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エネルギー、疲労を観察するということ、これまた偶然始まったテーマですが、予想以上の観察結果を残しております。まず第一にこれを観察しようとすることによって、自己観察が一日にわたって、また睡眠の状態も含めて引き延ばされたことです。今までどうしても思いついたとき、またたまたま自己観察をしていたときのみの観察結果しかたまっていかなかったところが、この観察によって自分がどういう時にエネルギーを失って、どういうことが起こった後にどれほど疲れたのか、そういうことがよく記憶に残っているようになったんですね。ということはつまり観察している時間が長くなったということを示していますし、無意識のときが減ってきているということでもあるはずなんです。なぜなら無意識の時の自分の感覚は絶対に覚えていられませんから。
こうして、今回フランスに戻ってくるときにえらい大変な目にあったということから偶然この観察、考察にはいったわけですが、このブログでも少し話題にしました「グルジェフ弟子たちに語る」という日本で仕入れてきた本を見てみたらですね、2章から後にたくさんエネルギーのこと、また浪費、節約のことがたくさん書いてあるではないですか! そんなわけで、この本はしばらくは読まずに「ベルゼバブの孫への話」を研究して行きますと宣言していたのに、この1週間はこの本をしばらく読んでおりました。 何が言いたかったのかというと、ここでも自分の考えていたことを実行することができなかったということなんです。最近の少し記憶のスパンがながくなった自己観察の結果、「あらゆることが起こるだけだ」といったグルジェフの言葉の意味がいろいろな自分の行為の中から非常によく納得できるようになってきたのですが、これもこのことの一つなんですよね。 偶然始まった疲労の研究、偶然手にしていた本にそのことが書いてあった、ここに自分の意図は一切入っていないわけです。そのようにして自分がやることが一定することは決してありません。 それのどこが悪いのだ?という気がしないでもないですが、そのおかげである方向に向かった日常における一貫した行動というのが実現できなくなっているんですよね。そしてそのことが実現しなくてはならないのは、この世界にはあまりにも多くのことがあって、それらすべてに関わって何かをしていては、短い人生の中、死ぬまでに何か意味のあるところまで達することができないと思うからです。 しかしあまり大げさになりすぎてもいけないですよね。まずはエネルギーを浪費しないで意図的に使えるようになることだけで、現状に比べたらおそろしく多くのことが実現できるようになるはずですから。 最近考えていることの中に自分がまったく意図していることを行えない(つまり「為す」事ができない)ということを表していることがもう一つあります。例えばこの1年間を例にとってみますと、僕がワークにどれほど意思を注いでいるか、というかどれだけ真剣であるかということは常に一定していないわけです。 なぜそうなっているのかというのは理由を探そうと思えば(つまり、言い訳を作ろうと思えば)、いくらでもあります。例えば引っ越しの間、落ち着いて自分に戻ってくる時間がなかったとか、仕事の移動が続いた時にその他のことが重なって、それらを片付けるのに精一杯であったとか、いろいろです。しかしいったいなんでしょう。そういう時というのは、自分がいったい何のために生きているのかということをすっかり忘れている時なんだと思うのです。ではいったい何のために自分が引っ越しを決意したのか、何のためにそういう仕事を引き受けたのか、何のために他人と関わっているのか、そういうことはすべて自分が何のために生きているのかということにつながっているわけです。そしてそれを覚えているなら、そのことを利用して自分がどういうワークをしていけるのかということがわかるはずだし、そういう場を利用しなければ本当にワークというのは進んで行かないはずなんですよね(僕のやっているのは正確に言えば準備的ワークにすぎないのですが)。 この自分の行動を、つまりワークへの態度の変化をまあ1年という長めのスパンから見て考えてみると、これはむしろ惑星的なことの影響から自動的に変化しているというふうに見るのが一番ロジックではないかと思うのです(そんなものが一番ロジックに思える僕は気違いだと言われても仕方ないですねw)。 まあ、そんな感じで惑星の影響と個人の関係を正確に読める人がいれば僕の“真剣さ”とかワークのありかたなんてすぐにわかってしまいそうなのですが、そうならないために、いったいどうしたらいいのか、ということを考えているわけです。 それは自分の目的を覚え続けていることだとか、観察の目をゆるめないことだとか、いろいろ考えられるわけですが、それを覚えているのかどうかそのものが外からの影響(この場合惑星の影響)に依ってしまっているようなので、手がでないと思われるわけです。 しかしなんとかしないとまずいですよ。 超努力について書き始めてから2週間弱になりますか。前回は結局超努力なんていうのはできない、正確に言えば大蓄積機を直接使うような状態を自分の力ではやはり呼び起こすことは不可能だということについて書きました。そしてその後ももちろんそんな大それたことは起こせませんでした。とはいえ、いろいろと自己観察をする中で、前回書いたような注目すべきできごとも「起こる」(自分で為しているのではないということを強調しておきます)ので、無駄なだけでもないでしょうといったところです。
この自分の疲労の観察をしていて、今になってようやく気づいたことがあります。それはこの2週間とりあえず自分が疲れきるところまで何かをして、その疲労を観察したまま仕事を続けるということを続けてみたわけですが、その間に自分がいったいどれだけの成果を私生活、仕事(音楽)の面であげたのかということを振り返ってみると、これが何にも成果があがっていないということに気づいたんです。毎日へとへとになるまでやってきたはずが、恐ろしいことに振り返ってみると、自分はいったい何をやっていたんだ??と思わざるを得ないような結果しか現れていないんですね。つまりここで気づいたことは、「自分は結局何もしないうちからへとへとになっている」ということなんです。 いきなり極論みたいになってしまったのでわかりにくいかもしれないのですが、結局は「意味のあること」は一切先に進まず、通常の生活、仕事に振り回されるだけでへとへとになってしまって、”自分の”仕事と呼べるようなもの(私生活、音楽両面において)、自分の進化に向かう道のために何かをすることが一切できないで、単純に疲れるだけ疲れていたわけなんです。 そこで昨日から、どのようにして「何もしなうちに」一日が過ぎてしまってそれでへとへとになってしまうのか、ということを観察してみたのですが、これはすごいことが起きていますね。本当にあらゆるところで自分がエネルギーを浪費しているのだということに気づくことができました。 肉体的なこと、筋肉の必要以上の緊張も自分の考えていた以上にすごい力を使っているし、心の中ではあらゆる愚痴や攻撃的な心が朝起きてから数時間の間だけでもどんどんエネルギーを浪費して行くし、思考センターではあらゆる空想が次々に起こっていて、これが明らかにエネルギーを吸い取ってしまっているんです。もうこれは恐ろしいほどで、朝起きたら自分の目に留まるもの、家の中にあるものがいろいろな空想を呼び起こし、外に出れば道行く人が目に入るたびにあらゆる空想が頭の中に浮かんでくるわけです。これらエネルギーを垂れ流している限りは、疲労をいくら観察しても蓄積機のことをわかってこないということがすっかりわかったような気がしました。蓄積機のことが知りたかったら、蓄積機自体を意図的に使い切るようなことが必要になるはずですが、そんなことをするよりも前に、あらゆるエネルギーの浪費のおかげでその日やるべきをことをするだけでへとへとになってしまうわけですから。そしてこれらのエネルギーの浪費をいかに抑えるかということももちろん考えたわけですが、これだけでも恐ろしいほどの自己鍛錬が必要であるということは明らかです。いくら抑えようと思っても、自動的に作動してしまうそれぞれのセンターは長年の習慣のとおり、次々にエネルギーを浪費してしまうのですから・・。 そんなわけで、急いで書きましたがあいかわらず、一人ではこんなワークには手がでないということだけがわかった中間報告でした。 早速ですが続いて書いてみたいと思います。
こうして今日も「疲れ」を観察しつつ仕事をして、友人との付き合いでパーティなどに参加して家に戻ってきたのですが、疲れていると感じていた瞬間が多かった今日にもかかわらず、今からまだいろいろとやるエネルギーが残っていることを感じます。ならばとりあえず倒れてしまうまでやってみようというわけです。もういろんなことをさんざんやってきて、これでいいと思ったところにもう一度何かを始めるところからが超努力だというので、こういう状態もありでしょう。 明日は朝早くから移動なのですが、それを考えても今の状態なら意識さえ保っていればなんとかなりそうだと思われます。 前回の記事で書いたように、いくらやろうという気持ちになってもこの10日間、一瞬すら大蓄積機を直接使うということは起こらなかったわけですが、これは本当にそれこそグルジェフの言うように自分一人の力ではまったく不可能なのでしょう。それ故に絶対に「スクール」がなくてはならないわけです。 しかしそうこうしていても、人間生きていればいろんなことがあるのです。これはつまり「為す」わけではなく、偶然「起こる」ことがあるわけです。 数日前仕事でルクセンブルクに行っていたのですが、その日一日中人間関係で堪え難いほどの苦痛が続いていたんです。移動のバスの中から、本番前の練習、休憩、食事にわたって一日中その状況の中にいざるを得なかったのです。そうしたかなり継続する感情に関わるできごとがあったときに(感情以外には何の問題もないようなことです)、僕はとりあえずそれを通して自分の中に起こる空想、言い訳、自己正当化をじっと観察していました。これはもう次から次へと意識の中に起こるわけですが、もう起こることは仕方がないとして、とりあえず続けて観察しておりました。その間自分が不快な感情を表すことを決してしないようにしました。それはワークとしてやろうとしても、僕にはなかなかうまくいかなかったことなのですが、この時は仕事の都合上どうしても感情を表に現す訳にはいかない、自分の責任上どうしてもその場をおかしな雰囲気にするわけにはいかないという、いわゆる強制力が働いていたために、そうせざるを得なかった訳です。そうしながら他人のことも観察しておりました。人がとる小さな行動によく気づくようにして、いったい彼らがその瞬間に何を求めているのか、不快な思いをしているか、意識がない状態にいるのか、そういうことをそっと観察しておりました。僕たちの仕事というのは本番があるときに移動となると待ち時間が多いんです。そうするとそういうことが可能だった訳ですね。 そうしている間には自分の胸のなかに何かわさわさする感覚がよく起こっていました。そのときに起こっている感情を無意識に外に表していたらそういうことにはならなかったと思われるのですが、それを意図的に受け止めて外にださないことで、そのたびに胸の中に何かが起こっている、または何かがたまっていくという感じを持っていました。 そうして一日が過ぎ本番が終わりました。そうするとですね。なんと言うか信じられないことに、そのとき問題だったこと、そしておそらくは絶対に解決するわけがないことにように思えていたものが、いきなりころっと解決してしまったんです。僕と問題のあった当人が僕のところに「自分が悪かった、本当にすまなかった」ということを伝えにきたんですね。 この話、結論を言ってしまうとわけのわからない話なのですが、僕がこうしている一日の間に思っていたことは、こうしてどうしても解決のしようないような不快な状況が続いているときに、自分が普段したいと思っていること、そして、にもかかわらずどうしても徹底的にやりぬくことができなかったこと、すなわち、自己観察や不快な感情をあらわさないこと、そして周りの状況を観察しながらそこに自己同一化しないで居続けること、これをかなりの長期間(まあ一日中ってだけですが)続けることが可能だったということなんです。このことで自分の得たものは内的にも外的にも大きいものでした。これは本当の偶然だったのですが、この一日だけは意図的苦悩「パートクドルグ義務」ができてしまったのですね。これをグルジェフは他人の自分に対する不快な表現を受け入れることと定義していますのでまさにこれなんですね。 そうしてこのバートクドルグ義務が実現したことで何が起こったのかというと、つまり普段まったく続けることのできなかったあらゆる種類の観察が徹底的に継続してできたということだったんです。これほど嬉しいことはありません。 これはいったいなんでしょうか、ここに本当に信じられないことが起こっているんですよ。つまり本当に堪え難い苦痛が存在していることが、自分にとって最もありがたいことに変化してしまっているわけですから。これこそ「錬金術」と呼ぶにふさわしいことなのではないでしょうか(全然違うかもしれませんが)。というのもこれはどうしようもないクズのような状況を自分にとって「金 」等しく価値のあるものに変えることに成功した訳ですから。それがもし常に可能ならあらゆる苦悩が「金」に変わってしまうということになるわけですから、これ(パートクドルグ義務)が実現できるということは人間の進化にかなり近づいていることにすらならないでしょうか。 僕はこういうことを考えて、デーバダッダという人物のことを思い出しました。この人物にはいろいろな説があるようですが、仏陀と同じ釈迦族の王子で仏陀が悟りを開いた後それに従って出家したのですが、生涯仏陀を嫉妬し続け、あらゆる妨害、教団を分断するようなことまでしたという人物なんですね(つい最近、中勘助のデーバダッダって小説を読んだんですw)。 仏陀はいったいなぜこのような人物を自分のそばにおいておいたのか、ということなのですが、これこそが他ではすることが不可能な「パートクドルグ義務」をしていたということなのではないでしょうか。グルジェフは似たような話で、神はなぜ「悪魔」のような存在をわざわざつくらざるを得なかったのか、ということを自問自答するところがあるのですが、これにもどうしても忘れることが不可能な不快なものを自分のそばにおいておくことによって自己想起を助ける必要が、神自身にもあったのだ、といった結論をグルジェフは出しているんです(そんな言い方ではないので、もしかしたら内容にずれがあるかもしれませんが)。 結局、意識的であるということは、苦悩そのものを自己の進化のエネルギー、原動力に変えてしまう力すら持っているということなのだと思います。 一つ付け加えておきますと、しかし、この一日が終わった後、僕は考えられないほどの疲労に襲われました。それこそ感情センターに関わる小蓄積機を繰り返し繰り返し空になるまで使い切ったということなのでしょう。寝ても回復せず次の日にも疲労が残ったほどでした。 超努力のことを書いてから「自分の疲労」に自己観察の比重を置くようになりました。そして毎日できるだけ自分の小蓄積機を最後まで使い切れるようにと思いながら行動していました。最初に超努力についてここに書いてから10日ほどたっているわけなんですが、最初から予告していたように、大蓄積機にエネルギー供給装置が切り替わることはやはり一度も起こりませんでした(起こせませんでした)。
しかし、ここに自己観察の比重をおくのはとてもいいことでした。非常に疲労してきたと感じたときに自然に意識的になるので、少なくともそこからエネルギーを浪費するようなことにならない、そしてそこから自動的に仕事をやめるか手を抜くかをするのではなくて、その意識と観察を続けたまま先に進もうということになるわけですね。そうして日常の生活を送ってみますと、疲れたと感じていたところから意識的に先に進むことによってまったく疲れていない状態まで自分が回復しているということも結構起こりました。これによってわかることは、疲れというのは人間が普通に考えているよりもずっと複雑な機構でなりっているということだと思います。 しかしそれでも大蓄積機につながっていないとだけは言い切れます。そういった大それたエネルギーがでてくるようなこととはまったく別の現象で、単に意識を向けることでエネルギーをどこからから掘り起こしてくることができるといった感じなのです。 そんなふうに試してみましたら、最近もう4、5日連続で電気もパソコンもつけたまま気づいたら何の支度もせずに眠っているということが起こっていました・・。いつも夜中になって、まだいろいろできる力が残っているなぁと思って何かをしているのですが、そこからいきなり事切れたように眠くなって、ちょっとごろっとしようなかぁと思うと、もう寝てしまっているんですね。 こんなわけのわからない「実験」のようなことを一人でしているのを馬鹿馬鹿しく感じることもあるのですが、事実こうやって単に疲労に意識を向けているだけなのですが、平均して明らかに睡眠時間が短いなかで(3時間から6時間)、毎日眠気を感じることなく日中を過ごしていられているので何らかの効果は発揮しているということなのでしょう。 こうしてやっていると、このエネルギー供給と疲れというのは、意識、身体、感情が複雑にからみあって起こることで、少しでも自分なりに「知ろう」と思ったらまだまだかなり観察を続けてデータを蓄積しなくてはならないと思われます。ただ少しでもこれを「知る」ことができるなら、自分自身のコントロールも少しはましにできるのじゃないかという期待感があります。 それでは、超努力と蓄積機についての話を続けてみたいと思います。前回の記事を読み返してみたのですが、これは非常にわかりにくいですねぇ・・。どうもわかり易いように書くことができませんでした。申し訳ないです・・。
てなわけで、もう一度要約してみます。 我々は必要なエネルギーを使うための装置みたいなものを持っていて、それは小さな蓄積機が2つと、それにエネルギーを供給するための大蓄積機に分かれている。通常は2つの小さな蓄積機にあるエネルギーを交互に使用していく。片方の小蓄積機のエネルギーが空になると疲れを感じるが、2つ目の小蓄積機に供給装置を変えることによって再び仕事を続けることができる。2つ目の蓄積機からエネルギーを使っている間に、空になった1つ目の小蓄積機には大蓄積機のほうからエネルギーが送られ再び使用可能な状態に戻されるのだが、難しい仕事をしている場合かなり短い時間に小蓄積機からのエネルギーを使い尽くしてしまうために、1つ目の小蓄積機に十分にエネルギーが溜まらないうちに2つ目の小蓄積機のエネルギーをも使い尽くしてしまうということが起こる。そのようにさらに仕事を続けていけば、最終的に両方の蓄積機にエネルギーが残っていない状況にまで達する。通常ならその状態からは仕事を続けることは不可能なのだが、強力な意思、または何らかの強制力が働くと、大蓄積機のほうから直接エネルギーを使う状態が実現される。 まあ、このことを「超努力」と呼んでいて、本来ワークと呼ばれるものは、この超努力の状態になっているものだけを計算に入れられる。まあ、通常の努力の範囲では準備段階でしかない。ということなんですね。 そんなのは馬鹿げた話に思われるかもしれません。起こすことすらほとんど不可能な「超努力」でもって初めて必要なワークが始められるというのですから。でも、それにはもちろん理由があります。それは結局、ワークのために必要な仕事量をこなすということは通常では考えられないほどの仕事量でなければならい、ということあのですが、ワークというのは「自分の中にもう一つの別の体を作り出す」という、意味不明なほど大それたことが一番最初の目標になるわけですから。そこまで大それたことは、自分のできる範囲でなんとなく、楽しそうだからなんとなく努力してみたところで、一生手にすることはできませんよ。ということなんです。 このブログで強調してきたことですが、ただでさえ人間は「意思」と呼べるようなものを全然持ち合わせていないのですから。 そんなわけで、僕が今回「超努力」について考え始めたきっかけになったことを書こうと思います。これは僕がいかにして「超努力」をしたのかという話ではなく、いかに通常の生活で「超努力」をすることが不可能なのかという話です。 先週まで東京の実家にもどっていて、フランスに再び帰ってきたのですが、日本滞在の最後の日は例によって、会えなかった人にあったり、おじいちゃん、おばあちゃんにサービスしたり、日本で買っておきたかったものを探しにいったり、支度をしたりでえらく忙しかった訳です。すると支度をするというのは夜中になるしかなく、まったく寝ることなく朝になって空港に行く。これはいつも必ずこうなってしまうわけです。 そうして飛行機の中で12時間たっぷり寝てヨーロッパに戻ったら特別時差ぼけもなくすっきりできるというのが、僕のまあメソッドなんですよ(笑)。 ところが今回はフランスに戻ったらすぐにコンサートのための練習が始まり、同時に語学学校(フランス語勉強してるんですw)の中間テストがあったんですね。今回日本でも短い滞在期間にコンサートがあったりしていたので、それらの準備が一切できていなかった。まあ語学学校についてはそれほど気張る必要もなかったのですが、やはりできるだけ早くフランス語を身につけたいので、かなりやる気を見せてたわけなんです。僕はわりと移動が多い生活をしていますし、こういうことはそれなりに慣れているんです。意思の力をほんの少しだけ働かせて自分の体をコントロールし続けていればそれほど疲れなくて済むんですよね。しかし今回は成田で飛行機に乗るのに2時間前にチェックインに並びますよね、そこから普通なら長くても30分でチェックインを済ませて、ゆっくりできるのですが、チェックインに2時間まるまるかかるほど、混んでいたんですね。異常な混み方でした。それで飛行機に乗ってからおそらく5時間ほど寝て、仕事の準備のほうにまず取りかかったんですね。とはいえ飛行機の狭い中であまりうまくはできないわけですよ。集中しにくいですしね。まあそんな状態でまずロンドンに到着しました(英国航空でトランジットでした)。ロンドンは行きもそうだったのですが、半年ほどまえにあった爆弾テロのせいなのか、異常なまでにチェックが厳しかったんです。ここでまたもや、飛行機を降りてからチェックが終わるまで延々と並んでチェックが全部終わるのに(2つもチェックがあるんですよ!)トランジットの時間たっぷり2時間半まるまるかかってしまったんです。ほとんど前日から寝てもいないし、仕事の準備は終わらないし、そこまででもうそうとうへとへとになってしまいました。もう早く帰ってまずは寝たいと、このときからそのことばかり考えておりました。 そこからドイツのフランクフルトに到着しまして(僕が今住んでいるのはフランスですが、フランクフルトから特急で2時間で着くところなんです)、ちょっと用事を済ませてから長距離電車の切符を買いにいきました。するとそこから1時間半待たなくてはならないことがわかり、さらにがっくりしてしまうんことになるんですね。日曜日の夜だったのもあり、フランスに入る電車はさらに少なかったんです。本当は次の朝からもう仕事だったので、帰ってから少し楽譜をみて寝るつもりだったのですが、もうその時間だと戻ったら夜12時半になってしまう電車だったんです。次の日は朝9時半からリハーサルが始まるのでまあ、まったく寝る以外にないだろうなぁと思いました。きついなぁと・・。で、1時間半待ちましたよ、すると、電車が30分遅れますって、アナウンスが入ったんです。あのね、30分遅れたら確実に次の乗り継ぎが間に合わないし、今日中に家には帰れないんですけど・・。てなわけでもう一度チケット売り場に戻ります。おいおい、ホテル代とか出るんですか?ってことです。で、ここまでずっとえらく重い荷物を3つもったままなんですよ。いらいらする気持ちと、次の日の不安と、疲れと、睡眠不足と重い荷物でもうぼろぼろです。 で、係の人に尋ねますと、とりあえずこの場合次の乗り継ぎ電車が待っている可能性もあるから、次の乗り継ぎの駅までいってそこで聞いてくれといわれ、まず次の駅まで行きました(本来は特急にのって2時間でいけるところが、日曜日の夜でそういうのがなかったので、乗り継ぎは2回、3時間半ほどかかる乗り継ぎでした)。そこに着きますと、夜も遅いのでチケット売り場は閉まっていて、インフォメーションに長蛇の列です。もうどうにでもなれですねw。とにかくちゃんとはっきりさせないと家に帰り着くことすらできないので、並びました。このころには少し頭がおかしくなっていたのか、結構楽しい気分になってきていました。まあアドレナリンでしょうね、ランナーズハイとかと同じだと思います。並ぶこと30分(重い荷物を3つ持って並ぶのは、ちょっとづつ移動するのに持ち替えたりいろいろしなくてはいけないので、えらいことでした)、最終的にその駅からさらに電車にのってフランスの一番近いところの駅まで行ってそこからはタクシーで帰ってくれということになり、ドイツの電車会社からタクシーのチケットを出してもらって、まあようやく、めでたく家に帰れることが決定したわけです。 そして次の朝起きてすぐに仕事に行ってから(しかも僕の仕事って歌ですよ、その状態で歌うんですww)2日間は1時間すら休む間もなく、仕事、準備、フランス語のテスト、準備、仕事、寝る、仕事・・という恐ろしい状態になってしまいました。 さて、ばかみたいに話が長くなってしまいましたが、ここから本題に入りますww。 僕が言いたかったのは、そんな状態でも人間はなんとか仕事が続けられるのだということなんです。それが大蓄積機からのエネルギーを使っていたとは僕には思えませんが、そういったストレスの中でへとへとになってやっていても、どうしてもやらなくてはならないという強制力の中では少なくとも人間はなんとか動くことができるし、その間自分を観察していると、いろいろなところでいきなり気分が変わってエネルギーが湧いてきたり、状況に自己同一化しないでいようと努力することによってかなりいろいろなことが観察できるし、第一その状況になって初めて状況に自己同一化しないでいるという「絶対的な必要性」が生まれるのだとうことに気づいたんです。 ちょっと先ほど書きましたが、ほんの少しだけ意識を持って、体のコントロールを失わないでいることが疲れている中でそれなりに仕事をこなせる方法だからです。状況に自己同一化してしまったり、ストレスでいらいらしてしまったりすると、そこからものすごい量のエネルギーを浪費することになってしまうので、それを防ぐために自然と気が引き締まるのでしょう。 僕はこれほど悪いことが重なって初めてこのことだけを理解したんです。では、通常の生活ではどうでしょうか、自分の意思の力だけではこの状況以上に厳しい状況を作り出すことなんて絶対にできないわけです。僕は今回のことで大蓄積機が直接使用されたとは思わないのですが、大蓄積機を直接使用する方法を自分なりに見つけるためにはたびたびこういう状況の中で(できるならもっと長い期間それが続く必要があると思います)、意思の力を保って自己観察をしてみるしかないと思われる訳です。しかしこういう状況を日常の中でどれほど作れるのかということです。 この切り替えを起こす秘密は、また例によってですが、感情センターにあるわけなのですが、その研究は(できるかどうかわかりませんが)また別の機会にまわしたいと思います。 (ここまで結構がんばって書きましたが、おそらく2回、小蓄積機の切り替えが起こっただけで、研究を続けようと思えば続けられるだろうし、しばらくすれば小蓄積機が全部空になるところまではいけると思いますが、ここまで書けば今日はもういいだろうという気持ちと、ちょっとした満足感と、これ以上は考えたくないという気持ちが自分にあることを観察できるんです。まったくこの状況でも普通よりはがんばっているわけですから、いかに、われわれが自分の小蓄積機のエネルギーを使い切ることすらほとんどできないのかということが見えてきます。) 超努力ということについて書いてみたいと思います。
超努力のことを言うために、久しぶりになりますが少し解説を加えようと思います。 これは例によってウスペンスキーの「奇跡を求めて」でわかりやすく説明されているます。まず、人間が何らかの行動を起こすときに必ずエネルギーが必要になる訳ですが、このエネルギーについて定義することはできないために、グルジェフは「蓄積機」という言葉でそれを説明しています。 これは「詩的」な表現になるわけですが(人間の中に蓄積機が本当にあるわけでなく、そういうものがあると仮定して考えるとわかり易いということだからです)、グルジェフは人間が持っている3つのセンター(思考センター、感情センター、動作・本能センター)にはそれぞれエネルギーを供給するための小さな蓄積機が2つづあると仮定しています。 ある人間が、例えば難解な本を読むなど思考センターを酷使する行動を起こした場合、その小さな蓄積機のうちの一つからエネルギーが送られ、それが非常に難しい仕事ならわりとすぐにそこにあるエネルギーを使い尽くしてしまうことになります。それがなくなってしまうとどうにもこうにも先に読み進めることができなるなる、又は思考センターはそれを理解することができなくなり、目では文を追っていても別のことを考え始めたりしてしまうことになります。そこで人はたいがい休憩をする、例えばタバコで一服したり、お茶をいれてみたりするわけですが、そうするとその瞬間にエネルギーを供給する場所が、2つ目の蓄積機に切り替ることになります。そうして再び本を読み続けることが可能になるわけです。 さて、そのまま読み進めていきますと、2つ目の蓄積機のエネルギーも使い尽くしてしまう瞬間がやってきます。そのときにまた休憩をするなりすると、もう一度1つ目の蓄積機に切り替えることが可能になるわけですが、この時間があまり短いと、1つ目の蓄積機にはまだ半分しかエネルギーが溜め込まれていないということが起こります(充電しきるには時間がかかるということなんですね)。そうするとすぐにそこに溜め込まれているエネルギーを使い尽くしてしまいます。するとまた仕事ができなくなる。このときにもう一度2つ目の蓄積機に切り替えなくてはならないのですが、あまりにも早くエネルギーを切らしてしまっているために、そこには4分の1しかエネルギーが溜まっていないわけです。 こういうことを繰り返していきますと、その2つの蓄積機の両方にまったくエネルギーが残っていない状況がいつかやってきます。 人間はここまで努力をするとそれ以上はもうできなくなるので、その仕事はまた明日にまわすことになります。 ここで一度我々の生活を振り返ってみますと、通常はここまでエネルギーを使うことすらまれにしかないと言えると思います。どんな仕事をしていても物事は習慣になり、ルーティーンワークになってきて、それほどエネルギーを消費せずに済みますので、午前中で一つの蓄積機、昼休みで切り替えて、午後から2つ目の蓄積機を使い切ればおそらく一日十分に充実した感覚をもつことができるでしょう。 この2つの小さな蓄積機の他に人間は「大蓄積機」と言えるようなものを持っているとグルジェフは説明しています。先ほどの「小さな蓄積機」にエネルギーを送り込むのは他でもない、この大蓄積機からなんです。この大蓄積機はちいさな蓄積機に比べて膨大な量のエネルギーを溜め込んでいる訳ですが、先ほど説明したように、エネルギーはここから直接使われず、常に小さな蓄積機にあらかじめ溜め込んであるものを使っていくことになります。 ここで「超努力」という概念がでてくるわけですが、超努力とはこれらの2つの小さな蓄積機のエネルギーを完全に使い尽くしてしまった後、さらに意思の力によって努力を続けていくことを指しています。これは本来不可能なのです。なぜなら使える場所にエネルギーがもう存在していない状態で努力を続けるわけですから。しかし、そこに巨大な強制力、又は強靭な意思が加わるとそれを可能にすることができます。それがどうして可能になるのかと言えばつまり、その状態からはその「大蓄積機」から直接エネルギーを使って努力をし続けることになるからです。 これが起こると大変なことになります。そこから先は通常人間には考えられないような仕事ができるようになるからです。大蓄積にには少なくとも通常使われている小さな蓄積機の何十倍から100倍のエネルギーが蓄えられていると考えられるのですが、それをふんだんに使って仕事ができるとなると、まったく休みなく考えられないような仕事が可能になるわけです。 「超努力」とはつまり、この通常エネルギーを使うために使う小さな蓄積機から「大蓄積機」に切り替えることを指している訳です。 これは実はワークには必要不可欠なこととされています。なぜなら人間の進化のため、個体性を確立するために必要なことをやりぬくためには、人間が使っている通常のエネルギー量ではまったく何一つ為すことができないからです。つまり進化がしたければ、この大蓄積機を直接使う方法をまず見つけなくてはならず、それをしばしば行えるようにならないと、必要なことは何一つできずに人生は終わってしまうというわけです。 しかし想像してみてください。これは信じられないほど大変なことです。人間は通常楽に生きようと思えばそれら小さな蓄積機すらいっぱいいっぱい使わずに生きていて、それでも口癖のように「疲れた、疲れた」と言っているわけです。それを少なくとも常に小さな蓄積機にエネルギーがなくなるような状態にまでワークをしていなくては、とても大蓄積機に切り替える方法なんか学びようがないわけですからね。 人間はおそろしく怠惰にできていて、疲れることを非常に嫌っていますし、恐れすらいだいています。それではワークなんて始めることすらできないのだというのが、この問題をよく考えると明らかに見えてくる訳です。 僕もこのエネルギー供給装置を大蓄積機に切り替えることなどほとんど起こさずに生活をしている人間の一人なのですが、そのことについて少し書きたいと思ったんです。でも今回はこの説明でだいぶ時間が取られてしまったので、そのことは次回にまた書きたいと思います。 (今、ここまで書くまでにおそらく結構多くのエネルギーを思考センターにつながっている小さい蓄積機から使ったと思うのですが、ここから続きをさらに書くことになったらおそらく2つ目の小蓄積機を使うことになるでしょう。一応ことわっておきますが、今この続きを書かないのは疲れてしまって面倒だからではなく、単純に時間がないからですwww。あしからずw) さてフランスに戻って参りました。すると早速インターネットがつながっていたので、もうすっかりごきげんです。てなわけではりきって行きたいと思います。
日本で書いたように、滞在中に図書館で、絶版本である「グルジェフ弟子たちに語る」(グルジェフ自身が語ったことを弟子たちがまとめたものです)と、グルジェフとモスクワで出会ってからエッセントゥキ、イスタンプールを経てパリに至るまでずっと離れることなく行動を共にしていた、トーマス・ド・ハートマンがその時期に起こったことを書いた「グルジェフと共に」をみつけて、すべてコピーして持ってきたんですね。これはやってみるとものすごい量になりまして、正直もってくるのが大変でした。つまり500枚近い紙ってえらく重かったんだってことをすっかり忘れてたんですよね・・。 さて、苦労して持ってきた本、これらは本当に他では得られない貴重な情報ばかりなのですが、早速帰ってきて自分の進む道を考えてみるとですね、これを読むのは後回しにしようという結論に達しましたww。 というのも、前回に書いた芸術のこともそうだったのですが、最近「ベルゼバブの孫への話」を読み進めるうちに、ようやくというかですね、この世の中で当然のこととして成り立っていることが、客観的な立場から見て非常におかしな状況、まるっきり狂っているとしか言えない状況にあるということが、いろいろなところで実感として見え始めているようなんですね。 これらの認識が深まってきたときに、たまたまですが、日本での法事の関係で聞いた仏教に関する話が非常によく、秘教的な認識を含めて理解できたり、他のいろいろな理解を呼びつつあるようなんです。 またそれよりも重要なこととして、ここのところそういう認識が、なんと言いますか自分に「肉化」してきた結果、いろいろなことにむしろ客観的に対応する可能性というものが生まれてきたようです。つまりちょっとしたことに自己同一化しないでいることができるようになってきたようなんですね。これはまあ言うほどだいそれたことではないのですが、言い換えれば、起こっている”普通”のことがあまりにも狂っているのでそれを真に受けたりしなくて済むような時があるんです。 例えばです。ほんの一部ですが例を挙げますと、人間には克服するのがほとんど不可能な類いの「否定的感情」があります。例えば虚栄心や功名心という「器官クンダバファー」の後遺症として残っている例のあれですね。これは本当に拭いがたく、これが拭い得るのはもう死ぬ直前になった老人ぐらいなものなのではないかと思われるし、グルジェフが言うように、その時期になってそれが拭えたとしてももうとっくに手遅れ。自分の個体性を確立するにはもう全然時間がなくなってしまってるわけですね。まあ、そんなほとんど拭いがたい虚栄心、功名心ですが、これらの感情が存在することが原因でこの世に存在しているさまざまなものをよくよく観察してその馬鹿馬鹿しさを嫌というほど感じていられると、自分がそういった感情を持っているときに、それを客観してしている自分というのがどこかに現れてくるようなんですね。そうして少なくともそういった感情を土台にして自分を正当化しようとしている自分を”ばかばかしい”と思えることが時々起こるんです。この感情を消すことはできませんよ。でも少なくともその視点に立てる瞬間があるわけです。 これはほんの一部の例なのですが、大小さまざまなこういった認識が生活の中に浸透しつつある。こういった大事な認識を助けてくれるのが、「ベルゼバブの孫への話」という本なのだと思うのですね。あれにどっぷりつかることによって事実この認識を持続させることができるし、日々の観察をとおしてデータをより多く集めてくることもできると思う訳です。 そんなわけで、いまのところもう少しこれらのことが結晶化してくるまで、「ベルゼバブの孫への話」を読み続けていこうかというふうに考えている訳なんです。 やはり、実家といっても自分の家じゃないと落ち着かないものですね。集中して何かを書く気持ちになりにくいといいますか・・。
でもトライしてみましょう。 日本に戻ってくる前にグルジェフの著作「ベルゼバブの孫への話」の第二の書、「芸術」というところを読んでおりました。ここには芸術が人間にとって非常に害のあるものとして書かれているんですよね。僕も芸術家のはしくれとして、また音楽という芸術のために短い人生のほとんどを費やしてきた人間として、これは無視できない問題です。 以前読んだときにはなんというかそこで語られていることを受け入れる気持ちには全然なれなかったのです。そこに書かれていることを僕なりに非常に簡単に要約すると、芸術というのは非常に低い意識から発しているものに、鑑賞する人間が感情移入、または自己同一化してしまうことによって、多くの人間を眠らせることにつながる、それゆえに非常に害のある代物である、といったことなんです。 以前それを読んでいたときには、そこで指している「芸術」というのは、僕のやっている音楽や、好きな文学、哲学のことをさしているのではなくて、現代で言えばテレビなどのメディア、芸能人といわれるような人間を指しているのだ、というぐらいにとらえておりました。実際にここで描写されているようなことは現代の芸能人、またはテレビドラマなどにばっちり当てはまるようなことなのです。つまりはそれらのドラマなり、番組を作る動機は非常に機械的で、よりどころにしている感情などは明らかに否定的感情で、意識的なことは一切ない。それをまったく意識を持たない状態でわれわれはだらだらとテレビを見ているわけですから、それはまさしくベルゼバブが語ったように、人類を「眠り」にいざなう大いなる害の典型的なものと言えるのかもしれません。それに、その時考えていたのは僕が「芸術」と呼んでいるようなものは、現代に存在するあらゆるものと比較して、もっとも意識的で、もっとも人間の根源的な問題に触れているもので、人間の内部の内部まで掘り進んだものだったのです。 しかし研究をさらに進めてからあらためてこれを読み直してみると、実に僕が芸術と呼んでいるものもやはり、人間の空想や、主観、否定的感情によっているものだということが少しずつ見えてきました。 そうして僕の今回東京でやっていた仕事、ラベルやプーランクなどの作曲家も、いろいろとCDを買って(東京にはいろいろといいCDがそろっています)聞いたものも、それらが非常に洗練されたものであるとはいえ、やはり空想から発した主観的芸術であるということが見えてきたのです。 ならば今になっては僕も言いきります。芸術は人間の進化にとって非常に害になる代物です。これは確かなことでしょう。 まったく、芸術家にとってこれほどの自己否定もないわけなのですが(w)、まあ実はそれほど悲観的なことでもありません。というのも、よくよくその根源について見ていくと、ほとんどすべての小説や、音楽が単なる空想と否定的感情の産物だとしても、現代の人間の感性の中ではもっとも洗練されているものであるということは間違いのないことですし、実はよくよく観察みればほとんど存在しないとはいえ、過去のものの中に自己同一化を含まないような芸術も存在していないわけではないと思われるわけです。 例えばドイツ歌曲でいいますと、シューマンという人間は本当に恐ろしいほどの否定的感情と空想と恐怖(そのすべてはグルジェフの世界では人間の弱さをあらわしたものです)をもった人間で、彼の歌曲はそれにたっぷり自己同一化しきった上で、巨大なエネルギーをもって、その細かいヒダまでを表現しきったような芸術なのです。それを受け止めることはやはりわれわれの空想や否定的感情をかきたてることでもあり、何よりもそれら人間の進化にとって害でしかないはずの否定的感情を正当化することにつながってしまうわけです。しかし、例えばシューベルトという人間はまったくそういう部分がない芸術家です。彼の歌曲に使われる詩はこれも非常に多くがその否定的感情をおおいに正当化した、主観的作品なのですが、シューベルトはそれを使いながらまったくそこに自己同一化せずに曲を作る人間です。 また決定的な例を出すならレオナルド・ダ・ヴィンチですが、彼の芸術というのはまさにグルジェフが言うような、宇宙の法則を伝える手段としての客観芸術なわけです。 そう考えてみると、僕が芸術家として残りの人生で真剣に扱っていかなくてはならない作品というのが非常に限定されてくるわけです。つまりは芸術家として本気にならなくてはいけない、または解明しなくてはならない作品がこの認識を通して極端に減ってしまったわけなんですね。それはすばらしいことです。なぜなら偉大だと言われているそれぞれの作曲家、芸術家の作品をすべて解明するようなことは人生の短さを考えたらまったく不可能だからです。つまりこの認識のおかげでむしろやるべきことが限定されたし、残りの人生をかけて研究すべきものがはっきりしてきたということなんです。 もちろんこのままでは不十分です。それらを限定するにはまだまったく観察が足りていないですから。しかし基本姿勢は定まります。僕がプロとして演奏を続ける限りいろいろな作品を扱うことになるわけですが、それらに決して自己同一化しないということ、そのことによってそれら作品に含まれている多くの否定的感情や、主観的空想が見えてくるはずだと思うわけです。 しかしまったく油断していました。僕らが扱っているクラシック音楽というはその主要なもののほとんどが、西洋の文化があらゆる古代からの知恵を破壊し始めた19世紀から後のものなのです。その時代から現代にいたるまでにあらゆる空想の正当化、否定的感情の正当化が特に急速に始まったというのに、そのころ成立した芸術が客観的であるわけがないわけじゃないですか・・。 最後に但し書きをします。僕が言い切ったのは、芸術は人間の進化にとっては非常に害になるということなのですが、人間が進化を求めないのであれば、芸術はとてもすばらしいものでもあるんです。なぜなら人間は皆眠りたくてしょうがないし、否定的感情を正当化したくてしょうがないからです。 |


