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それでは前々回に書いた,観察によって最近しるようになった2つのことの残りの一つについて書こうと思います。
前回に書いたの自分の「感情センター」がまるで子供にように、責任を果たす能力ももっていず、問題を解決する方法すら知らないほど未発達であるという観察でしたが、今日書くのは「思考センター」のことでこれはこれで非常にろくでもない特徴を持っています。 これに気づいたのは疲労の研究をしていた先月です。いかにエネルギーを使うかということよりも、いかにエネルギーを節約できるかということに取り組んでいったほうがいいのではないかと思って、自分が普段いろいろな習慣から浪費しているエネルギーを継続して観察していったんですね。そのときに自分の体の習慣、姿勢、動作に使う力などいろいろなエネルギーの浪費を減らしてみたところ、それだけで自分の周りに静けさと呼べるようなものが漂うようになってきたようなことをいろいろな他人が感じるようになったということは以前にも書きましたが、自分の頭の中に起こっている連想を観察していくと、そのとりとめもない連想も考えられないほどのエネルギーを奪っているということに嫌というほど気づかされました。そうしてその観察を続けていたのですが、実は僕の行動そのものが、このとりとめもない連想の奴隷なのだということに気づいたんです。 僕は普段非常に落ち着いた人間だというふうに他人に見られています。それに僕自身も常にそういう役を演じて人と付き合ってきました。そして事実、人に比べてたいした事ではパニックにならないし、他人との関係の中でその場の状況に気づいているのは常に僕なので(これほど徹底的な観察者である僕としては当然なのかもしれませんが)、確かに僕はそういった落ち着いた人間なのでしょう。 しかし、自分の思考センターの常にし続けている連想を観察し、それによって実はただ動かされているだけの自分を見つめてみると、驚いたことに、僕は一時の間も落ち着いていることができない人間なのだということに気づいてしまったんです。 これはちょっと意味不明に思われるかもしれません。この完全な逆説が、両方とも正しいまま成立してしまうわけですから・・。 しかしこれは本当に言葉どおりにそうなのです。他人と関わっているときも、自分一人でいるときも、また寝ている時でさえ、この思考センターの連想が止まっていないわけで、そして僕は完全にこの連想の向くままにしか行動ができないように習慣づけられているので、どんな瞬間にも僕は一つのことに取り組み、物事を先に進めることができない状態にいます。 そのようにして最近、自分の本当に持っているキャラクターの一部に気づく事ができたのでした。それは「感情センター」はまるっきり子供のようで物事に対処する能力をまったくもっていず、「思考センター」はとりとめもない連想を連続して続けていて、一瞬たりとも停止することができず、この奴隷である自分は一瞬たりとも落ち着いて何かに取り組むことができない。 しかしこれを明らかに見れたことが自己知という意味で大きな先進になっていますし、これが見えた事でいったい自分が何をしなくてはいけないのかも、非常にクリアーになりつつあるんですよね。まったく別の弱点をもった、まったく別のものとしてこの思考センターと感情センターを捉えることで、自分のワーク自体もあいまいさが少しなくなるような気がしているのです。 それでは前回に書いたように、最近の観察によってあたらしく気づいたことについて書こうと思います。
グルジェフは常にわれわれが自分自身のことを一人の人間だと考えていることに問題があるということを繰り返し語っています。それは複数の私(あとで過去の記事からリンクをつくります)という概念や、単純にわれわれのそれぞれのセンターが独自に持っている知性という意味でも、また人格と本質という意味においても、われわれは決して一つの意思系統を持って動いている存在ではありません。しかしわれわれは常に自分を呼ぶ言葉、名前を一つしか持っていませんし、つまりそれが示している通り、われわれは自分は一人の人間であると感じているわけです。 ここまででもグルジェフにあまり接していない人にはまったく意味不明に思われることでしょう。でも、それはよしてして次に進もうと思います(もしこれについて興味があるかたは初期の記事から参照してください) さて、最近実はある事件を通していつも自分自身であると感じている自己と、自分の持っているまったく別の自己を別に感じる、又は意識次第では別々に観察できるのだということをはっきりと理解したんです。 これは単純にいって「思考センター」と「感情センター」のことです。いままでも書いていましたが、我々は思考センター主導で生きる人、感情センター主導の人、本能センター主導の人といろいろとタイプがあるのですが、それ以外の視点からの観察で、われわれのセンターは(現代の環境、社会、教育のおかげで)皆同じような割合で発達しているとも言う事ができます。 この視点から見れば例えば感情センターはわれわれ現代人にとってほとんどまったく発達することのないセンターです。以前にも触れたように真の感情と呼べる感情は「物質12」で働く感情であるのに対して、われわれは「物質24」で働く感情しか持っていませんし、その感情とはいらだち、恐怖、嫉妬、怒りなどの否定的感情のみであります。それに対して、本能、動作センターはもっとも発達しているセンターです。われわれはろくに自分の意思をもって考えることができませんが、動かそうと思えば、体だけはなんとか(それも習慣の中で学んだレパートリーの範囲内だけですが)意思の通りに動かす事ができるわけです。 その視点からみれば、われわれ通常の現代人が「自己」と感じているのは常に思考センターのことなんです。 そのことをよく理解したのもこの事件の観察を通してだったのですが、まあ、それでは事件について書きましょう。 ここのところクリスマスのおかげでコンサートがものすごく多いという事は以前にも書きましたが、先週はその疲れのピークに達していました。体がということじゃなくて、のどがえらくつかれていたんですね。その前の2週間の間に10回のコンサートをこなした後で、ドイツのほうで、まあ割と難しい曲、バッハのクリスマスオラトリオっていうのの仕事があったんです。曲は非常に大変なものにもかかわらず、やる場所がそれほど重要な町ではなかったことと、その他のコンサートで時間がなかったのもあって、ほとんど準備をせずに仕事にいくことになりました。そして練習は本番前に少し通した1回だけ。そんなかなり悪いことが重なった状態で本番を迎えました。 本番前に少し待ち時間があって黙って待っていたのですが、教会の中で少し寒かったのでしょう、コンサートが始まって第一声。声がガラガラで全然出なかったんです。この曲のテノールのソロはキリスト誕生の物語の語り手もかねていて、ちょこちょこ歌っては引っ込むのですが、もう最初から最後まで本当に苦労したし、そうとうめちゃくちゃになってしまったんですね。さて、そんな中でも自分は一応プロとして最善を尽くそうとするわけです。打つ手はいろいろあるので(歌い方を変えるとか、待っている間に少し調整をするとか)いろいろやるのですが「自分自身」が、または「自分の思考」がまったく冷静に物事に対処しているのに対して自分の別の部分「心」とでも呼びましょうか、その部分はもう完全に緊張しきってしまっているです。つまり感情センターですよね。これがまったく自分の動力になってくれない状態でした。コンサートをやっている長い時間の間ずっとだったので、実際これをよく観察する時間がありました。逆に言えば思考センター、又は自分の意識はほとんどまったく通常の状態であるというほど冷静だったからこそそれが観察できたのかもしれませんが、思考センターは非常に現実的で、勇敢であるというか、単純にできることをやろうとするのに対して、感情センターはまったくなすすべもなくただその状況を拒否するとでもいいましょうか。嫌だ、といってだだをこねている子供のようにすくんでしまっているんです。 そうして非常におもしろいことに気づいたんです。僕はおそらくこれらグルジェフの研究やいろいろな「知識」のせいだと思いますが、通常、非常に恐れることが少ない人間なんです。例えば非常に原始的な意味で、どんな人間にも傷つけられない、また最終的に殺されるようなところまで自分を傷つけることはできないというところから、見知らぬ他人を恐れませんし、暗闇とか奇妙な物音などに恐怖する事も恐ろしいほどまったくありません。また、どんなアクシデントがあっても最終的には死なないという自信のもとに心配をしませんし、生活、未来の不安も失う物がないだけに(w)全然しない自分なんです。まあ、これは普段からそういう自信のもとに生きているという事ではなくて、考えてみると自分はそういう感じだということなのですが、それに対して、自分の感情センター。というか今回この事件で観察したまったく別に機能している自分自身のことをそう名付ける事ができるならですが、この感情センターは、おかしいほどに臆病で、普段の生活でもまったく、現実的に何をしたら悪い状況を克服することができるのか、ということをまったく想像できないし、少しでも不快なものがあれば、ただそれを嫌がるだけで、まったくこれはだだをこねる子供(例えば学校に行きたくないとか)と同じ状況にいるのだ、ということに気付いてしまったんです。 それ以来約一週間がたちましたが、これを(この人をw)観察するほど、まったく自分(普段自分だと捉えてる自分自身(思考センター))と、この人(臆病な自己(感情センター))を同時に見ていると、完全に責任を持った大人と何にも対処することができない子供がいるかのようなんですね。この人(感情センター)に関しては普段は見えていませんが、何か不快なことが起こったとき、悪い状況に陥ると感じたとき、緊張が生じるときにだけ、いつもの自分とはまったく違う源泉をもつ「誰か」として観察するのことができます。おそらく何かホジティブなできごとでもこれを観察することができるはずだと思いますが、この感情センターは実に発達しておらず、セオリー通りほとんど(眠っているということの明らかな証である)否定的感情しかもっていないので、普通は一人でいじけていて、この否定的感情が発生したときにだけ、姿をあらわすようなのです。 そんな自分のまったく発達することができないでいる感情センターをまったく別の自分として見つけたことは非常に有益なことだったと思います。つまり、今はそれがわけて見えていることによって、自分の持っている欲求のうち、どの欲求がこの人(感情センター)が持っている欲求なのかということが判断できるからです。そこで今、一人で行えるワークが一つ増えることになりました。つまりはこの人(感情センター)の持っている子供じみた欲求をかなえないことによって、そしてそれを意図的に行なうことによって、そういった子供じみた欲求は持っていても役に立たないことをこの人(感情センター)に教えこんでいくことができるかもしれないということ、それは同時に完全なパートクドルグ義務にもなりますので、これだけでも大きくプラスになるだろうと考えられます。 そして目標になるのは、少なくともこの人(感情センター)がこういった馬鹿げた(無意味な、存在すらしない)恐怖を克服すること。それがもしかなえば、思考センターと感情センターという自分の中のかなり大きな部分が協力しあうような可能性も生まれるかもしれないということです(この部分はかなり空想的ですが)。 ここのところまた新たな段階にきたといいますか、新たなスタートをきる。又はいままで使っていた言葉で言うと新しいオクターブを始める必要があるという気がしてきました。
僕は常に、グルジェフのアイディアの中の「知識と存在の関係」というのをよく信じておりまして、かなり重要視しています。少しだけ説明をいれますと、知識と存在というのは同じだけ発達していなくては意味がないというもので、現代のわれわれの文化では知識の高さというのを非常に強く求めますが、存在の高さということについてあまり考えないどころか、その概念すらあまりないほど、それへの感覚が衰えています。しかし本当は存在が高くなければ、真に高い知識を得る事は不可能で、存在のない知識は単に「名前を知る」ということでしかなくなってしまうということなんですね。(詳しい説明は初期の頃の記事にあると思うので後ほど探してリンクを作ります。少々お待ちを) 僕が一度このブログをやめると宣言した今年の5月も、このブログの初期の頃の研究で得た知識に対して自分の存在を高めないことにには先に進めないと思ったからだったのでした。 その頃の僕のブログがある意味でグルジェフの理論の研究になっていたのは、その頃ウスペンスキーの「奇跡を求めて」を読みながらその内容を研究していたからだったんですよね(正直懐かしいです)。そうして再び始めた第2期は当初できるだけ知識の研究にならないように、実践のことを中心にして先に進もうとして、再びブログを開始したのでした。 今から考えるとその意図はうまく実現できたのではないかと思っております。そうして今自分が持っている知識を使いながらとにかく徹底して自己観察に取り組んできた訳です。 そして今、自分が新しい段階にいると思うのは、そういうことです、つまり、再びより広い知識、そして深い知識が必要であると考えているのです。 生意気にも自分の存在が知識に追いついたと言いたくはないのですが、今自分の自己観察の中で感じるのはむしろ自分の存在の弱さというよりも、知識の足りなさ、つまりは素材の少なさなんです。 実は僕にとってはその知識を増やすことは非常に努力が必要なことです。なぜなら僕はあまり頭を使って生きている人間ではないということもそうなのですが、僕がグルジェフに出会よりも前、人生を通して持っていた習慣にも依っているんです。僕はいつも知識は感覚を殺すと考えていました。本当にくだらないレベルのことなのですが、人は多くのことを聞き、読み、何か知ったつもりになってしまって、自分の感覚でそれを見る事がまったくできない、ということを日本の社会の中でいつも感じていたからでした。それは高校に入るころだったでしょうか。そんなことを思うようになってから僕はできうる限り情報を入れないことにしてずっと生きてきたのでした。つまり自分の感覚で思った事だけを信じる、自分で考えて理解したことだけを基準にして生きようと思ったんです。新しく吸収することももちろんそうですが、それまでに知っていた事、例えば教わった道徳観念にしても自分の考えで、自分の感覚でそれが正しいと思うまでは保留していましたし(もちろん自分で気づけた範囲のことだけですが)、だいたいそれが自分で納得いくところまで(だいたい22、23の頃まで)はずっとその姿勢でいろんなことを確認し続けていました。(w) そんな僕なので、新しい知識を入れてくるのはなかなか難しいのですが、今考えていることには、自分のこの思考センターをきっちり鍛え直すという意味でも非常に僕にとって有益であると思えてくるのです。 というのも最近の観察によって2つ非常に大きなことに気づいたからなんですね。 本当は今日はその2つのことのうちの一つについて書きたかったのですが、今日は時間がなくなってしまったのでまた次回にまわしたいと思います。 みなさまこんばんは。最近はどうもこのブログも活発になってきていて、対応するのがなかなか大変だという感じがしています。しかしこれも何かが動き出してきた兆候としてとらえている部分があります。つまりとてもうれしく思っています。
最近思うのは本当に自分のちからのなさ、といいますか、自分のやりたいことに本当に向かって行くにはエネルギーがあまりに足りない、にもかかわらずあまりに無駄なところにエネルギーが浪費されてしまうということです。 特にそう思うのは、このブログで知り合った方たちから聞いた事でもっと知りたいと思う事がいろいろあるなかで、コンサート続きで忙しくブログに書けなかったテーマで、しっかり考察したいこともかなりたまっているし(やはりブログに書くと考察がよく進むんです)、僕は音楽家としてまだまだ知りたい事、自分の中に消化したい事も山ほどあるんです。それに加えて仕事(コンサート)、声の調整、それにこれからよりよい仕事を見つけるための戦略、それからフランス語、などなど、やりたい事、というよりは自分が目標に向かうためにやるべき事は際限なくあるのに、僕が生活の中でできることといったらそのごくごくほんの一部だけで、しかも自分が忙しさや、外からのストレスでばらばらになってしまう時もよくありますから、その一部すらもまともに進んでいかないわけです。 そういう意味で僕は毎日生活の中で自分に負け続けて生きているような気持ちでいます。 なぜ今日はみなさんに語りかける感じで話を始めたかと申しますと、最近惑星の影響に関するテーマからチャクラとの対応の話がコメント中で始まっていて、僕はチャクラということに関しては何も知らないのですが(僕はグルジェフ以外のことは本当に何も知りません)、一つだけそれに関係して気になることがあったので、みなさんに質問するようなかたちでそのことを書いてみようと思ったからです。 これはいつも時期があるのですが、僕はたまに自分の感情の動きとはまったく関係ない時に胸の部分(ちょうど胸骨の一番下のところ、だいたいミゾオチの部分5センチぐらいの範囲でしょうか)が熱いと感じる時があるんです。こうして書いている今も実はこの熱さを感じながら書いています。 これが初めて現れたのは2年ほど前でしょうか。道を歩いているときにいきなり胸のその部分が熱いと感じたのですね。それはほんの一瞬で、1秒もないぐらいでした。 いろいろな感情で(緊張とか、恋とか)胸がざわざわする感じとかはもちろんよくあるのですが、それとは全然違う感じで、「熱い」と感じて、範囲も緊張などで感じる物よりもだいぶ小さいものです。そのとき本当に初めてそういう感覚を自分の胸に持ったのですが、実はそのころある女の子に熱烈に恋をされていて、それを感じた瞬間、自動的にその子の事を考えたのでした。「ふーむ、あいつまた俺のこと思ってるのかなぁ」ってな感じですw。その頃はだいぶワークなどを通していろいろなことに敏感になり始めていたので、そういった他人の熱烈な思いを自分の体に感じるとかそういうこともあるのかもしれないなぁ、となんとなく思ったんですね。 その時期が過ぎて、約一年後だと思いますが、またその熱さを胸に感じる時期がありました。実はその時もある女性に熱烈に恋をされていて、それが最初に起こった時は「あ、あいつだな」「また始まったなぁ」って自動的に考えていました。それはいつも突然熱さを感じて、しばらくするとなくなっているのですが、気づくとまた熱くなっているんですね。それがある時期はおそらく1日に6、7回ぐらいでしょうか、自分の意識の中で胸が熱いと感じるようになっています。 しかし、そのときに少しなんか違うなぁと思う事があったのですが、その熱烈に恋された女性と付き合うようになってしばらくして、けんかをしている時期がありました。そのときにもまた胸の熱さを感じていたんですね。それで初めておかしい、何か違うことなのかなぁというアイディアが生まれました。それからまた一年弱がたって、今なのですが、実はこの1ヶ月ほどでしょうか、今回はもっと長い間、もっと頻繁に胸の熱さを感じているんです。今、この記事を書き始める前は感じていませんでしたが、これを書き始めてから今までずっと熱さを感じたままで書いております。そして今は特別誰にも熱烈に恋されたりしてないと思うんですよ(もしかしたら密かに僕のこと想っている人がいるのかもしれないですがww)。 だから今回はこれっていうのは何らかのエネルギーなのじゃないかという気がしてきたんですね。前にも書いたように今はコンサートがすごく多いので、コンサートの間にもこの熱さを感じていることがよくありました。そんなときにこの熱さを利用して歌を歌ってみようかなんて考えたりもしていました。そこからお客さんに向けてエネルギーを放つようなイメージを持っていました。 そんなことがまあ、僕には起こるのですが、ちょうど惑星との関係のことでみなさんがチャクラのことを話始めたので、なんとなくこれはもしかしてチャクラと関係があるのではないか?という気がしてきたのでした。 一応これには、チャクラと惑星のことを話すためのスレッドを立てるような目的もあったのですが(w)、もしみなさん何か思い当たるようなことがあったら是非教えてください。 きのうは恥ずかしい事に、話の結論を書かないまま「機械性の観察」の話にいってしまい、その結果まったく論点が伝わらない記事を書いてしまいました。
てなわけで、今日は昨日の記事で言いたかった結論を書きたいと思います。 昨日結局書きたかったのは、まったく外的状況が変わらないのに、自分の心だけがまったくネガティブにしか作用しなくなるときがときどきやってくるということ、そして、その間は非常にワークに(というと語弊があるのですが、言葉がこれしかないのでこう書きます 本来僕のしていることはワークではなく、準備的ワークのようなものです)集中することが難しくなる、というか周りの影響に振り回されるだけで、自分のエネルギーを意図的に向かって行きたい方向に使うことができなくなってくるわけです。これが危険なのはそれに気づかないでいると数ヶ月でも、半年でも同じところをぐるぐると回るだけで、自分は何かワークのようなものをしているようなつもりになってしまうことです。 そしてこのクリスマスで忙しくなり始めた1週間が僕には非常につらい時期だったんですね。僕の心があらゆるネガティブな現象、ネガティブな感情を呼んできてしまう。そして簡単にそれに振り回されてしまってきたわけです。 ここでもう一つだけ脱線をすれば、本来ここで僕が「心」と言っていることも一体これがなんなのかは全然定義できないんですよね。というのもこれは思考センターかもしれないし、感情センターかもしれないし、本能センターかもしれないわけです。そしてよく観察してみても、これらの不快な感覚、感情、思考の原因はどこにあるのか、今の段階では全然わからないのです。例を挙げれば、ある不快感は感情センターのような気がしても、思考センターもそこに同調するようにして、愚痴や言い訳、自己正当化を次々にやっているし、その時本能センターが感じている外からの印象も非常にデプレッシブだったりするわけで、いったいどこからその連動が始まっているのか、全然わからないのです。 さて、そんな難しい状況の中でそれに今回は気づいたうえで、自己観察だけは坦々と続けていったのですが、昨日の時点を境にあらゆることがネガティブな状態になっていたものが、いきなりほとんどすべてポジティブにひっくりがえってしまったわけです。そしてこれは明らかに自分の努力の結果とかそういう種類のことではなく、単純にそういう時が来て、そういうふうになったということなのです。 以前にも「惑星の影響としか思えない」というようなことを何度か書いたのですが、今回は自己観察をしっかり続けていたために、それは確信に近い物があるんですね。いや、それは惑星の影響であるという確信ではなく、自分の力とは関係なく、目に見える意味での外からの影響とも全く関係ないところで、そういう変化が勝手に自分の中に起こっているということの確信なんです(ようやく結論が言えました^^;)。 そしてそれがいったいなんなのかということを思ったときに、まあグルジェフの理論の中から、また自分の知識の範囲の中から探してくれば、それは「惑星の影響」しか思い当たる事がないということなんです。 そしてそこまで観察によって確信がでてきたら、自分は、または我々人間は本当にそういった目に見えない影響に完全に支配されていて、まったくそれに抵抗するすべをもっていないのだ、ということも本当に確信をもって、明らかに見えてくる。または、その意味するところが本当に理解できてきたわけです(僕が唯一抵抗できたのは、自己観察を続けることだけです)。 そして、昨日いきなり話をとばして書いてしまった「人間の機械性」ということが「事実」として見えてくるというような気がした訳です。それは、あの時の僕には少なくとも非常に明らかな事実でした。 さて、そんなわけで実は数日前にここでいつもお世話になっている、占いの専門家でもあるやわたうまさんに少しだけホロスコープの見かたを教えていただいたんです(やわたうまさん、ありがとうございました)。こういう自己観察で明らかに見ている(と自分では思っている)影響の変化がもしもホロスコープに何か現れているのが見れるなら、いつかそれがいったい何の影響から来ているのかわかるかもしれないと思ったからです。 てなわけで、昨日家に帰ってきて早速ホロスコープを見てみたのですが、唯一やわたうまさんから教えていただいた自分の生まれた時の月と現在の月の位置との関係はぴったり180°でして、実は感情的には一番影響を受け易いときだったみたいです。 もちろんそう一朝一夕にいくわけはないので、これから少しずつホロスコープの見方を学びつつ、自己観察、そして準備的なワークを続けていこうかと思っているところです。 追記 こうして自分では確信していることも、もしかしたら読者のみなさんにはまったくなぜそう確信できるのか伝わらないのかもしれないという気がしながら書いておりました。また、目に見えない影響という意味で僕は「惑星の影響」しか思いつかなかったわけですが、もし読者のみなさんで、アイディアがありましたら、教えてくれるとありがたいです。 みなさんいつもありがとうございます。 けっこう長い間すっかり眠ってしまっていた。と、今日思いました。
このブログでも少し書いたような気がしますが、ちょうど10日ぐらい前からでしょうか、突然自分の心の状態といいますか、いろんなことが難しくなってきたんですね。私生活のほうはというと、今はクリスマスの時期なので、非常にコンサートが多いのです。そしてこういうクリスマスコンサートは普通”どさまわり”のようなコンサートのほうが多くて、とにかく量をこなすようなことになっている、つまり毎日毎日コンサートだらけで(一日2回とかもよくあります)非常に忙しいわけですが、驚くほどに、ちょうどこの1週間は完全にこれらの忙しさにふりまわされ、心を奪われ、不快な感情につかり、思考センターまでもがその不快な感情をたっぷり反芻して、まったく自動的にただ過ぎ去ってしまいました。 それは以前に書いたように、まったく自分の意志とは関係なくどうしても前に進む事ができなくなることが、”起こる”わけです。それはいったいなんなのかと考えたときに、惑星の影響としか自分には考えられないほど、まったく状況がかわらず、目に見える外からの影響も特別以前より難しい状況があるわけでもないのに、そういうことが起こるわけです。そうこうしていた1週間も自分では相当に集中力を使って自己観察を続けていましたし、そのおかげでまわりがいぶかしく思ったほどだったので、自分の”意思”という意味では、ほとんど100パーセントワークに向いていたわけです。それでも眠りは”起こる”。これをいったいどう回避できるのだろうかということをどうにか研究していきたいと思っているところなのです。 しかし今日になってなぜいきなり、自分がはっきりと眠っていたということを認識したのかというと、それはもちろん目覚めたからなんですよね。まあ、こういう言い方をすると大げさになってしまいますが、今日になって突然、この一週間の自分の状態がいかなるものだったかをよく理解したし、今日になって突然、自分の心が受け取る物が全然違うのです。それは今日一日のあらゆる瞬間でつぎつぎに今までの雲が晴れて行くような感じに”目が覚めて”くるわけです。これは今日時間があいてゆっくりできたからとかでは全然ありません。今日も2回コンサートがあったし、その移動の間、待ち時間、十分に不快なことばかり起こっているという、いままでこの1週間と外的状況はまったく同じなんです。 ただ、こうしてまったく自分の心の状態が違う、自分が外から自分に取り込んでくる印象が全然違うのだということも、自己観察を続けていたからはっきりと気づけることだと思われます。その点が唯一、自分が自動的にならなかった最後の砦で、そのおかげでなんとか今のところにたどりつけたのだと思わなくもないです。 そんな今日僕が観察していたのは、やはり人間の機械性です。今日やっていたコンサートはマネージメントやアシスタントを含めて20人足らずの人間が関わっていたのですが、それぞれの人間が長い事(リハーサルを含めて、ずっとツアーをやっているのでほとんど一緒に行動することになります)一緒にいると、もちろんいろいろな問題が起こってくる訳です。積極的に問題の種になる人間や、ある人物とだけ問題がある人、ほとんどの場合問題を解決するきっかけになってくれる人、それから単にやじうまのように茶化していながら、まるで誰かをいたわっているようなつもりになっている人間とか、まあいろいろいるわけですw。 そしてそれらの人間がすべて、自分の意思で動いているのではないということをはっきりと見たとき、そこにいるすべての人間が”犠牲者”なのだということを思ったのです。そのにいる人間誰一人としてそこに”起こった”こと以外のことをする可能性をもっていないし、こういう種類の人間と、こういう期間の間一緒に、こういうことをする状況の中では、必ずこれらの事が起こった訳です。 誰一人意識を持っていない機械であるということが明らかに見えると、そこで積極的に問題を起こし、誰かに非常に不快な思いをさせる人間も完全な犠牲者だということが見えてくる訳です。なんらかの影響に抵抗できず、ただそうさせられているだけなんですね。その人にはそうする以外の選択肢はまったくないわけです。それは環境、今までの記憶や、遺伝してもらってきている物に完全に支配された奴隷の姿で、そこに積極的な意思はまったく入り込んでいません。 そういうものを認識したとたんに僕の心はまるっきり軽くなってしまったのでした。じゃあ、自分はいったい何のために生きているんだ?とすら思いました。 これらに振り回されるのをやめたとき、自分はいままでこれらに振り回されたくないがためだけに生きていたような物だという認識が残っていたんですね。不快になりたくない。傷つけられたくない。人から愛されていたい。そんな心です。それがなかったらあらゆる自分の成功欲だとか金銭欲もまったく意味合いが違ってきてしまいます。僕は今日、ふとそんな心の状態に入り込んだ瞬間を体験しました。 それらすべてが無意味なのだったら、いったい自分は何のために生きようか。 そう思ったときに、何か自分の生きている本当の目的と何となく神聖な思い、それから死への恐怖が同時に起こったのでした。 前回、惑星の影響なのか、どうしても自分がワークに集中できる時といろいろな方向に心がうばわれてただ単に生きてしまう時との波があるということについて書きました。
実はこの2日間この落ちる波のようなことが起こりました。これはまさに自分にはまったく抵抗できない何かで、どうしてもどこかに向かって行く”意思”みたいなものが生まれなくなってしまうようなことが起こるのです。ただ、今回よかったのは自分がそのことに”気づいていた”ことだと思います。結局こういった波の低下をなんとかやり過ごすのも自分がそこに意識的になれているのかどうかにかかっているのだということがなんとなく理解できたように思います。 というのも、自分の心がワークから離れだす、つまり集中してある方向に向かって行けなくなってしまうのは、気づかないうちにそうなり、振り返ってみて1ヶ月とかそこらの間どこにも向かっていなかった、と気づいたりするからです。それは結構恐ろしいもので、自分では何かをやっているようでも、まったく外的なものに振り回されいるだけで、その振り回されている状態を自分ではワークをしているようなつもりになってしまうのです。その結果はもちろん同じところをぐるぐると回る事になり、エネルギーだけをどんどん消費してしまいます。 ここのところの疲労の研究で、自分がいかにして機械的にエネルギーを浪費しているのか、ということを非常によく理解しました。これはまさに恐ろしいことなのですが、自分が朝起きてから寝るまでに使えるエネルギーを一つとして考えると、朝起きた瞬間からあらゆる空想(思考センター)や、恐怖(感情センター)が目に留まるものから次々に起こり、それを止めることができない。自分の姿勢(動作センター)は全く意味もなく筋肉を緊張させてどんどんエネルギーを消費してしまいます。それは意識的にどこかにエネルギーを使うことを不可能にさせるに十分なもので、単なる習慣から自分が食事と睡眠によって作り出したエネルギーをすべて無駄に使い切ってしまうのがわれわれの生活と言えるでしょう。 ただ、これをしっかりと見つけることができたことで、それなりに面白い結果もありました。というのも、自分がどうエネルギーを浪費しているかがわかってきたらそれを防ぐように行動も変化せざるを得なかったからです。とくに変化したのは慎重に、また静かに行動するようになったことだと思います。それは他人と関わっているときにはなかなか難しいですが、特に家に帰って一人の時間が持てたときには、今はかなり静かになっていますね。これはびっくりすることにほんの数日で部屋の雰囲気そのものががらっと変化したほどでした。部屋が「恐ろしいほど」静かになったんです。なんというか無駄なエネルギーを浪費しないようにして、エネルギーを意図的に何かをしようと思ったことだけに使ってみたことで、部屋そのものの雰囲気が”集中した”雰囲気になってしまったんですね。そうすると、この部屋に戻ってきただけで、何か集中した気分になるというほど、この磁場は自分のことを助けてくれるみたいです。 2日ほど前に、友人が二人訪ねてきたのですが、この2人の友人もこのことに気づいたようです。この2人はまったくワークとかと関わりのない普通の友人なのですが、面白いことに、わりと落ち着きのないというか、よくしゃべって人を楽しませる方の友人は、この部屋に入ったとたんになぜかあまりしゃべれなくなって、むしろ居心地が悪いと感じていたようです。最初のうちは「この部屋は本当に異常なほど静かだね」「街のど真ん中なのにこんなに静かなんてすごいね」というふうに話していたのですが、そうこうするうちにこの部屋が普通の部屋に戻ったんですね。最後にはそういった居心地の悪さ(その友人にとっての)は消えて普通に話をしていたのですが、彼らが帰った後には本当にこの部屋そのものががちゃがちゃしたものに戻っていたんですね。少しもったいないような気持ちにもなったのですが、一晩あけて次の日になったら部屋はまた静けさを取り戻しました。 人間の心がその場所の持つ雰囲気を変えるというようなことは、なんとなく想像できることだったのですが、これほど大きく感じる(他人がそこに影響をうけるほど)ことを体験したのはとても面白いことでした。 |


