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前回に引き続きちょっと空想的なことを書こうと思います。
というのも、最近の研究で新しく認識できたことは結構大きかったために文層にすることにてまどっているんです。それを難しくしているのは、いままで僕が持っていたグルジェフのシステムの認識をある部分は覆すようなことも含んでいるからなんです。これを文章化するにはもう少しいろいろな自己観察やその他の観察を含めてある程度の確信まで持っていかなくてはどうしようもないように思っています。 てなわけで、今回も思いつきで、宇宙に存在するすべてのものが常に放射しているという「振動」について書きます。 宇宙に存在するものすべて、というとなんとなくピンとこないかもしれないのですが、それはもちろん宇宙全部を意味しているので、地球に存在するもの、そして我々人間も含めてすべてがある種の固有の放射物を放っているということなんですね。 まずこういう突拍子もないことをいきなりなんの脈絡もなく信じてしまう人と、はじめからまったく受け入れるつもりもない人とがいると思うんですよ。普通はそのどちらかなんではないでしょうか。 僕の考えではこういうことを問題にする場合は、そのどちらの態度も決してよい結果は導けないと思うんです。 グルジェフのシステムに関してはほとんどすべてがそうですが、現在の常識的な世界の認識方法からは完全に馬鹿げた冗談のように見えることなのですが、これらがいったいどういう意味を本来持っているのかということを知るためには、ある方法があると思うんです。 僕のとる方法はこうです。 まずそこでいわれていることを受け入れてみる。というのもカッコつきで受け入れてみるんですね。まあ、例えばこの放射物のことだったら「オーケー、とりあえずすべての物は放射物を放っているんだなぁ」と言ってみる訳です。ただそれは完全に信じたということではなく、「そういわれているらしい」「そうなんだって」というふうに結論は保留しつつ受け入れるわけです。 そして、その理論なりセオリーを通してあらゆる自分の身近に起こること、そして自分の内部に起こっていること(つまり自己観察ですね)、または社会全体に起こっていることを徹底的に観察してみるんです。 その観察を深くすることができると、ある種の洞察力のようなものが備わってくると思うのですが、観察による多くのデータと、その洞察をつかえばある部分では、確信といえるようなものがちょこちょことでてくるように思うんですよね。そうして知ったことを初めて信じる、というかそうして知ったことは信じる必要もなく、ある事実として見えてくることもちょくちょく起こってくる訳です。 まあ、こういった突拍子もないことを研究する場合はそのプロセスが絶対に不可欠だと僕は考えているんです。そうして確実な現実として認識してきたことが少しずつたまっていくと、はじめてそれが自分の「存在」を少しずつかえていくことにつながっていくのではないかと思います。 ついでに変なことを書き始めてしまいましたが、それでは「振動」です。 僕にもやはり振動、または放射物があるということを非常によく感じるんです。それはまるで自分の内なる世界が自分のまわりに起こるあらゆることを決定していると思われてくるほど、自分の内的状態と外に起こるできごとは驚くほど密接につながっているように思うんですね。 それは、決して表面的な気分や、感情のことをを言っているのではありません。大きいスパンで観察していくと、自分の幼児期から刻まれてきた深層心理に関わるようなことが、身の回りに起こるほとんどのことを決定しているのではないかと思われてくるし、ある種のな強烈な内的摩擦を通してそういうものが変化してくると(そのような深層心理に関わるようなことは非常に強い内的摩擦を通してしか決して変化することはないと思われます)(それがパートクドルク義務ですが)、自分の周りに起こることの傾向ががらっと変わってしまうということも起こると思うんですね。 これは他人を観察していてもわかることがあると思います。苦しみとは常に個人的なものですが、ある人がその人にとって考えられないような苦しい時期、苦しい事件を体験した後で、その人の人生ががらっと変わってしまうということはかなりあると思うのです、そういうことも、この内的摩擦(パートクドルク義務)、自らが放つ放射物という視点から観察してくと非常によく理解できることも多くあります。 例えば、自分の例をあげますと、僕は恋愛をするような年齢になってから常に、誰か一人の人と恋愛を始めると、もう一人の女性、それも相手の友人がほぼ同時期に僕のことを好きになってしまって、非常に面倒くさいことになってしまうということが起こっていました。それは驚くことに考えて見ると一つの例外もなくそうだったんですね。今ぱっと考えただけでも7回あった訳ですが、そんなことが偶然で7回も連続で起こることでしょうか?(一応言っておきますけどそれは14歳から7年間ぐらいの間に起こったことです。つまりプレイボーイとかではありませんw)その後、一時期こういった秘教とか芸術に心酔するようになって恋愛関係をまったく持たない時期があったのですが、それから後、すこしずつ変化を初めて、今となってはそういったことはまったく起こらなくなっているんです。これも僕が若かった頃に放っていた「振動」に関わっていると考えられる訳です。そこにはある種の恋愛の相手への依存心とか、できるだけ多くの異性から注目されていたいと思うような心を持っていた僕がいて(そんな単純なことじゃないはずですが)、そうやって無意識のうちに放っていた「振動」がそういったことを起こさせていたのではないかと思われてくるんです。 他の例をあげると、僕はフリーで仕事をしている音楽家なわけですが、よくよく自分の内なる世界と、外に起こることを観察していると、仕事が来るかどうかというのは、自分がどんな応募をだすかとか、どんな戦略を立てて仕事をとってくるかには全然かかわっていないようなんです。仕事が来るときはいきなりえらくいい仕事が思いついたかのように突然きますし、ほとんどドサマワリのような、質も悪く、お金にもならないような仕事を3、4ヶ月の間ずっと続けているような時もあります。それも結局自分の内的状態がどうなっているかに確実に依存してると思われてくるんです。つまりは自分がドサマワリしかできないような内的状態の時には絶対にドサマワリ仕事(今作った言葉ですがw)以外はこないし、自分が精神的に非常にクリアーであって、わりと高めな(自分にしてはということですが)芸術的意思を持っているときにはそれに見合った仕事がぽろっとなんの前触れもなくやってくるんです。 さて、各種の観察を通してそれが確信に近く感じられてきた今になると、自分の人生においてするべきことがなんなのかということも変わってくるように思われます。それは深層心理にまで浸透した内的準備を整えていくことなのだと思うのです。自分の意志することを為すことができるかどうかは自分の存在に依っているという、グルジェフの基本的なセオリーがこのことからも非常によく納得できてしまうわけです。 グルジェフは完成された人間(少なくとも人間5番以上のことを指していると思われます)にはある普通の人間の持っていない衝動というものがあって、それは7つあると言っています。グルジェフはそれらすべてを言わずに死んでしまったわけですが(まったくグルジェフらしいですよねw)、そのうちの3つの衝動について少しだけ語ったのでした。それが、日本語で簡単に言えば、「存在する」という衝動「望む」という衝動、そして「為す」という衝動です。人間が完成されているのなら、彼は「存在」し、自分の望むことを知っていて、必ずそれを為すことができると、そんなふうに言ってしまっていいかはわかりませんが、このように自分自身の「振動」と外の世界との関係を観察していくと、なぜ完成された人間が自分の望むことを必ず為すことができるのかということが、なんとなくですが、想像つくように思われるのです。 きょうこそは気楽に書いてみようと思います。
ここのところ仕事が一段落ついたにも関わらず、いろんなところに重要な音楽祭などがあったり、その他の用事などもあって、あいかわらず移動を強いられる生活を送っております。そんな時にはベルゼバブの孫はあまりに重たいので(800ページもあるハードカバーの本なので)持っては行きませんが、本を持っていっていろいろなことを考えます。そうしているときは実はなかなか普段よりも徹底してワークに入り込んでいけるときもあります。何しろ問題としっかり取り組む時間がありますし、外からの刺激も普段とは全然違った予測のつかないものであることが多いですし、電車のなか、待たなくてはならない時間など自己観察のための時間がたっぷりあるんですよね。 そんな中で問題が込み入ってきて、頭の中には新たにいろいろなテーマ、これまでのテーマそれぞれの関わり、アナロジーやなんかそんなものが渦巻いているのですが、今日は少し気楽に思いついたことを書こうと思います。 今回の移動で読んでいたのはグルジェフの「生は私が存在して初めて真実となる」だったんですが、そこの最後の章にこんなのかあるです。最後の最後にグルジェフは宇宙に存在するすべてのものが持っていて、すべてのものが外に放っているという「振動」について書いているんですね。そこでこう書いてあります。 「たとえば、能動的な理性活動のプロセスから生まれる振動はある条件のもとで、何百キロ、あるいは何千キロの範囲を覆うほどにまで広がる力を発揮することができるのに対し、感覚プロセスが生み出す振動は、いかにそれが活発なものであれ、200メートルくらいから先へは進むことがでいないのだ。」 ここで能動的な理性活動とはいったいなんなのか、という話になってしまうのですが、これについてはいかなる説明もありません。ベルゼバブの孫をしっかり読めばそれがどれほど不可能に近いことなのかというのが「なんとなく想像できるようになる」という程度のことで、これが何なのかを知るのはおそらく人間5番とかになってからじゃないと無理なのでしょう。もちろんこれらのグルジェフの著作は普通の人間のために書かれているので、そんなことは一切説明されていないんですね。 まあ、だからそれはおいておくことにしまして、この数千キロを覆うほどに振動を発することが”場合によっては”可能であるということが僕にはかなり興味深く思われたのです。これを考えに入れるとほんの数時間準備をするだけで何十キロも離れたところから動物を殺すこともできたというグルジェフの能力も納得いくような気がするんですよね。 で、僕が考えていたのはこの能動的な理性活動といったものと自分がいかにかけ離れているのかということでした。まず、自己観察を続けていると、自分が「能動的」であれるということの可能性がいかに少ないのかということをいやというほど感じさせられます。そして”意識”があまりに弱いために一定のことを同じ集中力をもって続けることもできないわけですから、こんなものには到底近づけないということを思っていたのでした。 ところで、思いついたので書きますが、たまたま友人の家で「千と千尋の神隠し」を少しみたんです。あの映画ってすごいなぁと思うのですが、宮崎駿のキャラクターの描き方は、このまったく話にならないほど弱い人間の「意識」というものをしっかり理解しているとしか思えないような描き方をしているんですよね。そしてそれだからこそほんの小さな表現がものすごくリアルなんですよね(なぜならすべての人間の意識が弱いために、すべての人がそういうふうにしか行動をとっていないからです)。そしてそういう描き方ができるということは、まったくそういった意識の弱さがない、本当の意味でのスーパーマンのようなキャラクターも描けるということなんですよね。 で考えてみたんです、自分の生活の中でどんな時が一番この能動的な理性活動に近い状態になれるのかということを。意思のすごく弱い僕は自分の弱さにムチを打って何らかの思考活動をするということができないわけですが、実はこのプロクをなんとかかんとか書いていこうとしている自分は自分でムチを打つわけではなくて、このプログの読者を想定しているかゆえにそれがムチになって、まあまあ長い時間自分の思考の中に没頭しているときがあるように思うんですよね。 そして考えていたのですが、何千キロというのはよくわからないので、2000キロということにしますと、僕がこうしてコンピュータの前に座ってもし能動的な理性活動をすることができるなら、ドイツ、フランス全体と北はイングランドまで南はスイスを少しだけの範囲に自分の発する振動を送ることができるということになるんですよね。 だからどうしたのかって言われたらそれまでですが(w)、実はそんなことができるようになったときこそが、自分の目的を果たすことができるときなのだなぁ、となんとなく、漠然と考えていたのでした。 まったく、何か意味のあることを書こうと思いすぎるとどうも何もかけない感じがしてくるので、あっけらかんと、なんとなく書いてみようと思います。今日書かないとまたしばらく更新できませんし、無理にでも自分の心の中にあることを書いてみるのもいいことかもしれませんから・・。
人間1番、2番、3番という話を2つ前の記事で書いたのですが、これには続きがあります。もちろんその次は4番になりますが、4番から先はいままでのような人間のタイプを示したものとはかわってきます。人間4番とは初めて人間が意図的に進化の方向に向かった状態です(進化は意図的に以外は起こりえないというのがグルジェフの世界での大前提です)。 以前書きましたように、人間は必ず本能・動作を行動の中心にするもの、感情を中心にするもの、思考を中心にするもののどれかのタイプとして生まれてきて、それが人間1番2番3番と呼ばれるわけですが、4番は、その3つのタイプのうちどれか一つに必ず属している普通の人間が意図的な努力によって、ほかの二つの特性も獲得し初め、それらのバランスをとり始める状態を人間4番と呼んでいるのです。 この概念のすばらしいところはここだと思うのです。人間はもともとタイプに分かれていてそれぞれはまったく違う視点から(本能・動作、感情、思考)世界を認識しているために、真に理解しあることはまったく不可能であると言います。しかしもう一つ別のタイプとして現れるのは、その3つの考えうる視点(または力点とでもいいましょうか)をすべて兼ね備えた人間で(これは意図的な努力によってしか絶対に得られることはできません)、これが示すところは、この3種類のタイプ以外の人間とは「進化した」人間しかありえないということなんです。実はこの考え方では、人間は第7番まであるのですが、ここでは例によって我々には全く必要でないためにこれ以上の話はしません。もっともドラマチックであるべきところは人間4番から5番への移行なのですが、ワークという意味で徹底して自分の意思でやっていけるのは、この人間4番であろうすることだけなのです。 それでは、いかにして人間4番になるための準備ができるのかという問題になります。 繰り返し強調してきたように、これには意図的な努力が不可欠です。つまりは、偶然いままでしてきた努力がその方向になんらかの役にたったとか、なんとなくしてきた努力が実はこの4番になるために必要な努力だったということは絶対に起こらないんです。これにはわけがあって、ある程度のシステム全体の理解と自己観察があればしっかりと納得できることなのですが、人間はどんな種類の努力をしても、必ず自分のタイプに適した努力しかできないようになっているんです。それがゆえに、人間4番になるための努力は他のすべての努力とまったく種類の異なった、感覚も異なった努力なわけです。 さて、ではいかにして意図的な努力が始められるのかということですが、もちろんまず最初に、自分がいったい人間1番2番3番のうちのどのタイプなのかを正確に知る必要があります。そのためにまたもや(wもう既に僕の座右の銘にすらなりつつある)自己観察が非常に重要になります。これは以前書いた自分の機械性の理解ということとも関わっています。自分のすべての行動、過去にしてきたこと、過去に起こってきたことがいかにして起こったのか、それをはっきりと自分のタイプに照らし合わせて理解していくことが必要不可欠になります。これらのことを自己観察によって納得できるところまでいけば、必ず自分のタイプが見えてくるはずです。なぜなら、ものごとは必ず自分のタイプに合わせてしか起こらないし、自分はそれに逆らうようなことは一切できないので、自分に起こること、起こったことをしっかり理解していけば、完全に自分がなんらかのタイプに支配されているのだということを知ることができます。 自分を支配しているタイプにそってのみ物事が起こっているということを自分の行動の隅々にわたって理解することができると初めて意図的に何をやることがこの種の意図的努力であるのかということを知ることができます。これは必ず、今までの自分に絶対にできなかったことをするということを意味していて、これを始めることで必ず信じられないような自分の無力を感じるでしょう。なぜならこの努力で使う部分は自分の長い人生で自分が一切使ってこなかった部分なわけですから。 ここで思い出して欲しいのはパートクドルク義務です。これは「意識的努力」と「意図的苦悩」ということをさしているとされていますが、この人間4番になっていこうとする意図的な努力もまさにこのパートクドルク義務なんですよね。しかもこれはワークの中で最も大切であるパートクドルク義務のかなりの大きな部分を占めていると思われます。 ここでもう一度「機械性の実感」という以前のコラムを振り返ってみると、なぜまったく理解できない他人の言動を受け入れる必要があるのかということがより明確になってくると思います。それは「意図的苦悩」だけではなくて、人間4番になるための準備にもなるということなんです。 しつこいようですが、ここでもう一つ付け加えておくと、この意図的努力では、自分に起こることの隅々にいきわたった理解が必ず必要になるわけですが、それをなしにただ自分のいままでしたことのないこと、絶対にできなかったことをやろうとしても、これはどうしても人間4番に向かうための努力にはなることができません。なぜなら、自分の機械性を完全に理解しない限りは、機械として動いている以外の行動は絶対にとれないからです。 ここのところ自分の考えていることを言語化できずに困っていました。
頭の中に引っかかっていること、浮かんでは消えていく認識のようなものがいろいろな方向に存在しているのですが、それを一つの言葉として、文章としていくことがなかなかできない。これは今、僕の集中力がかけているというのも一つなのですが、一方ではこれを無理やりに言語化してしまうようなことは危険でもあるのではないのかと思っています。グルジェフの著書「ベルゼバブの孫への話」に繰り返しでてきますが、我々人間にその異常な生存状態のおかげですっかり結晶化してしまった特性の「知ったかぶり」「でっちあげ」というようなことしてしまうことになるかもしれないと思うからです。そして同著に繰り返し書かれていますが、われわれ人間はそれが「知ったかぶり」や「でっちあげ」であるほどに信じてしまい、それが真実であるほど受け入れることができないという傾向を歴史始まって以来ずっと持っているんです。だからこそ、そういったことにできうる限り陥らないように気をつけたいと思う訳です。 こういったどこかに隠れている認識を無理にでも自分の言語の範囲内に、また別の言い方をすれば通常の意識の領域内に持ってくるのは並大抵の努力ではないと思っています。これがどうしてそれほど難しいのかといえば、これらの認識は言葉で追いかけようとするほどに、消えていってしまうように感じるからです。そうすると、普通の方法ではこの認識を追っていくことができない、また別の言い方をすれば、普通の方法で追っていくほどに欺瞞に覆われてしまうといいますか・・。最近ものすごく久しぶりに文学作品をかなり熱中して読んだんです。そこで感じたことは彼ら文学者はこういったものすごく難しいことを結構しっかりと現実にできる人たちだなぁと・・。レベルにもいろいろとありますけど、僕が読んだ作家の作品はなかなかのものでした。この壁をどうにか超えていくことが、僕の個人的な意味で芸術家としての壁を越えていくことなのかもしれないと思われてきます。 結局大事なことは「意図的苦悩」この難しいところに果敢に立ち向かっていくことなのでしょう。 しばらくでかけていたために、以前書きたかったことのフォーカスをまるで失ってしまいました。まあ、しかしそんなことにはこだわらずに何か書いてみようと思います。
グルジェフのワークの中でもまず最も重要であると思われることは、自分の完全な機械性を知るようになることだと思われます。自分がいかなる意味においても「意思」と言われるものを所有していないということ、これを完全な意味において実感していくこと、そしてその実感が日常のすべての瞬間に浸透していることです。 この日常に浸透しつくした”実感”を得ていくには、日常のあらゆる瞬間に浸透した自己観察を必要とします。 これを実感しきるのはたいていのことではありません。なぜならそれは長い人生で自分が作り上げてきた自己という意識、自分の像がことごとく否定されることを意味するからです。人間はこれを破壊されることを何よりも恐れていると思います。もしかしたら日常のあらゆる努力が(これはまったく無駄な努力なのですが)この自己のイメージを守るためのものだと言えてしまうかもしれません。それは自分が今までに作り上げてきたあらゆる自己正当化の論理を無にしてしまうということでもあります。 この論理から1ついえることは、このワークに関しては、自分がまともな人間であるとか、他人より秀でていると思っている限りはどこにも行き着けないということでもあります。ここに注目するだでも、ワークを進めていく中で自分を見失わないためのガイドになると思われます。 自分が無駄な自己主張(この場合、自己主張はすべて無駄であると言えるかもしれません)をしようとしているとき、認めてもらいたい心が言動のどこかにあるとき、それは自分が機械であるということを実感するという、ワークの最も基本になる前提を得ることを放棄しているということになります。 この自己正当化の世界から逃れるために1つ実践できることがあります。これはパートクドルク義務と重なっているわけですが、自分にはまったく論理が通らないと思われる他人の言動を受け入れることです。 普通人間にとってこれは非常に難しいことです。自分の視点からみて論理が通っていないことは常に理不尽だと感じるわけで、あらゆる理不尽を受け入れてしまうということ、これは実に非常に有効な「意図的苦悩」、つまりパートクドルク義務になります。 これが自己正当化の世界から逃れるために非常に有効であるということは、なんとなくすぐに理解されると思います。しかしこれに少しだけ説明を加えると、人間のタイプということがあります。 人間にはいろいろなタイプがあります。ここで多くのタイプについて論じることは不可能ですが、明らかに違うタイプとして存在しているのは、物事を身体感覚や本能でとらえる傾向もっいて、行動の基盤や動機が身体・本能に依っている人間、そしてそれらが感情に依っている人間と、それらが思考に依っている人間との3種類です。 グルジェフはこれらをそれぞれ人間1番、2番、3番と名づけています。人間は必ずこの3種類のうちのどれかとして生まれてきます。そしてこれらの人間が理解している世界というのはその基準が違っているために、それぞれまったく違うわけです。 というわけで、われわれもこの1番、2番、3番のうちのどれかなわけですが、われわれにとって理不尽であると思われること、自分の論理に照らし合わせてまったく納得することができないこと、理解不能なことというのは、この違いである可能性が高いわけです。 つまり、まったく理不尽であると思われることを受け入れてしまうということは、自分の生まれ持っているタイプとは違うタイプの捉えている世界を知るということであり、それがあらゆる自己と捉えている意識、自己像、自己正当化を客体化することにつながり、それがパートクドルク義務にもなってしまうというかなり効率的なワークになっていくわけです。 少々論点がずれてきてしまいましたが、今日のところはこの辺で。 |


