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以前に書きましたように、今はフランスへの引っ越しの準備で大忙しです。まったく次から次へとやることが出てきて、体力よりも精神的にへとへとになってしまうのですが、そんなときになんだかんだと息抜きで記事を書いたりしております。
最近すごく感じているのは自分の救いようのなさですねぇ。なんとも、どうしてもこの自己の(正確にいえば複数の自己の、ですね)牢獄から逃れることができない、ということを嫌というほど感じております。そして同時に見るのは他人の中にもある機械性です。ある人に何かを言うと、又、何かをすると必ず決まった反応が返ってくる。そしてそれがまったくの自動に起こっていることで、その人がそれを変えるすべを持っていないこと、そして何よりもそれが自動に起こっているということを意識していないことを観察することがちょこちょこあります。そしてそれを見て、その人をそうした機械性から解放する方法がどこかにあるのだろうかと思った時に、それにも大いに絶望してしまいます。これは前回に書いたことですが、なんとかして他人が自己完成を達成することを援助していくことは、あまり多くのところでは強調されていませんが、実は第4の道においては必要条件なのです。 そのことは前回にも書きましたように「ベルゼバブの孫への話」第1の書の27章、「人間の生存のための組織」というところで少し触れられているのですが、そこには人間を除いた宇宙のあらゆるところに住んでいるの3脳生物(人間のような知性、感情、本能の3つを持った生物)が実行しているという「オブリゴルニアン努力」ということが書いてあります。引用は省きますが、5つあるオブリゴルニアン努力のうちの第5の努力がこの、他人の自己完成を絶えず援助しつつける努力なんですね。 グルジェフの言う意味での「利他」というのはこのことに尽きると思われるのです。われわれは善悪の判断基準というのをまったく持ち合わせておりません(前回に続いて、哲学の世界で古くからずっとされている議論をとばしてしまって言い切る形になってしまいますが、グルジェフの世界ではこれも大前提です)。グルジェフはその判断基準が発生する唯一の条件は人間が自己の完成をめざすのかどうかということにかかっていると言っております。ある人間が自己の完成をめざすのなら、それを助けるものがすべて善で、それに反することだけが悪なのだと。その視点からみれば、他人にとって真に(グルジェフが示す意味での)利益になることというのは、ただ一つその自己完成を助ける何かだけなのです。 そうしたところを前提として、それではどうやって他人の自己完成を助けたらいいのかと考えていくと、そこには今まで考えていた、又は普通に考えられているのとは全く違う他人との関わりの見取り図が現れてくるようです。 他人の自己完成を助けようとするならば、まず最初に誰かに「人間は完成されていない存在なのだ」ということを納得させるところから始まることになるのです。このある人間に何かを納得させるという行為を、グルジェフは自分を真にコントロールするために非常に重要なことだとしているようです。僕の少ない経験から言えば、それは他人の機械性を理解することにつながるからなのです。そして相手が機械的であるからこそ、その相手に何か本当に重要なことを納得させたかったら、自分の機械性をコントロールできることが必要になってくるのです。 話を最初に戻しますが、最近思うのは結局自分がしてしまう「決まった反応」「決まった思考のあり方」という機械性から逃れるためには、「死ぬ」覚悟ができあがらなくてはどうしようもないのかもしれない、ということです。複数の自分として存在している自己の救いのなさをよくよく実感するほど観察し、その複数の自己としてのみ存在している自分を本当にあきらめてしまうということ。そのとるに足りない自己を心の底から認めることだけが、「死ぬ」覚悟につながるということです。これは結局日本の伝統的な考えかたからで言えば「謙虚」なんですよね。 なんとここに来て、「利他」「謙虚」という非常に平凡な道徳的な結論がでてくるあたり、非常におもしろいじゃないですか!!w 利他主義ということについて書いてみようと思います。
グルジェフの世界の中でこのことについて言われることはほとんどなく、逆にそういうことをワークに対しての弱さの兆候として考えられているようなところがあると思います。しかしここは実はよく考え直さなくてはならないポイントだと思われます。 まず、第一にグルジェフのシステムの中では道徳的なことを一切否定する部分があります。それはしかし、一般に言われている道徳がまったく主観的なものである、つまり地域や時代が変化すればまったく逆のことが道徳になってしまうような道徳しか人間が持っていない、ということが理由であってそれ以外では決してありません。もしかしたらこのことにも議論が必要なのかもしれませんが、ここのところは省かせていただきます。一般的に考えられているような道徳はすべてが主観的であり、客観的な価値を持ったものは一切ない。というのがここでは大前提です。 グルジェフが利他主義を否定するような場合は、こういう類いの道徳観から出た利他主義で、それはまさしく自己の弱さ、自己観察をして自己の問題に取り組んでいくことのできない人間の弱さから逃れるための口実としての利他主義でありましょう。それに関してはニーチェもまったく同じ論法で徹底的に批判しています。それは「隣人への愛」というキリスト教世界での道徳観の否定です。(注)ここでも注意が必要なのはニーチェが否定しているのはキリスト教道徳観からできあがった西洋社会のことであって、それ以外のことではないということです。 しかし、本当のことを言えばワークそのものは利他的でしかありえないのです(なんという逆説でしょう!)。 まず、「第4の道」の絶対条件のうちにこういうものがあります。 (第4の道とは人間の進化の道の中で伝統的な3つの道、人間1番のためのファキールの道、2番のための修道僧の道、3番のためのヨーギの道以外の道のことです。これがグルジェフの説明によれば、その3つ以外の道では人間が進化に近づくための唯一の道で、他とは違って思考、感情、本能の3センターに同時に働きかけることで進化に近づくことが特徴です。) 第4の道においては自分が進化の次の段階に上りたい場合は、誰か別の人を自分のいる段階まで引き上げなくてはならない。それ以外の進化の方法はない。とまで言われているんです。特にこれは第4の道に入る前の段階。道を探している段階では絶対に必要不可欠なこととされています。 つまりこれが絶対条件である限りは。これを忘れてしまって、ワークをすることは原則に反するともすら言えると思う訳です。 ではその「利他主義」とはなんなのか。 このことについては奇跡を求めてなど、グルジェフの実際語ったことから書かれている本には今書いたことぐらいしかでてこないわけなのですが、「ベルゼバブの孫への話」第一の書の最後にある「アシアタ・シーマッシュ」のについての、3つの章にはエゴイズムの異常性として実はたくさんヒントを見つけることができます。 今回はこのことについては書かずに別の機会にまわしたいと思います。 どうも。一度記事を書くと何度か読み返したりすることが多いです。
最近は前回にも書いたように、「ベルゼバブの孫への話」を少しずつ読んでいるのですが、そこでちょっとした間違いに気づきました。 ちょっと恥ずかしいのですが、今まで意図的苦悩、意識的努力ということについて再三書いてきたのですけれでも、それを僕はパートクドルク義務と呼んでおりました。それが実は日本語ではパートクドルグ義務と読むのだということに気づいたんです。あの、つまり「ク」でなくて「グ」です^^;)。 この間違いについて言い訳をしますと、これ、ドイツ語では「Partkdolg」と書くのですが、ドイツ語の語尾につく「g」は「ク」又は「ヒ」と読むんですよ^^;)そんなわけで、中途半端にドイツ風に発音してパートクドルクと言い続けていたのでした・・。 今後は統一して「パートクドルグ義務」と表記していこうと思います。 失礼をいたしました^^; さて、今回のプロダクションはかなり長く、なかなか大変なものでした。このブログもかなり長いことご無沙汰することになってしまいました。いつも移動には本を持っていっていろいろ研究を進めようとするわけなのですが、今回はあまり長い移動だったので、思い切ってあの(持ち運ぶのが)非常に重い「ベルゼバブの孫への話」を持っていきました。同時になんとなく気になったので、ニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」の文庫本上巻を持っていったんです。僕は4年ぐらい前までニーチェに非常に感化されていまして、当時はこの「ツァラトゥストラ」が僕のバイブルだったんですね。
今回の移動でのいろいろな問題を通して、ワーク、自己観察を続けつつ(非常に難しかったのですが)、ベルゼバブを読むことによって、さらにいろいろな疑問が起こってきました。「奇跡を求めて」(ウスペンスキー)を読んでいるときというのはそんなに疑問は出てこないといいますか、むしろ「読む」というプロセスが疑問を解決していくプロセスになるわけなのですが、グルジェフの書いたものはまったく逆です。読めば読むほど疑問がでてくる!それがあの本の特別なところで、他にはまったくない特徴だと思うのですね。 で、そんな疑問をこれからうまくまとめて、今ではほとんど忘れ去られてしまった「グルジェフ掲示板」のほうで議論できたらなぁ、と思っているところです。 そんなわけで「ベルゼバブの孫への話」を読みつつ、疲れたら「ツァラトゥストラ」を読みながら過ごしていたわけですが・・、そうなんです、「ベルゼバブ」を読んでいると、あの難解なことで有名な「ツァラトゥストラ」が、頭休めに読めてしまうんですよ。で、実際頭休めになるんです。これは驚きの発見でした! そして考えていたのはニーチェのことなんですが、普通ニーチェのような人は人間3番だと考えられていると思うんですね。つまり「思考センター」を使ってものを捉えるタイプの人間のことです。エニアグラムの「タイプ」の話で、何かそんなふうに説明しているのをどこかで読んだことがあるように思うのですが、僕が今回感じたのは、彼が実は全然頭でものを考える人間ではない。または「なかった」ということなんです。僕が感じるのは彼はものすごい身体人間です。本能によってものを捉えている人、または「捉えていた」人です。つまり人間1番ですね。そして彼は猛烈な欲求によって思考センターを激烈に働かせた人なんです(もう言い切っていますがw)、意識的努力(パートクドルグ義務の一つ)のことです。 そして彼は元々持っていた、強い本能的能力と、激しい「思考センター」の働きとの葛藤の中で、さらに激烈な感情を呼び覚ますことに成功しています。 そうなんです、僕が思うに、少なくともニーチェはツァラトゥストラの第1部、第2部を書いているときには人間4番になることに成功した人なんですね。つまり思考センター、感情センター、本能・動作センターの働きが均衡を持ち始めた人間です。ニーチェの中に常にある異常なまでに激しい葛藤はここに依っていると思う訳なんです。そして彼がツァラトゥストラを書いていた短い期間、第4部で「永劫回帰」について語り始めたころには、その激しい葛藤の炎の中で、複数の自己を一つにまとめることまで成功したのではないか、つまりもしかしたらツァラトゥストラの第4部にいたるプロセスが人間第5番の誕生のプロセスだったのではないかと思われてくるんです。つまりは死んで生まれ変わる「再生」の成功で、オカルトの言葉で言えばアストラルボディーを持つにいたるプロセスです。 ・・・。まあいいや。空想的な話はいいんです。 しかし僕が思ったのはこの激しさこそがグルジェフの言う「自己を一つにまとめるための炎」そのものなのではないかということ。そしてそのイメージがワークの指標にすらなるのではないかということなんです。 ここで少し批判的なことを書いてみたいと思うのですが、僕が感じるところによると、これほど大きな葛藤、そしてその結果としての強力な感情センターの働き(それはつまり物質12で働くことが可能な「真の感情」のことです)を持っている人間を見たのは、僕の短い人生でありますが、「ニーチェを含めて」たったの2人だけだということなんです。それはすくなくとも人間4番に至っているということを意味すると思うのですが・・。つまり僕の言いたいのは、オカルト世界とか、精神世界にかかわるところでは、やたらとたくさん「悟り」を開いたと自称している人とか、「悟りを開いた」と言われている人がいるように思うのですが、僕のこの視点(ウスペンスキーの錬金術的エネルギーの説明と、いろいろな観察の結果)から見れば、ニーチェの持っているような種類の「真の感情」と言われるようなものを持っている人すらほとんど見たことがないのです。そして、その兆候は単に人間4番に至っているだろう、または、人間5番に至っている可能性があるのではないかという兆候に過ぎないわけですね。それを通して、完成された人間が人間7番なのだとしたら、本当に進化に近づいている人間というのがいかに少ないかということを僕は思う訳なんです。 てなわけで、人間1番である僕はとりあえず物質12で働くことができる「真の感情」をもつことができるところまでがんばろうと思っております。話はそれからですね みなさまご無沙汰しております。
ここのところ、移動しては一日帰ってきてまた次のところに移動するという生活を繰り返しております。いつか書いたように移動生活では研究がうまく進むことも多いのですが、何せここまでほとんど家に戻ってこないと、帰ってきたらやることが山積みで、それをなんとか終わらせたらまた次のところに行ってしまうというかたちで、ちっとも落ち着いて文章を書くようなことができません。 明日からは仕事に出かけてしまってまた10日間帰れませんので、今度こそは記事を書きたいと思っていたのですが、あまりに事務的なことが多くて、まったく手を付けられずに夜中になってしまいました・・。残念です。 こんなに戻ってきたときに事務的な用事が多いのは実は来月、フランスのほうに引っ越すことになりまして。そのせいでいろんなことがあるんですね。今回の仕事が終わったら今度は引っ越しになるので、またベルゼバブの孫を更新するのがしばらく難しくなりそうです。 いつになったら落ち着くのか今のところわかりませんが、僕自身の研究は少しずつ進行していますので、また更新ができるようになったときにその成果がしっかりあらわれるよう、ワークを続けていこうと思っています。 それではまた! |


