の長物であるということを前回説明しました。まあこれは説明が不十分であるために、仮説程度でしかないし、この説明を論理的に十分にすることはなかなか困難であるのではないかと思っています。これは結局、自他の観察によってのみ意味が飲み込めるものだと思うので、ここではそれを助けるための材料を提供することぐらいしかできないのだと思っております。まあ、つまりはこの問題に関して、僕自身の、自他の観察がまだ十分ではないために、確信を持って何かを言っていくことが難しいんですね。

まず、否定的感情は小さな子供にはまだ目覚めていない。というのが一つのヒントになると思います。「??」と思う方もいらっしゃるでしょう。子育てなんかを経験されている方なら、赤ちゃんなんて泣いてばっかりで否定的感情だらけではないかと・・。だからこそなんです。この一見矛盾している事実をよく観察していくことでいったい何がここで言うところの、まったくの無用の長物である「否定的感情」であって、何が、人間の本来持っている進化にはかかすことができない「苦悩」なのかを「知る」ことができるのではないかということなんです。
そうなんです、問題なのは、我々の進化のためには「パートクドルク義務」(意図的苦悩)がもっとも大事な前提条件になるとされているのに、否定的感情というのはまったく無用の長物で、まずなんらかの進歩を望みたいなら一番最初に捨て去ってしまわなくてはならない。と言われているという矛盾なんです。
残念ながらこの矛盾を十分に説明しているところはどこにもありません(もしもあったら教えてください!!めちゃくちゃうれしいです!)。

さて、否定的感情をまだ持っていない小さな子供は、まず大人から否定的感情を、教育という形で教えられたり、見習ったりすることになります。つまり親の否定的感情の表現をみている子供が、「こういった状況ではこう反応すべきだ」といったふうに、親を見習うわけですよね。そして教育として子供になされるものの中にも、否定的感情を前提にして植えつけられる「常識」「道徳」がいろいろあるわけですね。そこで、親がもしもそういったことをまったく子供に教えないとすると、否定的感情は芽生えないのかというと、そんなに簡単ではない。それはテレビ、や映画、見たり聞いたりするものの情報からいくらでも否定的感情を学ぶ、見習うことが可能だからです。
おとなの場合は文学や、芸術によってこの否定的感情が美化され、正当化されているので、この観念を破ることがさらに非常に困難になっています。もしも否定的感情がないのだとすれば、演劇、ドラマ、小説の大部分はまったく違う意味をもってくることになるはずです。少なくともそれが「チープ」な部類のものであれば、そこに感情移入することは不可能になるのではないでしょうか。
そうであるがために、普通我々には「人間に可能な進化の心理学」に書かれているこのことを理解することが非常に困難なのだと思います。またそのまま引用します。
「機械的に生きているふつうの人間にとってもっとも理解しにくいことは、自分自身や他人に見られる否定的感情にはいかなる価値もなく、この感情のなかに高貴さ、美しさ、強さといったものが何一つ含まれていないということに気づくことである。現実に否定的感情には弱さ以外の何ものもなく、非常にしばしばヒステリーや狂気や犯罪の端緒が見出せる。」

そしてもう一つ、人には苦しみを手放せない理由があります。人から判断されることを恐れる「自分」には、自分自身の像というものがあるわけです。その像と人の判断がずれている場合にそのずれを恐れるわけですね。そのことによってあらゆる否定的感情、苦しみが生まれているように思われます。 つまりその像とは「自我」といわれるもの、外との世界との線をひくことによって自分をアイデンティファイすることですよね。そうであるから、苦しみ、否定的感情をを捨て去るということは、この自我、自分が持っている自分の像を壊してしまわなくてはいけなくなる。人間はこの自我を守るためならそれこそなんでもするんです。どんな手を使ってもそれを守りきろうとする。それが他人への攻撃、否定的感情の正当化、忘却など、こういったもののあらゆるコンビネーションを駆使して、これを守るわけですね。それがグルジェフのシステムでは「緩衝器」と言われているもので、この緩衝器で我々は自分の苦痛、否定的感情を必死に守っているわけです。


というわけで、ここまできてこれらのことは論理的に結論を導くことはできないということだけがわかった感じがしてきます・・。結局これは、自己同一化を避けること、不快の感情の表現をしないことに合わせて、自己観察、外の世界(他人を含んだ)の観察を徹底的に続けることでしか、「理解」に達することはできないのだと思われます。つまりは目覚めない限りはそれがわからない。と言ってしまっていいのかもしれません。

ここでひとまず感情センターの研究はくぎりにしたいと思います。
2006/05/19 (Fri) 感情センターの研究
今までに書いてきた、錬金術的なワークでの第2の意図的な付加的ショック(参照)のことにしても、こないだの感情センターと高次感情センターとの連結と、第2の体の形成(参照)にしても、ワークにとって感情センターへの働きかけがどれほど重要なのかということが見えてくると思います。
実は感情センターについてはずいぶん前に少しだけ書いたことがあったのですが(参照)、それが不十分だと思われるので、同じテーマでもう一度書いてみたいと思います。

主に重要だと思われるのは「否定的感情」の理解です。
センターは通常肯定(ポジティブ)、否定(ネガティブ)に分かれて機能するとみなされています。思考センターについてはもっともわかりやすく、常に、イエス、ノー、善と悪、というふうにものごとを判断しています。本能センターについては快と不快。自分にとって心地いいものとは、自分の生命に必要なもの。おいしいもの、必要な栄養。心地よい空間は、よい休息のためなどで、不快なものとは、自分の生命を危険にさらすもの、腐った食べ物のにおいだとか、極端に暑かったり寒かったりする状況などで、この機能は生命維持のためにどうしても必要な機能であるといえるでしょう。動作センターにも、あまり観察する必要はないとはいえ肯定と否定があります、それは動いているか、静止しているかというところです。

しかし感情センターには自然な意味での否定部分は存在しないのだというところが、理解すべき点です。

否定的感情はもともと本能的な自己保存と関連しているようで、それが、想像や自己同一化によって否定的感情に変化するというふうにウスペンスキーは説明しています。
例えば、喜悦、好感、愛情、自信などわれわれの知っている心地よい感情は、いつでも倦怠、焦燥、羨望、恐怖などに変わってしまう。この辺はウスペンスキーの「人間に可能な進化の心理学」に非常によく書かれているので、そのまま引用したいと思います。
「愛は、嫉妬、愛するものを失う恐怖、怒り、憎しみになり、希望が、幻想やありえないことへの期待となったりする。純粋に知的な感情(知識を求める心)や、美的感情(美や調和を感じる心)さえ、自己同一化と混じるとたちまちにして自尊心、虚栄、利己主義、うぬぼれといった否定的感情と結びつく。」

本来、真の肯定的な感情は否定的感情に変化することはありえないと、ここでウスペンスキーは言い切っています(なぜかはわかりません)。つまりわれわれは通常の状態で肯定的感情を少しも知らないと言ってもさしつかえない、とすら、ここでは言っています。おそらくここで言う意味での真の「肯定的感情」というのは例の(参照)「物質12」を使った活性された感情センターにだけもつことができる感情なのだといっているのではないでしょうか。

もう一つ興味深いのは想像および、自己同一化を伴わない否定的感情はまったく存在し得ないと言っているんです。

この否定的感情について、次回にみていこうと思います。
2006/05/18 (Thu) 殺戮の時代と知識の収集
世界はいよいよきな臭くなってきたんじゃないでしょうか。ロシアの動きはいかにも怪しいように思います。ロシアは歴史上ずっとそうであったように、北のはてから南の世界をじっと見ていて、都合のよさそうな方について利益を得ようとしているみたいです。ロシアの軍拡、中国との接近、中国のことは言うまでもなく、そしてイラン、アラブ世界・・。 どうでしょう。中国、ロシア、アラブ世界が同盟を結んで世界戦争を始めたら今のアメリカ、日本、ヨーロッパにそれを押さえられるでしょうか・・(僕は危ないと思う)。今の彼らには本当に戦争をするメリットが十分にありますからね・・。世界の力関係が崩れ始めているとき、新たな国際秩序をねらう人たちは戦争を起こすんです。それが今の彼らなのだということを、そして彼らがもし組めば勝算があるということを忘れてはいけないと思います。それに多くの人が気づいていることが戦争を食い止める唯一の方法なのじゃないかと思うからです。 なぜなら、結局、世論が狂っていなければ、政治は狂いようがないからです。

ウスペンスキーがグルジェフとワークを始めたのも、実はこういう真っ只中でした。彼らがいたのは、古いロシアが滅びようとするとき、ロシアが長い暗黒時代に(今でも続いている)ものすごい勢いで突入しようとしている最中の、モスクワ、ペテルスブルグだったのです。ロシア革命から、第一次大戦の時のことです。
そのときにグルジェフはある意味不可解な行動をとっています。これからボルシェビキの革命が始まりすべては混乱に陥るのが明らかだったときに、わざわざグループをロシアに留めておくようなことをするのです。彼は人生をかけて、未来の世に彼のシステムを引き継ぎえる小規模なグループを作ろうとしていたのですから、ウスペンスキーたちのグループをわざわざ危険なところにさらす必要は本当はなかったはずなんです。そしてその後も彼はこのグループを守りきるために考えられないような努力をします(その混乱の中で、彼自身だけの商才と努力で全員のメンバーを養い、危険から守るようなことをするのです)。そんなことをしてまで、グルジェフは(むしろ、わざわざ)グループをこの混乱の中に留めておいたのでした。なぜ僕がそんな言い方、そんな解釈をするのかというと、グルジェフのような人が、当時の情勢の先行きに気づいていなかったわけがないと思うからです。

「奇跡を求めて」の16章に、ウスペンスキーがその革命の大混乱の中でグルジェフに質問をするところがでてきます。「状況はわれわれには不利です。こんな集団狂気の真っ只中で何かをやるのが不可能なことはもはやはっきりしています」 
これにグルジェフは答えて言います。
「ところが、それが可能なのは今だけなんだよ。しかも事態は我々には完全に不利なわけではない。5年待ってみなさい。そうすれば今妨げになっているものがいかに我々に有益であったかがおのずとわかるだろう。」
これについてウスペンスキーは5年、15年たった後もいったいその状態の何が有益であったのかわからなかったと告白していますが、秘境的な観点から見てみると、ほんの少しだけグルジェフの言っている意味がわかるような気がしたといっています。

このことを説明するためにいきなり「奇跡を求めて」2章に飛んでみます。 グルジェフのシステムのなかでは地味でありながら、これまた重要なアイディアに「物質性」というものがあります。宇宙のあらゆる現象は物質である。というんですね。例えば「錬金術的な」話でさんざん使ってきた物質の番号で言えば、我々の食物になるようなものは「768」という物質(図参照)水は「384」という物質。空気は「192」という物質。「96」は火のような呼吸することのできない気体。そして「48」は印象という物質なんです。さらに「24」も「12」も「6」も科学では定義することができない物質です。そしてこれらが物質であるということは物質性のあらゆる特性を持っているということなんです。
というわけで、われわれの知識も物質なのだというところから話が始まります。知識も物質であるということは物質性の特性のひとつである、「固体には限りがある」という特性も適応されます。知識に限りがあるということが理由で、「秘境的な」本当の知識というのは、本来的に分配することが不可能なのだという考えがあるんですね。誰も秘密にしているわけではなく、単に普通の状態ではこの種の「本当の」知識は受け取ることができない。それは数に限りがあるからだというんです。
さて、この物質性を信じるかどうかというのは、自己観察による理解を繰り返してくしかないと思うのですが、まあこれを信じたとすると、ここに「大混乱」、「殺戮」と「知識の収集」の関係が見えてきます。グルジェフが言うには、人類始まって以来(ここには有史以前の時代も含まれていますw)大きな殺戮や、文明の崩壊が起こるたびに、秘教的な少人数のグループが起こり、そこに放出された大量の知識を集め、それをどこかに保存し伝える役目を担ってきたというのです。
ロマノフ王朝や貴族たちの持っていた文化の世界が完全に滅びてしまうときのロシアにグルジェフたちがいて、強大な知識の体系をヨーロッパに持ってきたという事実もそこに符合するような気がします。もしかしたら、グルジェフ自信が若いころに中央アジアを旅して集めてきた知識自体も、もうそれらの体系が滅びようとするところだからこそ集めてこれたのかもしれません。中国の持っていた膨大な知識を共産党の時代、文化革命のときにいったい誰が集めてどこに持っていったのかは気になるところですが、ある意味でその時代に日本の歴史的にも例がないほどの奇跡的な「高度経済成長」が起こったのは偶然ではないのかもしれません。

グルジェフがわざわざグループをロシアに留めておいたのは、そういった状況下だったのです。そして何よりもこれはグルジェフが自らに課した、そして弟子たちに与えた「意図的苦悩」「パートクドルク義務」だったのだと思います。こういった命をとした「パートクドルク義務」がどうしても必要だったということなのでしょう。
もう一度「16章」に戻るとウスペンスキーはこういうふうに言っています。
「なぜ以前にはその状況が有益であったと考えられなかったのだろう。おそらくこういった秘教的な考えは、衆目の注意が何か別の方向に向かっていて、そういった考えを捜し求めている人々にのみ達することができるときにだけ現れるからであろう。「事件」(革命と大戦のこと)以上に我々を妨げるものはなかった。それと同時に、まさにその「事件」こそが我々が得たものを受けとめることを可能にしたのだということも十分考えられることである。」
ちょっとこの辺は日本語訳が変なのですが^^;、まあ意味は何とか通じると思います。僕が大事だと思うのは「その事件こそが我々が得たものを受けとめることを可能にした」という部分なんです。それが「知識という物質」が大量に放出するときで、そしてその状況の困難が必然的に「パートクドルク義務」を生むときでなかったらそれは「可能」じゃなかったのかもしれません。


われわれはまさにもう一度こういう時代にいるのではないでしょうか。すべての文化が衰退しようとしています。特にヨーロッパを見れば芸術、哲学、思想すべての文化が行き詰っていて、もう先には進めない状態。よきものはすべて過去に求める以外にない状態。政治的に最強であったアメリカのいわゆる「パワー」の衰退。40年代から80年代の世界をリードしてきた、ジャズ、エンターテイメントの世界ももうまったく当時のエネルギーを持っていません。そして文化がすでに崩壊している世界の野蛮な、ネガティブな攻勢。
この状況で僕ができることはなんなのか、我々のできることはなんなのかと、真剣に考えざるを得ないと思えてくるんです。
2006/05/17 (Wed) 宇宙的時間感覚
さて、それでは時間の世界に入り込んでみましょう。
いままで書いてきたように、人間の持つ通常の5つのセンターの中でもっとも遅く働くのが「思考センター」です。そしてわれわれの時間の感覚はこの「思考センター」で計っていますので、このスピードが通常われわれが持っている時間の感覚そのものです。

さて、「物質48」というセンターの中ではもっとも洗練されていない物質で作動する「思考センター」の1秒の間に、「物質24」で作動する「本能センター」と「動作センター」は3万倍の活動ができる。別の言い方をすれば、3万倍のスピードで働くことができるわけです。
これも以前に書いたことですが、3万倍の時間を一秒の間に体験するということは、われわれの感覚の1秒を、これらのセンターは3万秒の長さに感じているわけで、それは計算すると、ちょうど8時間20分になります。
一秒の間に8時間20分ぶんもの仕事ができるというのですから、これはかなりの違いがありますよね。(これらの仕事量の違いの例は
この記事で挙げました)

実は、通常の人間の機能はほとんどすべてが、この範囲内にあります。これも以前に書いたように、通常「感情センター」は「物質24」を使ってしか作動できなく、「本能センター」、「動作センター」と同じスピードで作動しているからです。

通常の人間のセンターの速さはこういうことになることになります。



思考センター
エネルギーにしている物質「48」    
感じている時間 「通常のわれわれの時間の感覚」


本能センター、動作センター、感情センター 
エネルギーにしている物質「24」   
われわれの1秒の間に感じている時間 「8時間20分」


(ここではちょっと性センターを除外します。これにはまた別の説明が必要なんです)



さて、そこで自己想起を繰り返して、「物質12」を十分に体内にためこんで、感情センターを活性化させると、感情センターはそのさらに3万倍のスピードで活動し始めるのですが、これがすごいんです!!
そのさらに3万倍ということは、われわれの1秒を9億秒に感じるという意味で、

それは一秒の間に28年196日と16時間分の仕事ができてしまうことになるんです!!

ということは、このレベルで感情センターが働くならたったの3秒で約一生分の時間を経験してしまうということで、この激しさはどんなものだろうと思うとものすごいことですよね!
「人間は真理のほんのかけらを体験するだけで、そのショックによって死んでしまう」ということの意味もこのことを考えるとわかるような気がしてきます。もし死ななくても準備ができていない場合は確実に気が狂ってしまうそうですよね。(個人的に僕の大好きなニーチェが狂ったのはこのせいだと思ってるんです)


そこでもう一つ別の概念と重ね合わせて考えて見ます(もう恐ろしくややこしくなってきてしまいますが・・)。
実はこの感情センターが「物質12」で働き出して、こういうスピードで活動を始めると、「高次感情センター」と呼ばれるものとのリンクをつくり始めるそうなのです、実はこのプロセスが「第2の体」の形成、「アストラルボディ」の機能なのです。
「アストラルボディ」はわれわれの体の中に形成されていくわけですが、これは惑星会と同じ物質によって作られていて、惑星界と同じ法則によって縛られている体なんですね。そしてこれは、活性化された感情センターと同じ「物質12」で作動していて、同じ時間感覚の中に生きています。
つまりです。おどろくことに!第二の体を得るということは、惑星界の感じている時間の世界に生きるということで、そのスピードの世界ではわれわれの通常の1秒の間に28年196日と16時間分の活動ができる世界なわけです。

ついでです。第三の体、「メンタル体」までいってしまいますと、これは例の図で示した(参照)自己想起をしたときには生産が可能な「物質6」で活動する「高次思考センター」の活性化のことをさしていて、これは「活性化された感情センター」と「高次感情センター」のさらに3万倍のスピードで活動している、つまり、われわれの通常の一秒の間に27兆秒のことができる。
それはなんと!!

一秒の間に85万6164年と140日分のことを体験しているということになるわけです!

ああ、まさに超人。
もう「第3の体」の意識の中では何が起こっているかなんて普通の人間にはまったく想像することなんてできませんよね。
この数字をみると、仏教の中に出てくる何万劫年とかわけのわからない数字の意味合いがなんとなく見えてくるような気がします。だって一秒で85万年分の仕事をできる人なら、何年かしたら何万劫年分の仕事もできるじゃないですか。そういう意識の中にいるから仏陀ってそんなわけのわからない数字を持ち出したりするんですよ、きっと。

あ、そうだ。この第三の体「メンタル体」は太陽の世界に属している物質でできています。そして太陽の世界と同じ法則に縛られている。っていうことは、太陽も同じようにわれわれの1秒の間に85万年分ものことを体験するような意識を持っているということなんですね。

恐ろしいのは、完全に完成された人間は第4の体までもっているわけなのですが(ああ、まだ先があるのか・・)、第4の体については、この原理のまま説明はできないようです(ふう、よかった・・)。第4の体に対応したセンターは人間の中にはなく、これはまた別の発展の仕方をして、第4の体となるみたいです。

壮大な世界です。仏陀偉大だ!w


2006/05/16 (Tue) 感情センターを活性化する方法
この間は、「感情センター」の速度から、「性センター」がエネルギーに使う物質、そして「性センター」の2通りのオクターブを越える可能性としての子供を作ることと、第二の体に変性させていくことまで一気に書きました(参照)。これらのことはまだまだ研究の必要があるというか、このままだといろいろと他の疑問がでてきてしまいますよね。しばらくはこの記事(工場との関連、センターの強度、スピード)を中心にして、それぞれの問題を片付けていこうと思います。

まず最初に問題にしたいのは、感情センターは異なる精度のエネルギー(物質)を使って、異なるスピードと強度で作動することができるということを書いたわけですが、それならいかにして、より洗練された物質をエネルギーにして感情センターを最大限に働かせることができるのかという疑問です。
それの答えとして「奇跡を求めて」9章の最後にこういうのがあります。

「すべての心理的プロセスは物質的である。そのプロセスに相応した何らかの物質を消費しないプロセスは一つとしてない。もしこの物質があればそのプロセスは進行する。そして物質が使いつくされたとき、それは停止するのだ。」


感情センターはわれわれの通常の状態では「本能センター」、「動作センター」と同じ、「24」という物質で働き、本来働ける速度の3万分の1のスピードでしか働いていないわけですが、つまりは「感情センター」を最大限に働かすためのエネルギーになる物質「12」を体内に十分に作り出すことができれば、それが、本来使える最大の力をもって「感情センター」を働かせることにつながるということになるわけです。

もう一度例の図を見てますと、
oct.jpg



そこに新しい図をたします。
suiso.jpg



前の図がわれわれが通常の状態で物質を作り出しているプロセス、
そしてこの新しい図が、それに第1の意図的付加的ショックである「自己想起」をプラスした場合の物質生産のプロセスです(このプロセスの説明はこちら)。

これを見るとわかるように、通常の状態では物質「12」は食物によるオクターブから得られる「シ12」、つまり「精子・卵」を象徴する性センターに使われるべき物質のみですが、自己想起をした場合、食物、空気、印象(これら3つの食物についてはこちらを参照)のすべてのオクターブから得ることができ、そのことで3倍の量の物質「12」を作り出すことができるわけです。
ただ問題はどれだけ長いこと自己想起していられるかということです。もちろん一日中自己想起していられるなら、いきなり通常の3倍もの物質「12」を生産できるわけですが、そんなことはわれわれには不可能なので、ほんの一瞬ずつの自己想起を繰り返して少しでも多くの「物質12」をためられるように努力してみるわけです。
そして十分に「物質12」をためることに成功すると、感情センターが通常では考えられないような状態で作動するというプロセスが始まるはずなのですが、これは本当に想像を絶する状態をもたらすようです。それは通常の3万倍のスピードで動き出すというのですから、それを考えるだけで、尋常ではないことが起こるということはなんとなく想像できそうな感じがします。

次の機会には、この3万倍がどれほどの意味をもつのか、そしてより高度な存在を得るためにもっとも鍛えあげなくてはならないセンター、感情センターの研究、という2つの点から、感情センターの活性化のプロセスが実現したときの「尋常でなさ」(w)というのを想像しやすいようにしていこうと思います(って例のごとく、予定は実現するかどうかはわからないのですが・・w)。
2006/05/15 (Mon) ブログについて
きのう記事を書いた後、いろいろとリンクをたどってブログを見て回っていて、ブログって面白いなぁってあらためて思っていました。 
なんというか、ブログは履歴だとかいろんなシステムのおかげで、ホームページに比べて非常にコミュニカティブじゃないですか。それぞれがリンクをとおして、また履歴をとおして読みあっているおかげで、記事のテーマの設定とか、考えていることが少しずつ似てくるというか、シンクロしあっているんですよね。
どこかで読んだ記事で頭に残っていることがあって、それがきっかけで日常のことと合わせて何かを考えたりして、3日後ぐらいにその人なりにでた結論とか気づいたことを元にして、また別のテーマからそのことについて書いたりとか、そういうことがいろいろと起こっていると思うんですよ。もちろん意識的にも人のレスや記事から刺激を受けて何かを書くこともあるのですが、むしろそういったことが無意識の範囲でたくさん起こっているように感じるんです(そして無意識的だからこそ、興味深いつながり方があるように思います)。
それがリンクや読者関係でつながっているブログ同士を大きな固まりとしてつないでいるというか。そういった関わり合いが非常に面白いなぁと思ったんです。

そしてブログでは公開している自分のある部分があって、それぞれにまた公開することのない生活があるわけですよね。その2つ、思考としてのブログの世界と、経験としての日常生活が無意識を通してつながりあっていて、実はブログで書いていることも、公開していない経験としての日常生活と深く関わっているというか、なんというか・・w

いやいや、ホント不思議な空間ですよね。これって・・。
2006/05/14 (Sun) 工場との関連、センターの強度、スピード
きのうの記事で(参照)「本能センター・動作センター」の速度は「思考センター」の3万倍と単純に書きましたが、もう一度ウスペンスキーの「人間に可能な進化の心理学」をしっかり読んでみたら、3万倍の時間ということは、思考センターの1秒(つまりわれわれの通常感じている一秒)は本能センター、動作センターには8時間という時間になるのだ、と書いてありました。そう考えれば昨日書いた例の、ブランデーを口に入れて一秒もしない間に、本能センターがあらゆる複雑な過程をとおしてそれを「気分の変化」というところまでもっていけるのが非常によく納得できました。だって、その一秒もない時間というのは、本能センターにとって8時間ほどの時間があるということなのですから、それだけあればゆっくり作業しても十分にいろいろな仕事ができますもんね。



さて、それでは昨日途中になってしまった、感情センターと、性センターのことですね。
このことを話す前に、ここでまた「3層の工場」の概念(参照)を導入して考察に入りたいと思います。
思考センターはもっとも遅いセンターであることを説明しましたが、これは「3層の工場」で作られる物質で言えば、「48」という物質を使って作動します。「上質の物質を生産する」で書いた図(参照)を見ていただければわかると思いますが、それぞれ「48」という物質は工場の上層階である「頭」に位置しています。
それに対して「動作センター、本能センター」は「24」という、より洗練された物質で作動しています。
そのように、ここに「3層の工場」の概念を投入して考えると、センターはより洗練された物質で作動するほど、速いスピードで作動することができるわけです。
そして、問題の感情センターなのですが、これは「12」という物質で働くことができます。
「できる」と書いたのは、つまり本来は物質「12」をエネルギーにして作動して、「本能センター・動作センター」のさらに3万倍のスピードで作動できるのですが、通常は物質「24」を使って「本能センター・動作センター」と同じスピードでしか作動していないのです。
それはまた例の図(参照)を見ていただければわかるのですが、われわれの人間工場が生産する物質「12」は非常に少ない。普通の状態、つまり自己想起によって工場の生産性をあげていない状態では非常に洗練された物質である「12」は感情センターがそれを使って作動するほどの量は生産されていないのです。


さーて、とうとうここで「性センター」が出てきます(やっとだ!この話をしようと思ってから一ヶ月たってやっと始めることができました)。
例の図(参照)を見てみてください。これは人間の通常の状態(自己想起をまだ始めていない状態)の工場の物質生産過程なのですが、この状態での最も洗練された物質「12」は第一存在食物(通常の食物)から生じたオクターブで最終的に得られた物質です。
実はこれは性センターが働くための物質で、通常のわれわれの言葉では「精子・卵」と呼ばれているものを表しています。
ここから先がすばらしいんです。これは詩的にも、論理的にも、科学的にもすばらしい!!この物質「12」はオクターブの「シ」ですから、次のインターヴァルを越えると新たな始まりである「ド」になるわけです。そうです。それが新しい生命の誕生。精子と卵が重なること、つまりセックスという付加的ショックを通して生まれる、新たな有機体であるわれわれ自身の子供なんです!

(ここまで一気にいきましたが、この辺はグルジェフに始めて触れる方には少し難しいと思います、もし根気が続けばいろいろと参照を繰り返してゆっくり読んでみてください。インターヴァルということについてはここを参照できます。)

そう、そのように、性センターは通常のわれわれの生の中で、もっとも洗練された物質「12」で働くセンターで、それはつまり「本能センター・動作センター」に比べてさらに3万倍のスピードで作動するセンターなのです。だからこそ、このセンターの働きは人間の他のどんなことよりも強く、これがコントロールできないと、他のすべてのものを凌駕し、めちゃくちゃにしてしまうんですね。

そしてもう一つこの性センターが重要な理由があります、それが最後のインターヴァルを越えて次の「ド」に移行する方法はセックスを通しての自分の体外に作る新たな生命(つまり赤ちゃん)だけではないく、2つ目の可能性があるからです。つまり性センターの使う「シ12」は別の方法で新たな生命を自分の体内に作ることができる。それが第二の意図的な付加的ショック(参照)を通して結晶化する、第2の体、「アストラル体」と言われるもので、それを通して初めてわれわれは複数の私を統一して自らの意思で生きる「意図的な生命体」になれるわけですから。「性」はわれわれ普通の人間がある高い存在を得ていくためのもっとも重要な機能であるとすら言えてしまうのです。


注)
2006/05/13 (Sat) 思考センターのスピード
われわれが通常何かを知ったり、認識したり、語ったり、計測したりしているのは思考センターの働きなわけですが、グルジェフのシステムから言えば、これは人間が通常持っている5つのセンターのうちの一つでしかありません。5つのセンターとはすなわち思考、感情、動作、本能、性の5つで、これらは独立して働いています。
以前「思考できることの限界」(参照)という記事を書きました。そのときにはある明らかな認識(それを元に明らかな判断や、行動の選択ができるほどの)があるにもかかわらず、それを言葉にするのが不可能だというような認識がありえる、ということを書きました。それはニーチェの「ツァラトゥストラ」や、なんらかの神がかりな認識、もしくは過去の偉大な音楽家が表現した世界など、まったく言葉にすると論理がなりたたないにもかかわらず、非常に明晰な認識というのがどこかにあるのだ、という話です。

そういうことがどうして起こるのかということを、センターを使って論理的に(w)説明することができます。

われわれは通常、思考センターを使って「時」を感じています。つまりわれわれの時間の経過を見る尺度、時間の感覚というのは、思考センターの時間の尺度であるということです。その思考センターはあらゆるセンターの中でもっとも遅いセンターで、実はこれは他のセンターの働きに比べて極端に遅くしか作動しないのです。
日常での例を挙げてみます。
車の運転では、ハンドル、アクセル、ブレーキ、クラッチ、ギアを使って、あらゆる状況にあわせて走行するわけですが、これらの制御を思考を使って一つ一つ観察しようとすると、それが不可能であることに気づきます。もしもこれをすべて観察しようとしたら、それぞれの作業を極端に遅くするか、もしくはすべては観察できないかのどちらかです。車を運転ができる人間の運転は動作センターが制御しているのですが、それを思考センターは追うことができません。運転の初心者、教習所での練習はこの逆の例になります。まずはそれらの操作を思考センターを使って学習し始めるので、まったく運転には不適当なスピードでしか始められないわけです。ただ本来はこの観察だけでは不十分です。なぜなら動作センターは、それぞれの機能を適切なタイミングで操作しながら、座席に座っている姿勢を保ち、クラッチの場合はひざからまげて一気に踏み込み、離すときは適切な速度を調節しながらはなし、アクセルの場合は足首を使ってなどなど、それそれの加減を取りながら、常に腰骨でバランスを保っているわけで、これらすべての過程、筋肉の動きなどはその動作中には絶対に思考センターで追うことはできないわけです。

動作センターと、本能センターは同じスピードで動くセンターなのですが、本能センターの働きをみるともっと驚くべきことがわかります。
例えば、ブランデーやウィスキーなどを口に入れます。するとほんの一瞬で体があたたまるのを感じ、気分が高揚し、リラックスするのを感じます。このスピードというのが本能センターのスピードです。これは生理学から見れば複雑な過程があるらしいのです。まずは口から体内に入るすべての物質は分析され種々の方法で試された後、初めて摂取されるか拒絶されるかする。そしてそれが摂取されて、頭の先から指の先までの細胞にアルコールを感じ、幸福感を感じるというところまでの過程が、口に入れてから一瞬にして起こってしまうわけです。この行程を思考センターつまり、通常の時間の感覚から追うことは確実に不可能であると言えるはずです。

思考センターの次に早いセンターがこの動作センターと本能センターなのですが、この2つの例でこの2つのスピードに驚くべき差があることが想像つくと思います(もし想像つかないようでしたら言ってください、後でこのほかにも例を挙げますw)。ウスペンスキー著の「人間に可能な進化の心理学」に書かれているところによると、「思考センター」と「動作センター、本能センター」のスピードの差は正確に計算することができ、それは3万倍だというのです(!)w。このことは錬金術的なことなので僕には正確にはわかりませんが、このスピードの差はどうもそれぞれの宇宙でのスピードの差と対応しているようです。つまり人間界の感じている「時間」に対して地球自信が感じている「時間」が3万倍のスピード(つまりは3万倍早く意識が働いているということなので、時間は三万倍の長さに感じられるみたいです)、惑星界で感じられている「時間」がさらにその3万倍・・。というわけです。これはつまりアストラル界の時間の感覚のことなので、それが理由で、「霊界」と言われているところでは、時間が非常にゆっくりと進んでいて、人間界の一瞬の間に、何年分のことができるとかそういったことが起こるのだと思われます。

つまり、通常われわれは思考センターを使ってものを考え、時を感じているわけなのですが、自己観察や瞑想などによって、ほかのセンターの感じていることを自分の意識の中に持ってくることができる。しかしそれを成功させたときには、それは思考センターで追いきれるような情報量ではないために、それを通常の言語に翻訳することはまったく不可能ということが起こるというわけなんです。(これは僕の解釈です)
この考え方を使えば、霊の世界とか、アストラルボディーだとかそういったことが論理的に言えてしまうところが面白いですよね。


ほかに残っているのは感情センターと、性センターです。これは実は異なったスピードで働き得るセンターで、少し説明が必要なのでまた次回にしたいと思います。もちろん異なったスピードで働き得るわけですから、ここがワークのポイントになるわけですw。つまり一次元早い速度で働かせることができれば、それが人間の進化をあらわすわけですからね。
2006/05/12 (Fri) 恐怖と嘘
久しぶりに戻ってまいりました。
以前にも書いた、というかいつもそればかり言っていますが、久しぶりに帰ってくるといったい何を書いたらいいものかすっかりわからないですよね。

最近考えていたのは、他人にどう思われるのかということを問題に思う自分のことでした。人が何か他人を説得したいと思う場合、また他人の反応に嫌な思いがして、それをどうしても訂正してやりたい、そしてもしそれがかなわない場合、ものすごくつらい思いをするようなこと。これら普通に起こる人間関係の問題というのは、他人が自分をどう判断するかということを問題にするから起こるのだ・・。
なんてことを考えていたんですね。

これは自己同一化の一形態です。逆に言うと、他人が自分をどういうふうに見るか、どういう評価を与えるかをまったく意に介さないでいるということは、自己同一化の一部分をまったく起こさずにすむということになるわけです。

自己同一化は自己想起の一番の障害です。逆に言えば(逆に言ってばかりですがw)人間はあらゆる物事、事象、行為や他人に常に自己同一化し続けているがために、自己想起することができないわけです。

「自己同一化を避ける」、という試みが非常にとらえがたく、難しいことに対して、「人の評価を意に介さないでいる」ということは、非常にわかりやすく、そのことが起こっていることをすぐに気づけるために、これは非常に便利な行法(w)だと思うんですよね。
ただし、これ自体それほど簡単ではありません。なぜなら、一般の欲求のかなりの多くのものが、他人に尊重されたい、よりよき評価をされたいというところに深く関わっているからです。
例えば社会においてよりよい立場に立ちたい、という意思も多くはここに依っているはずですし、ああ、なんと、こうやってブログを書いているという行為そのものが、自分をよく見せたいと思う気持ちとどれだけへだたりがあるでしょうか・・。
お金を稼ぎたいとか、いい男、いい女が欲しいという欲求にも(これも僕自信のことですが)必ず人の評価を得ることで得る安心感を求めている気持ちがついていますし、それだけじゃなく、若い人なら多くの友達を持ちたいという気持ちそのものも、ここと関わっているはずです。

つまり簡単には言うものの、この事もこれ一つ変えてしまうだけで、人生のあり方そのものが変化せざるを得ないほどの大きなことでもあるわけですよね。そして初めて、自己同一化のほんの一部から自由になることができるだけなのですから、自己想起への道がどれだけ先にあるのかということを考えさせられます。


そして他人の評価をまったく意に介さないでいることができると、他人を観察することがよくできるようになると思います。
普通は人間は他人の評価を気にするがための自己防衛のバリアを通して他人を見ているので、自分の都合や利害関係によって相手が違うように見えてくるのだと思うのです。
それが他人の評価の外にいることによっていつも持っているバリアを通してでなく、直接に他人を見ることができるのだと思います(ほんの少しだけだし、ほんの少しだけの間だけですが)。
これを少しの間感じていて、正直驚いているところがあります。
今まで見えていなかった他人の部分を見ること、また本人が見えていない部分がしっかりと見えてしまうことはある意味怖いところがあるのです。だって、人が明らかに真剣な顔をしてウソをついていて、本人はそれがウソであるということにまったく気づかず、真剣に真実を言っていると思っている場合、これは実に困ってしまいます。人は眠っていて、数分前の自分自身のことすら覚えていず、まったく自分自身に気づいていないがためにこういうことが起こってしまうんですよね。しかもこれは気違いの話をしているのではなくて、ごく普通のきちんとした社会生活をしている人間の話なのですから。

グルジェフは現代の一般的な人間の生は「恐怖と嘘でできている」と言っていますがその一端を見たような気がしました。
(僕のこの場合、恐怖とは他人の評価を恐れるが故の恐怖、ウソはもちろん眠りによるウソのことです)
2006/05/01 (Mon) また中途半端ですが・・
結局「思考センター」のスピードの話を書かないまま、あしたからまたフランスにでかけてしまって一週間更新ができないです・・。せっかく話の流れをつかんだと思っていたのに、関係ない話で終わってしまいました。残念です。

今度戻ってきたらしばらくはドイツから動かないので、何かまとまった研究ができたらいいなと思っております。

なによりもパートクドルク義務。意図的に苦悩しつつ帰ってきますww

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Author:はせいん
このブログはある程度グルジェフを知っている方を対象に書かれています。解りづらいことがある場合は、このプログの初期の記事を読むか、ウスペンキーの「奇跡を求めて」など、一般的なグルジェフの入門書から読まれることをお勧めします。

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