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ご無沙汰しておりました。だらだら過ごしてしまった2週間を過ぎて、また移動だったのですが、やはりびっしり引き締まりますね。今は非常にすっきりした気分で、しっかりゴールを見つめつつ生きているような気がします。僕にはおそらくのんびり生きる事は向いていないのでしょうね。
今考えている事は非常に単純なことです。 今になってようやく日常生活の中でパートクドルグ義務を遂行するということはどういうことなのかが非常によくわかったので、ただただこれを実践する事以外には特別何かを研究をする必要なんて全然ないなぁと思っております。 最近理解した事というのは、結局パートクドルグ義務というのは日常のあらゆる瞬間に「自分のしたくない」と思う事をすることです。こんなに単純なことになぜ今まで気付けなかったのか、まったく不思議に思う部分もあるのですが、実は答えは簡単です。それは、自分のしたくないことをする必要がどうしてもある、ということを受け入れたくないために、それを理解したくなかっただけなのでしょう。 というわけで、簡単なことだと書いたのですが、これには結構徹底した自己観察が不可欠だということが言えると思います。 というのも自分のことを観察することができないと、自分がどの瞬間に何を嫌がっているのかがわからない、つまり意識できていないからです。自己観察なしで意識の中に見えてくるのは、今あげたようなものを含めて、あらゆる言い訳というフィルターを通り抜けた感覚のみですから、これではどうしたって、最も必要としているワークに限ってさけてしまうようになってしまうのです。 そしてこの自己観察はしっかりと思考センター、感情センター、本能・動作センターの機能を区別して観察されたものでなくてはなりません。なぜなら自分のどの部分が、ある瞬間に、何を嫌がっているのかがわかることが、非常に重要だからです。 さて、こういう自己観察の土台が整えば、意図的に(これが非常に重要です)自分の嫌がっていることを行う、または逆に、自分のやりたがっている事をやらないことで、日常の中で常にパートクドルグ義務を行い続けることは可能だというのが最近わかってきたことです。 そうしてパートクドルグ義務をすると、又は単純に、自分の本当に嫌がっている事を意図的に行うと、自分の中にある不思議な感覚を感じます。それは僕の場合は多くの場合「脳」の部分に何かざわざわとした感覚を持つのですが、人に依って、また場合によっては体のいろいろな部分で感じることもあると思います。 僕の考えでは、その瞬間にグルジェフの言う「高次の物資」と呼ばれるようなものが生産されているのだと考えられるのです。この高次の物質はおそらくいろいろな種類があるはずですが、その種類を分けることはここでは重要ではないでしょう。これらは自己を磁化することに使われるそうで、この磁化現象によって、いろいろな自分に必要なものを引きつけることにもつながっていくようです(これは自分の放出している振動にかかわることですよね)。それからこの物質によって、思考センターから、又は自分の「理解」から感情センターをコントロールすることも可能にする(これは御者が馬を操るための「手綱」に例えられています)などいろいろな機能がありますが、われわれがこの物質をたくさん溜め込んで、この物質で身体をいっぱいいっぱいにしてしまうと、これが自然界で起こる事と同じように、結晶化を始めるのだそうで(食塩水が飽和料を越えると結晶化するのと同じです)、そうするとこの高次の物質は大きなかたまりとして自分の中に残りますので、そう簡単には失われることはなくなるそうです。この結晶化が起こる事がおそらく第2の体を形成する瞬間なのだと思うのですね。 まあ、逆に言うとですね。この高次の物質というのは結晶化する前は、もし作り出したとしても非常に簡単に失われてしまうのです。これはこのブログでもずいぶん前に研究しました「3層の工場」という概念を使えばわかり易いのですが、こういった高次の物質は非常に燃えやすいという特質を持っているので、ちょっとしたことで引火するし、引火すれば一瞬のうちに消え去ってしまうようなものなのです。 これは例えば怒りをもったりなんてしたら本当に一日分ためた高次物質は一瞬にしてすべて無駄に燃え尽きてしまうようです。またいらいらしたりとか、空想にひたったりとかの実際にすごくエネルギーを浪費してしまうような行為でも、簡単に引火して消えてしまうのがこの高次の物質です。 そんなふうに、この物質はためることに意義があって、これがたまればたまるほど、自分の中には確固たる自己が作られているようです。これをためる事に成功している時は(つまりある程度の期間にわたってパートクドルグ義務を続け、怒りなどを起こさずに、つまりそれを浪費しないでいられる時は)事実、他人の不快な発言など、いろいろな影響から独立していることが、普段よりかなりに楽にできるような気がします。まるで自分が慎重に貯めてきた高次の物質が自分自身を護ってくれるというぐらいの感じなんです。 さあ、そんな感じの高次の物質なのですが(これは僕の観察による感覚でものを言っているだけですから、これがグルジェフの言っている高次の物質と同じ物であるかは証明できないのですが)、ここまで理解してきて、それにしたがって行動していると、実に自分の行う行動はまるで”すばらしい仏教徒”のような感じになってくるのですよw。 結局人の嫌がる事をまったく文句も言わずせっせとやることになりますし、いらいらしたり、怒ったりで周りを嫌な気部にさせたりもだいぶ少なくて澄みますし、そんなわけで笑顔も絶やさないですし、実に行動そのものが落ち着いて来ますからね。 そしてこうして結晶化を目指してためていく「高次の物質」がなんなのかがわかってきますと、これは実に日本の仏教的文化から生まれた「徳」という概念のことなのではないかという気がしてくるんです。よく「徳の高い人」とか言うあの「徳」です。 ヨーロッパには実はこの「徳」にあたる言葉はないんです。「徳」は英語でvertue、ドイツ語でTugend、フランス語でvertuと訳されていますが、これは「美徳」のことで日本でいう「徳」とは全然違う意味なんですよね。 まあ、そんな「徳」ですが、これは実にパートクドルグ義務で、つまり意図的に苦悩することで貯める事ができますよ。というのが、僕の新しい理解でした。 (まったくだんだんはせいん教のようになってきましたねw、実は僕はすでに教祖とかになれてしまうかもしれませんよw。絶対にならないから安心してくださいねw) P.S. このようにしてパートクドルグ義務を遂行する事は意外と単純だというふうに書きましたが、実はこれはかなりアドヴァンスです。というのも、いままでこのブログで研究してきたようなことの理解なしに、またある程度の自己観察なしに、ただ意識的に自分の嫌な事をやろうとしても、おそらくあまり効果は期待できないと思うのです。それは結局、しっかりした「理解」なしにやると、その行為が真に「意図的」でありえないからです。 というわけで、もしこれがしたいなぁと思われる方がいらっしゃいましたら(いや、本当にもしもいるのならですが)、やはりまずは自己観察を通していろいろなことの「理解」から徹底的に始めることをおすすめします。 これは少しアドヴァンスなので、「利他的な業」ですが、意識的に利己的になれない人には「利他的」にはなりようがないというのが、グルジェフの言っている事で、僕も本当にそう思うのです。そんなわけで、まずは意図的かつ「利己的な業」である「自己観察」で理解を得る事が非常に重要だと思います。 ここのところ、いろいろなプロジェクトで忙しい時期が終わりまして、ある意味では落ち着いていろいろなことができるようになっております。そうしてみますと、むしろなかなか自分を保っていることが難しい、というか自分のゴールに向かって前に進む力のようなものが、危機感でいっぱいだった1週間前に比べたらずっと弱いのですよね。そうすると、自己自身もつまり身体的にも、精神的にもそして自己観察という意味においてもずっと力が弱い、いろいろなことが「まあ、このぐらいはいいか」というふうになってしまうし、実際、危機のおとずれようのない日常では、まあ何に関しても本当に「このぐらいでいい」わけです。
結局そういう意味で、自分にせまる危機感、強烈な不快感、しかし自分の目標のためにやりきらねばならないという状況、なんとしてもそこに存在し続けていなくてはならない状況というものがいかに自分を助けていたか、そして本当の意味で前に進むためにはどれほどその「険しさ」が必要なのかということを考えさせられています。 結局グルジェフが言うようにわれわれ人間は自分をコントロールするような力は一切持っていないので、ある状況の中に飛び込んで行く、決して自己を沈静化させない厳しいところに身をおかないと、どうしようもない、また、逆に言えばそういう状況を作り出してその中に居続けることでワークをする可能性というのが作れるのかもしれないということだと思うのです。 そんな中で全然関係ない話になるのですが、僕のすごく仲良くしている友人の中にフランス人のダイバーがいます。彼は本当の専門家で、チャンピオンとかではありませんが、フランスのダイビング会の中心にいて活動をしている人です。そんな彼と今日たまたま話の流れからダイビングの大会の話になったんですね。フランスのダイバーって言ったら例の有名なリュック・ベッソンの「グラン・ブルー」があるじゃないですか。あれに出てくるジャックマイヨールとかあそこに表現されているような世界が彼のいる世界なんですよね。 昔は彼も競技会などに参加していたそうですが、彼はジャックマイヨールがやっていたような、100m以上を6分とかかけて、酸素なしのマスクなしでただ潜るというような種目にはでていなかったそうです。ただ、彼が出ていた種目で2mぐらいのところにもぐってまったく動かずただ息を止めているという種目があるらしいですが、彼は4分53秒が記録でそれ以上はできなかったということです。とはいえその記録だって十分すごいように思いますが、彼の友人でもある世界記録の保持者は7分間といいますから、それに比べたらまあ全然、ってことなのでしょう。 そこで聞いたんですけどね、有名なジャックマイヨールのやっていた競技は機械を使ってすごいスピードで100mとかまで潜りますが、帰りは自分で泳いで上に上がってくる訳じゃないですか。で、動くのと止まっているのとやっぱり違う物なのかということを尋ねてみたんです。 彼が言うにはそりゃまあ、全然違うということなのですが、動くとかどうかとかそんな世界ではなくて、息を止めて長時間潜っていると、一瞬何かを考えたり、ほんのちょっとした思考の変化があっただけで30秒は記録が短くなってしまうというのですよ!興味深いと思いませんか?? 動きたいとか思ったり、動いていることを想像したりするだけでもだめなんだそうなんです。 さらにですね、例えば記録について考えたりとか、なんかの不安、まあ自尊心うや虚栄心からの不安とかでてきたとしたらもうおしまいで、そのあと20秒もすれば苦しくなって上に上がらざるおえなくなるというんですよね。 いやー、これで僕が何を思ったのかといいますと、以前にエネルギーをいかに浪費しないで目的に使うかということを考察していたときに、思考センターがのべつまくなしにやっている連想がどれほどエネルギーの浪費につながるのかということを観察していたわけですが、ここにこの顕著な例があるではないですか!そして不安が出ようものならその時点でもう耐えていられなくなるというのも面白いと思うのは、そっちは感情センターの働きと言えるように思うのですが、感情センターがちょっとでも否定的に働こうものならもう貯めようとしたエネルギーは全部一気に垂れ流されてしまうということなのではないでしょうか。 まあ今日はそんなわけで、友人の興味深い話を聞いたという話でした。 クリスマスの前だったかその辺りに、今の自分に「知識」の不足を感じるため、今までして来たことよりももっと多くのものを知って行くことに力を使うべきであるというようなことを書きました(参照)。しかしその後いろいろなツアーを重ねてワークに取り組んでいくなかにまったく違う考え方を持つようになりました。
それはもちろん今までにもかなり書いて来た、「未発達の感情センター」の問題です。僕はここのところのツアーでの歌うことを含めたいろいろな実験、その経験から僕の感情センターが他のセンターに比べてものすごく幼稚であるということを痛いほど理解しました(これは文字通り痛い思いをしてきました)。 自分の感情センターとはいったい何なのか、誰なのかということを理解してくると、この感情センターは僕の中枢部(センター)の中で唯一まったくコントロールが不可能なセンターであるということが嫌というほどわかってきました。というよりはなぜ今までにそんなことに気付いていなかったのかと思えるほどです。 思考や身体はいつでも意識しようと思えば意識できる、また(それがたとえ不完全だとしても)使おうと思えば使えるのに対して、感情センターに関してそれがいったいどこにあるのかさえ、普通の状態では感じる事ができない、そして何か不快なことが起こったとき、また心地よいことが起こったときにのみ(そのときたまたま自己観察を続けていれば)その存在を意識する事ができる程度なわけです。 その様にして何かが起こった時に感情センターが反応を起こすわけですが、その反応は絶対にコントロールすることができません。押し込める、見てみぬふりをするということは可能ですがコントロールは絶対にできないわけです。また逆に(それこそが僕のできるようになりたいことなのですが)必要に応じて自分の感情センターを活動的な状態にもってくるということもまったく不可能です。 そんなふうに、自分の持っているセンターの中で、この感情センターに限っていえば、完全に起こるようにしか起こらない。ある意味、ここは自分の内部の3分の一のぽっかり空いた穴であるかのごとく、自分の意思は一切介在することができないところなのです。 そんな感情センターの弱さをもったままでは、いかなる知識も偏った形でしか入ってこないではないか。というのが今の僕の考えです。 グルジェフは3つのセンターが平均的に発達している人だけを「人間」と呼ぶ事ができると言っています。そしてあらゆる外界からの印象を受け取ることにしても、この3つのセンターが同じように発達していなくては、偏った部分でしか印象を受け取る事ができないので、それは常に不完全な、むしろ有害ですらある印象しか受け入れることができないということを説明しています。それならば、もちろん今自分が無理に得ようとする「知識」などもほとんどは思考センターの中に入ってくる「情報」以上にはなれず、ほんの少しそこに身体感覚の印象が伴う程度でしかあり得ないでしょう。あらゆる情報、印象は、常に3つのセンターがそれぞれを観察し合う状態から受け取らなくては、その真実を知る事がはできないだけでなく、それを本当に使用可能であるように記憶にとどめておく事はできないということなので、今は少なくともこの圧倒的に未発達な感情センターをなんとかしないと何も起こらないだろうと考えなおしたのです。 ああ、しかしこの感情センターをまともな状態までもってくるのにどれほど時間がかかることでしょう。おそらくこれは1年2年でなんとかなるようなものではないんです。もしかしたら2年ほど死ぬ気になって努力を続ければ(本当に続けられれば)なんとか感情センターを成長させる”方法”を見つけることができるぐらいなのではないでしょうか。そしてそれが実際に成長するにはその後じっくり時間をかけなくては成長してはくれない筈なのです。注) こんな風にして僕の人生は過ぎ去って行ってしまうと本当に思ってます。いくら全力をもって先に進もうと思っても、まったく自分の人生の長さで自分の必要と思われることをやりきることができそうにないではないですか。 注)というのも、グルジェフはこの感情センターに関しては、長期間をかけなくてはなかなか成長してくれないセンターであるということを説明しているんですよね。そして僕の経験から、自分の「考え方」というのは新しい理解を得ることによってかなり簡単に変えられることに対して、感情センターのあり方はよほどの苦痛が長期間かさなったとしても、そう容易には変わってくれないということを良く知っているんです。 僕が師と出会いワークを始めた8年ほど前から、僕と師とのワークというのは僕の過去に持っていた習慣的なあらゆるものを破壊することに重点が置かれていました。それは身体的な習慣も含めて、思考、感情の習慣を師はあらゆる手を使ってことごとく破壊してくれました(その手というのは師からの意図的なあらゆる種類の不快なショックでした)。そしてその破壊したところからすべてをゼロから積み上げ直していったわけなのですが、その中で思考センターに関わることというのは、一番簡単に破壊でき、それは積み上げるごとにいちいち破壊され新しい物に作り変えるという作業をおそらく2ヶ月に一回ぐらいの割合で次々に行っていたように思います、それに対して身体的な習慣を一番最初に破壊できるようになったのは、ワークを始めたから3年ほど立ってからのことだったように思われます。しかし、それに関してはその後順番にですが、だんだんに変化することが可能でした。それに対して感情センターは、本当に長年の間非常につらい苦痛を体験し続けていたにも関わらず、最初にその習慣が変わり始める兆候が見えたのがほんの1年半とか前で、その時はすでに師と別れを告げる直前でした。それほどに感情センターの習慣のというのは頑固に自分の世界に閉じこもっているのだということを、体験から理解しているのです。 P.S. ついでにちょっと軽い話を書きますが、 私たち通常の人間の特徴はいろいろあると思うのですが、その特徴の一つに「目的を持つ事ができない」というのかあると思います。これをテーマにするのはもちろんこれが見逃してはならない特徴の一つだと考えるからです。
これはあらゆるところから起こるのですが、まず、我々は「自分が何なのか」を理解していません。 つまり我々の生は一体なんなのか、宇宙と地球と人類と自分の知人たちとの関係の中で「自分」という存在は一体なんなのか、「自分」が存在する理由がなんなのかそういうことが理解できないのですから、自分の生の目的ももちろん明確につかむ事ができません。 まず、一番大きいところから話始めてしまったので、みもふたもない話になってしまいそうですねww。 しかし、これは自分がなんなのかということを本当に理解するよりも前に、自分の生の目的というのを少しずつ方向づけ、何かに向かい始めることは可能です。というよりはそれが唯一、自分の生の意味を「知る」ことができるための道の始まりですらあるかもしれません。 しかし、僕が今問題にしたいと思っていることの主題は次にあります。 この方向付けが決まり始めて、少なくとも自分の生に目的に近いものが出始めても、それを覚えておく事が全然できないのです。この問題はあらゆるところに見る事ができます。 我々はあらゆる種類の目的を、あらゆる瞬間に忘れ、常に何か別の事をしている生物です。 小さいところから例を挙げていくと、プログがあります。 誰かがブログを始めるには何らかの目的があった筈だと思います。しかしブログの運営はいつしかまったく別の目的にすりかわります。それは「アクセス数を上げる」という(絶対的にはまったく意味のもちようのない)目的になったり、訪れる人たちの中で、わきあいあいとすることが目的になったり、またその人たちを言い負かすことが目的になったり、その人たちとの関係がうまくいき続けることが目的になったり(w)。そんなことです。 たまに、暇をつぶすという目的で始まるブログがあると思うのですが、こういう目的のブログは実際結構長い事その目的を忘れずに進む可能性が一番高いと思われます(w)。 こういう視点からいろいろなブログを見ますと、またいろいろなことが見えてくるような気がします(自分のものもですけれど)。 まあ、例を次々に挙げてみましょう。 例えば仕事です。誰かが仕事を始めるにはなんらかの目的がある時もあります。そういう言い方をするのは、ただ社会生活をするために仕事を自動的に始める人間もいるからです(つまり、大学を出たら就職をするものだからという理由で仕事をするという人は意外と日本の社会には多いのではないかと思われます)。まあでもそういう人はほうっておきましょう(w)。 ではどんな目的があるかと言いますと、ごはんを食べるためという非常に根本的な目的もありますし、いいステレオ装置が買いたいからとか、まあそれに代表されるような、自分の望みの「よき生活」がしたいからとか、単に社会に出てもまれたい、人と関わっていたいからとか、スキルアップのためとか、結婚して子供を持って単純に人並みの生活をしたいとか、まあそういった目的です。しかし仕事が始まるやいなや、そんな目的はすぐにどこかに消えてしまうのが普通です。仕事というとスパンが長いですから別の目的が発生するということもあるのですが、その人の目的意識をその都度とらえるのが何かといったら、それは本来自分の持っていた目的とはまったく関係がない、会社でうまくいかない人に嫌な目にあわせることが目的になったり、単純にできるだけ疲れないようにすることが目的になったり、仕事場の人たちに注目され続けることが目的になったり、単にパワーゲームつまり政治ごっこのようなことが目的になったり、そういうことです。 何かを学ぼうと思うときにも何らかの目的があります。例えばピアノを学んでこういう曲を自分で演奏してみたいとか(これの本当の目的は人に注目されたりちょっと特別な人間である気分になりたいということが多いと思いますが)、語学を学んでこういう仕事ができるようになりたいとか、外人と恋愛したいとか(w)、武道を学んでいじめられないようになりたいとか、高い精神をもちたいとか、まあいろいろですね。これももうすぐにお分かりだと思いますが、仕事と同様、小さくみれば自分のその日の気分次第で目的はまったく目先の人間関係のことなどにすりかわりますし、大きい視点から見ても、最初の目的を持ったまま何かをできるのは長くてもほんの1ヶ月ほどではないでしょうか。 例えばもっと違うスケールのことでいいますと、何か明確に必要なものがあって、そのためにある人物に近づいて会話を始めたとしても、会話の途中にあらゆることに自己同一化を始めるために、その人に悪く思われないようにすることが目的になったり、その人を打ちのめすことが目的になってしまったりして、その目的を忘れないで会話を終わらせる事は普通「不可能」であるとすら言い切れると思います。 これら、例をあげればきりがない。つまりはあらゆることがまったく同じように起こるわけです。そしてこれは普通自己同一化からはじまり、自分の弱さが原因で、ほどんどの場合、目的を忘れた時にどこにいきつくのかと言いますと、「自分が楽であるように」、「自分が快適であるように」というところだと思います。 そして結局のところ、人生の目的も「楽であるように」「快適であるように」にほとんどが集約されてしまうのではないでしょうか。 これが我々人間の主要な特徴の一つだと思われます。これがためにあらゆる現象が起こっていると言えないでしょうか、あらゆる主張、嫉妬、社会的な怒り、そんなものも、自分が快適でない、他人が自分よりも快適であるということではないでしょうか。恋愛の問題ですらそうであると言い切れてしまうのではないでしょうか。 しかしこんな馬鹿げた目的がいったいこの世に存在できるでしょうかね。 こういった哲学的議論を起こしますと、つまりこれだけを取り出してこのことだけを考えますと、こんなに馬鹿げたことはないと思えると思うんです。しかし観察すれば、この世に起こっていること、自分に起こる事、自分の周りに起こっていることのすべてがこれに依っているんですよ。 これを見て、「我々は狂っている」という判断以外一体何ができるでしょうか。 さてさて、そんなわけで哲学的な議論は終わりにしましょう。 哲学的議論のいいところは何かを「暴く」ことができることだと思うのですが、悪いところは何も解決させる力を持っていないことだと思うんですw。 ワークをする人間にとって、目的を忘れないでいるということは非常に重要な絶対条件の一つです。これは自己想起の訓練でもありますし、その都度目的を忘れてしまうなら「為す」ことなど絶対にできないわけですからね(まあつまりはそれが我々人間が機械であるということの証明ですらあります)。これは日常の小さいところでなら実践可能なんですよね。例えば食事をするにも目的がありますが、それを食事の間中忘れないで食べ終えるというぐらいならなんとかできないわけでもないです。そんな風にあらゆる日常の小さな行為から始まって、その次に読書をしている目的や、学び始めたこと、何か自分が学んでいることの目的。そんなことも忘れずにできるなら、自分の仕事の目的や、それそれの人間関係における目的も覚えていれるようになれるかもしれません。そしてもちろん最後に来るのは人生の目的です。本当はこれを忘れないでいることがすべてだと思うんです、もしこの目的がはっきりしていて、それをすべての瞬間に覚えているなら、すべての行為に目的意識が発生しますし、それはすべての行為が意図的になるということでもある筈です。 みなさんこんばんは。ようやく(僕にはそう感じられます)オランダから戻ってまいりました。
今回はラップトップを持って行っていたので、プロジェクトの移動中に記事を一つ書きました。とりあえず、有無を言わさずアップしますね。(w) さて、今、ある非常に有名な団体の録音に参加しております。まあ、今回やっているのは合唱とはいえ、こういう非常に重要なシリーズの新しい録音、しかもメンデルスゾーンのエリアスという、オラトリオという音楽のジャンルでも非常に重要な作品の録音に参加していることを非常にうれしく思っております。 こういう規模の企画になりますと、合唱50人オーケストラ60人、ソリストスタッフなどあわせておそらく150人ほどの人でまあ全員がやりきれる気力の全力を振り絞って仕事をしていますので、なかなか大変です。 今はドイツでの録音が終わりまして、オランダでのコンサートの移動のバスの中なのですが、こんな風に徹底して大人数で一緒にいて、しかもいろいろな意味で難しい仕事をしている中にそれぞれのストレスもたまり易い所なので、今回は非常に面白いことに他人からの影響力の研究がよくできました。 僕はこのあまりにドイツ的な団体の中でほとんど唯一の外国人であるので、ある意味では僕を受け入れたくない人たちというのも結構います。そういう単純に不快な振動を常に送ってくる人たち、またその中でどういうわけか僕のことを気にいっていて非常に心地いい振動を送ってくる人たちの中に否応なくいることでいろいろな自分の反応、まずは感情的、そして思考的、身体的な反応をいろいろと観察して、また自分が意図的になろうと努力する事によって、これらの他人の反応に変化を与える事ができるかどうかということも、いろいろと興味深い観察ができました。 今回特に興味深かったのは、実に自分の感情センターの幼稚さということに気付いたばかりで、それが大きなテーマになっていたために、感情センターが受け取る、外からの不快な影響力に対する恐怖、そしてそれがまた、たまたまかなりのハイレベルで歌を歌わなくてはならない状況に置かれているために、その恐怖心を持っている感情センター、又は少し意識的になっている感情センターが、歌にどのように影響を与えるかということもよくよく観察することができました。 正直書き始めて思ったのは、この観察に関してはあまりに今回得た情報が多すぎるために、それをすべて理路整然と書こうと思うととほうもないことになってしまうということです。そこでとりあえずは、この感情センターと声の関係という事に焦点を合わせて書いてみようと思います。 僕の考えでは、声というのは身体的に、どういう声帯を持っているとか、どういう体を持っているのかということよりも、自分自身の本質、感情センターがどういう人物であるかでそのほとんどは決まってしまうと思っております。 まあ、普通はいい喉を持っていればいい声がでるし、パワフルな体を持っていればパワフルな声が出ると思われていると思いますが、それは実はあまり関係ないというのが、僕の長年の経験と観察からの考え方なのです。 例えば、クラシックの歌を歌うために専門的な教育を受けるとします。そうすると最初の5年間ほどの間はどんどん声が変わっていく、まあ、要するに技術がついてくるわけなのですが、それから後、ある程度専門的な技術がついてしまうと、誰でもそれ以上は声がほとんど変化しなくなるんですね。こう書くとまるで誰でもきれいな声で歌えるようなるかのようになってしまいますが、まあ、それほど簡単にはいかないのは、本当に「声」ということを理解している、声楽教師をみつけることがまあ日本に限らず世界中で非常に困難であるということ。これは本当に限られた人間しかおりません。そしてもちろんほとんどいないという、そういった先生について専門的な教育を受けたいと思ったら、もともとよっぽど才能のある人間でないと生徒にしてもらえないという問題があるわけです・・。 まあ、そんなけで、そういう先生に幸運にも指導を受けれるようなことになりますと、本当に5年ほど訓練すれば技術というのはきちんと身に付ける事ができるわけですね。さて、そうした結果誰でも素晴らしい歌手になれるかというと、まったくそういうことはありません。その時に出来上がった声で、十分にプロフェッショナルな舞台でやっていけるような声を持っている人は、実は数人しかいないのです(まあ普通は10人に一人ぐらいでしょうか)。 技術という意味ではほとんど大差なくみんなが同じ事を学んでいるにもかかわらずです。 この差がいったいなんなのかといったら、普通は単純に「才能」だとか体の条件だとかを挙げることになるわけなのですが、ここからが僕の考えでは違うところです。この差は単純に我々のそれぞれが持っている「感情センター」「個性」の差です。 例えば声の技術というのは非常に多面的な技術でありまして、それらの技術すべてを意識的に同時に使って声を出すというのはほとんど不可能です。まあ声を出すだけならある程度はできるかもしれませんが、その上で歌を歌う、そしてその歌で芸術をしようとか思ったら、それは絶対に不可能なんです。 そうすると、プロフェッショナルな舞台に立ってから「声を出す」ということに関して気にできるのはほんのちょっとした調整程度の事だけなわけです。後は出てくる声を「使う」しかありません。 そしてその出てくる声はどこから出てくるのかといったら、これは確実に「感情センター」からだけなのです。 そこでもう一つの考察ですが、実際ある程度技術が着いた人間が、そういう技術を本当に忘れて、そんなことはまったく気に留めず歌を歌うという事はなかなか難しい事なんです。長年技術を学んでいくと、歌を歌うということそのものが「技術」になってしまうんですね。そして、それに頼らなくては歌が歌えなくなってしまうのが普通です。 しかし、ここはもし誰か歌手が、単なる「音楽屋」ではなく「芸術」を始めたいと思ったら、どうしても越えなくてはならない壁です。 これはお客さんとして聞けば一目瞭然なのですが、技術を駆使して歌っている歌の響きというのはどんなに美しくても人の心を振るわせることは絶対にできません。それに対して単純に「感情センター」から出てくる声というのは、どんなものでもすぐに人の心を振るわせる事ができるのです。 まあ、これを逆からいえば、感情センターが変化すれば声が劇的に変化するということもありえるということです。ただ。これはもしそういうことが起こればということで、普通は「三つ子の魂百まで」というように、一度形成された感情センターが大きく変わるということはほとんど起こりえないことなのです。 しかしワークの目的はここにあります。以前「心理学」で扱う無意識という本来は扱う事が不可能である領域を意識化に置いてしまうというような大胆なありえない変化を起こそうとするのが、ワークなのではないかという考察がありましたが、だからこそ異常なまでの努力、「超努力」を必要としていて、またものすごく多くの、非常につらい苦痛を意識的に受け入れて行く事が必要不可欠なわけです。 このことについてほんの少し例があるのですが、世の中には不思議な人間がいましてですね。そういう人を霊媒と呼んだりするようです。あの例の、誰か死んだ人の霊だとか、なんか神様とか悪魔だとか、そんなのを感応して、その人の言葉でしゃべりだすというあれです。もちろん例によってそんなのはほとんどが偽物に決まっているのですがw(僕は実はアンチ・オカルティストですww)、中には、これは本物だろ〜、ってものいるのだと思うのです(それも実に法則通りといいますか、必ずほんの少しだけ、1%以下だったしても本物はどこかにいるんです)。そういった霊媒の中には何かの霊を感応すると女性の霊媒者がいきなり野太い男性の声で話だしたりとかもあるそうです。まあそんなに極端なことでなくても、まったく同じ体を使っているにもかかわらず、本当にその内容が変わってしまったらまったく違う声を出すということは、僕にはまったくロジックに理解されてくるのです。というのも、その人の自分を感じている重心の位置によってまったく違う声がでてしまうというのは、確実ですし、その意思によって声は絶対にまったく違うものになるのです。 普通、人の声は一定のレパートリー以外の声が出ないのは、単純にその本質や感情、思考も習慣によって決定されたレパートリー以外には絶対にならないからなのです。 そんなわけでずいぶん長い事考察する事になってしまいましたが、僕はこの感情センターが声のほとんどすべてを決定してしまうということにかなり確信を持っています。もし「歌の才能」というものがあるとしたら、それは体や声帯の問題ではなく、その人がそういう人間であるかどうか、感情センターが本来「歌手」であるかどうかということなのです。 そして単純に感情センターから直接でてきた声であればどんな声でも人の心を震わせることができるというのも非常に大事な点だと思っております。結局それを意図的に使うことができるのが、「歌手」という芸術家なのでしょう。 そんな長い前置きの後でほんの少しだけ本題に入りますが、実は最近の自分の感情センターの幼稚さを知る、そしてそれを意識してそれをむき出しのまま鍛え上げる、というワークをしてほんの5日間とかたった後、仕事から帰ってきて家で少し声を出した時にまったくわけのわからない声が出るという現象が起こりました。 その声は非常に軽くやさしく僕から出てくる、本当にきれいな声で、すごく自由に扱う事ができるなんともいえない響きを持った声でした。ただこれは僕が普段出している声よりもずっと軽い、ある意味「少年の声」を思わせるような声だったのです。それによって高音も非常に軽く出るのですが、普通オペラ歌手がするようにパワーのある高音にはどうしてもならないような声なのです。そして低音は単純に鳴りません・・。 そんな声が出てきたことにまず非常に驚いて、単純に僕は(まった馬鹿な事に)一生懸命もとの声に戻そうと、まあ「技術」を駆使してそうとうがんばってしまったんですね。それでもそれはまったく元と同じような声にはならなかっただけでなく、声を無理に整えようとしたために少しかすれてすらしてしまった訳です。そして1時間ほどそんなふうにがんばったあと、ようやく気付いたのでした。「あの声」こそが自分の求めていた声で、ワークの結果感情センターが本人の力で僕の体を使って出てきた声だったのだという事を。 まったく興味深い事に、僕がやったそのときの一時間にわたる「声の訓練」は、われわれの社会が常に強要し、感情センターの発達を根本から妨げている、僕の大嫌いな「普通の」教育のあり方そのものだったわけです。 まったく僕は自分の持っているくだらない自己像から、せっかく出てきた自分の真の感情センターによる声を、懸命になって殺そうとしてしまったのでした。 後から考えるとその時の声というのは、まったく意味のわからない声で、ある意味どこでも聞いた事もない声なので、クラシック歌手としてはまったく使えそうにないように思ったのですが、それは本当に美しい声だったんです。声の響きの中に何とも言えない、なんだろう、ちょっと変ですが、オーロラみたいな光を含んでいるような声なんですね。 今の僕がもしも、こういうふうに、感情センターから直接、何にも邪魔されず出てくる声を使用することができるのだとしたら、いつもこんな声が出てくるのだと思います。つまりその時のような少年に近いような声です。それは僕の感情センターが幼稚で責任を果たす能力が全然ないということとしっかり一致しているんですよね。 僕は普段「技術によって」響きの深い大人の声を出しているわけですが、これを捨てきって、感情センターを本当に責任ある存在にしてあげることができるのなら、まったく次元の違う芸術家にすら近付けるのかもしれないと考えられないわけでもないのです。 そんなわけで、次回はこのプロジェクトでの他人からのあらゆる影響と、自分の本質との関係の観察、そしてそれにかかわって声がどういう影響を受けたかということについて、(もしやる気になったらですがw)書こうと思います。 今日はいったい何を書いたらいいのかわからない中から何かを書いてみようと思います。
今自分の中は恐ろしくぐちゃぐちゃに混乱していて、ある意味では僕が期待していた通り、自分自身が誰なのか、いったい何をしてどう生きていくべきなのか(芸術家としてという意味です)、いったいどういう欲求にしたがって今まで生きてきたのか、その欲求はいったい意味があったのか、そして意味のない欲求に従って今まで自分がしてきた選択はいったい何だったのか、そしてその結果、今の自分が手にしているものにいったい何の価値があるのか、まったくわからない状態にいます。 というのも(本当の理由は実に解明のしようがないのですが)、以前に書いたように、自分の感情センター、の幼稚さ、責任を果たす能力をまったく持っていない閉じこもりだった「彼」を観察しながら、「彼」を中心にして、普段の行動をするように心がけていたからだと思います。 そのおかげで、この1週間かそこらの間、まったくわけのわからない、完全に場違いな間違い、失敗をたくさん起こしました。まったく今になって気付いたわけですが、僕の危機管理、最低限自分にできなくてはならないことをするという単純な危機管理を担っていたのも僕の思考センターだったんですよね。まあ、あたりまえといえばあたりまえなのですが・・。 僕はある意味勇敢なソルジャーなのでww、こういった非常にリスクあるワークを仕事の場でもしっかり試してみました。それはそれは大変でしたが、得たものはものすごく多かったと思っています。こういうことを繰り返していたらそのうち仕事を失ってしまうのですが・・、でもいいのです。今の仕事などは僕の目的ではないし、事実自分が今、一体何を求めているのかすらわからないわけですから、いらないものは壊してしまった方がずっといいという考え方もありますからね。 さて、こうして日常生活を送るのは、それはそれで気分がいいことでもあります。なぜなら、自分の馬鹿さ加減(まあ正確に言えば感情センターの幼稚さ加減ですが)がよくわかっていて、行動していることによって、肩の力が抜けているといいいますか、「ねばならない」という人間全員がもっている教育や社会から植え付けられた道徳意識、そういったものから少し自由になっている感覚をもつわけです。そしてそれがないからこそ、自分自身の「良心」にしたがって物事を行う必要があるわけですけどね。それにはなかなか気持ちがいい、すがすがしいという感じを持っています。しかし問題は思考センターが担っていただろう、社会生活をする中で何かをする「能力」というのが少し衰えてしまっているようなところがあって、失敗が多い、そうすると自然と苦痛が伴うわけなんですよね。しかしですね。この苦痛こそが自分の欲していたものだ、ということに今は気付いているわけです。考えてみると、自分が大人になってからこの方、実際に「苦痛」とは何なのか、恐怖とはなんなのかということをすっかり忘れていたと思うんです。というか、この今僕が持っている感覚は子供だった頃、おそらく中学生に入るよりも前ぐらいにいろいろなところで感じていた苦痛や恐怖を思い出させる。つまり同じものなんでしょうね。 ということはですよ。ある意味では僕の感情センターは13歳頃から成長しておらず、中学に入り始めた頃にはすでに思考センター、また別の言い方をすれば「複数の私」、「人格」のみが成長し、だからこそ、社会的な意味において「大人」になっていったということなのかもしれません。 さて、そんなわけで、久しぶりに手にする事ができた「苦痛」です。今、その頃と唯一違うのは、自分が意図的に、または意思を持ってこの苦痛を受け入れようとしていることです。最初に今回のことからこの苦痛がおとずれた時には、びっくりしてまた「人格」クンがですね(w)、いきりたって自己正当化を始めたりしたのですけれども、わりとすぐに気がついて助かりました。またこのせっかくの苦痛を無駄にしてしまうところだったんですから。 なんでそんなに苦痛が大切なのか、それは今までのこのブログの経緯をご存知ない方にはわかりにくいと思うのですが、我々人間は完全に狂った自己を本当の自己の上に形成していてですね(それを「複数の私」と呼ぶのですが)、それを一つの本来持っている自己に統一することが、人間の進化のための唯一の道であって、それを溶かし一つにできるのは、苦痛と葛藤という「炎」を意図的に吸収する以外にないからなんです。 wまったくここだけ簡単に説明しようとすると、なんと空想的に響く事でしょうかw。まあいいです。てなわけで、今こうして自分をある状態にもってくることが可能になったことが、非常に嬉しいです。そして、なぜかですね。こうしている自分は人にむしろ安らぎを与えるようです。おそらく力が抜けているからなのでしょうかね。自然に笑みがこぼれることが多いように思います。 |


