2007/02/28 (Wed) ダイエット。あまったエネルギーを何に使えるか。
さて、それではダイエットについて軽く書いてみようと思います。

それは前回書いたように、食事の制限ではなくて、何か別のものを制限するという意味で「ダイエット」と勝手に名付けたのですが、それは簡単なことで、グルジェフに関すること、またはワーク、秘教に関わるような本を一切読まないことにするということです。

こういう今のワークの進行状況の中で(過去の3つの記事を参照してください)一番最初にしようと考えたことが、本を読まない、つまりは新しく外から情報を入れる、また入れ直すことを一切やめるというのは一見意味がないように思われるかもしれませんが、少しずつ解説して見ようと思います。


まず、ここ半年ぐらいですか(相変わらず時間の感覚は正確ではないですがw)、ちょこちょこと感じていたのは、「実際に読むべき物は自分の中に山ほどある」ということでした。僕は実際グルジェフの本を読むのが心の底から大好きなんです。なんというかあれらを読んでいる時は本当に心の底から喜びが、また「愛」と呼べそうな感情まで(w)あふれてくるほど好きなのですが(^^;、たまに時間が空いているのに本を持ってくるのを忘れたりとか、読めないような状況になったときに最近思うようになっていたのがこの「ああ、まあいい。自分の中に読む物はたくさんある」でした。
これはもちろん自己観察が中心になります。常に自己観察をしているのなら、外部から何かを入れてくる必要などなにもなく、いつでも多くの新しい、しかも生きた事実、いろいろな「気付き」を得る事ができます。しかしそれは、自分が止まっているとき。特別に何かをしていないときにはそれほど自分の中に観察するものは多くないように感じるんです。それでそういう時はできるだけいつでもグルジェフの関係の本を読んでワークの継続の糧(かて)にして生きて来たのですが、そういう時にも実はもっと深いところまで自分を見る事ができるなら、自分の内部に読めるべき情報はいくらでもあるのだということに、ここのところ気付きつつあったわけです。

これはちっとも簡単な事ではありませんが、しっかりと自分の連想と内部に起こる感情などを観察していると、まるで自分が意識を持ったまま「夢」を観察するかのような瞬間が起こるようです。この過程の中で、実は幼少時から自分に刻まれているあらゆる情報、そしてある意味では何世代も前から遺伝によって伝わって来ているあらゆる情報までもが自分の中に浸透しているということを思えば、それらすべてに相対することが可能なのではないかという感覚をもち、それが本当に可能なら、どんな種類の本よりも、そしてそれらの本が図書館いっぱいにあるとしても、量、質ともにまったく比較にならないほどの情報が自己の中にいくらでもあるのだ、という感覚をもっているのです。

そんな中で空いている時間、ひっきりなしに本を読んでいるとしたら、それはまったく害ではないかというのが、まず一つ。そして今のワークの状況は今まで書いて来たように、自分のことに関わるのは一切やめるということですので、それを忠実にやろうとすると自然に人との関わりが多くなってくる筈です。そうした中で僕はどんな場合でも他人の存在を引き上げる為に何ができるかを試し続けるわけですから、そういう努力のなかでは、この「読む」という作業を他人のなかにも行う事ができるはずだと思う訳です。そして最後、3つ目は、単純にいままで読書に費やしていた労力を節約して他のことに使えるということ。時間も同様に節約できるでしょう。
そんなわけで、その節約、そしてそれによって効果を期待していることを「ダイエット」と名付けたのです。

そんなわけで実はもうこのダイエット初めていまして、この2週間ほど、一切ワークに関連する本を読んでいません。あれだけ愛しく思っていた本を読まなくなるというのは不思議にすら感じるし、また実にあれらの本の中からもまだ「知りたい」と思う事は山ほどある様に思っているのですが、それでも今しばらく読まなかったことで何か「すっきりした」感覚を持っています。

それともう一つ大切な事があります。実は僕がいままで、幼少の頃からを含めての人生の経験を思い返してみると、実に自分が(つまりは人格が)知りたいと思っていることに大切なことなどほとんどなかったということです。いつでも大切なものは自分の想像しないところ、想像できなかったところからやってきましたし、この原則は変わらないのではないかと思うのです。
結局自分の想像している範囲内のものなどは、自分の範疇でしかないのだと思うのです(つまりワークの狙いはその外側に出ていくことですから)。ならばそんなものは無視してもいっこうにかまわないのではないのかということです。


というわけで、第3期はこの「ダイエット」を前提において何かを模索していこうと思っています。期限とかは決めていませんし、僕はわりと飽きっぽい人間なので(だから第何期とかいろいろあるわけですからね^^;)どのぐらい続けるかは全然わかりませんが、なんとなく、だいたい5月いっぱいぐらいまでは続けてから様子をみようと思っています。


2007/02/26 (Mon) 仕切りのとき
みなさんこんにちは。
昨日2月25日というのは、このブログの1周年だったんですね。
カウンターを見るとちょうど12000を越えたところなので、平均すると月に、のべ1000人の方がこのブログをおとずれてくれているという計算になるんですね。うーん。なんというか感謝の気持ちでいっぱいです^^。どうもありがとうございます。というのもですね、こんな堅苦しいといいますか、ちっともフレンドリーでもなく、ある意味極端に厳しい事ばかりを書くブログにこれだけ人が来て、とりあえず読んでくださっているというのはちょっとすごいことだと思うんですよ。これは本当にFC2ブログあってのことです。非常にすそのが広いのだと思います。


ちょうど第3期に突入したときですし、そんなわけで全体的に仕切りの時期に差し掛かっているのですが、そんな今日。非常に久しぶりに僕の以前の(秘教の)師に会いました。彼自信もオペラ歌手なのですが、きのうちょうどスイスのバーゼルでオペラの公演が終わってその帰りにうちを訪ねてきたのです(ここはバーゼルからほんの一時間でこれるところです)。
師と別れてからこれまで、コンタクトはたまにとりあっていたのですが、意図的にあまり立ち入らないようにしたし、何かを尋ねたりとかは意図的にさけておりました。というのも僕は完全に師から独立する必要があった、あらゆる意味での依存心、師から何かもらえないかどうかという気持ちをすべてなくしてしまう必要がどうしてもあったからです。師が僕を離れるようにしむけたものそのためだと思いますし、少なくも僕はそう判断してやってきました。それなので、今、「以前の師」に会う事は嬉しいと思う反面、いったい大丈夫なのだろうかと、注意をそくされるような気持ちもあったのです。
しかしたった今会ってみて、自分が既に以前とまったく違う気持ちで師に相対する事ができるようになっていることに気付きました。僕は今、自分のするべき事が何なのか、そしれそれによって何を得れるのかがはっきりわかっているからなのでしょうか、以前のように、乞食のように師から何か恵んでもらえないか、何か教えてもらえないかという気持ちはもう本当に起こらなくなっておりました。そして自分がどんな人間か、自分がどんな状態にいるのかを明らかに自分自身で見ているからなのでしょうか。自分は自分以上ではないし、師もそれを見るだけであって、過小評価も過大評価もありえない、という安心感からでしょうか。師に認めてもらいたい、高く評価されたいという気持ちも起こらなくなっておりました。
そうして、自分はこの「以前の師」の役に立てる人間になっているということと、どのように役に立てるのかということもよくわかりました。そんなわけで、驚くことにすでに僕は「師」から独立することに成功し、今日「最高の友人として戻って来た」彼を心から迎えることが可能だったわけです。
本当はこういうところまで来るのに5年とかかかるものなのだろうと思っていたのですが、別れとは時間の問題ではなく、本当に心がその関係を断ち切るなら、もう成立できるのだということなのでしょう。そこにはもちろん、僕がこのブログでも何度か書いた「新たなスタート」があります。それはとても「美しい」現象だと思います。


そんなわけで移動から戻って来て「ダイエット」について書こうと思っていたところが、また別の事を書いてしまいました。これは別に「ダイエット」という万人を引きつける、ある意味魔法の言葉(w)をつかって人をおびき寄せようとしているとかではありませんww。なので一応断わってだけおきますが、「ダイエット」というのは僕が勝手に言っていることで、もともとの意味での食事の制限のことではなく、別のものの制限の話で、このダイエットで「痩せる」ということはありませんw。
てなわけでひっぱりまくっておりますが、次回こそはダイエットについて書こうと思います。いや、書かせてくださいw。


2007/02/23 (Fri) もう一度、又は何度でも死んでしまうために
ダイエットのことについて書こうと前回の記事で書いたのですが、また例によって別のことを書きます。そのことについてはどうしても書きたいのですが、その話をする前に前回の補足をしようと思うのです。
僕が考えているこれから自分が築こうとしているもの、それにはまったく例える言葉がないので、ここに書くようなことは一切できないということを書きましたが、実に僕が今の状態にいたって(つまり個人的な苦しみから解放されるというふうに形容した状態のこと)自分自身の行として何をしていくべきなのかということは書けるのだということに気付いたからです。

僕がこの状態に気付き、今始めようとしていることを意識的に思いついたのはほんの2、3週間前でした。それは自分に課した行を約2週間にわたって続けた結果、やったことが皆、無意味だったいうことに気付いた、つまり自己のコントロールはまったく今の段階では不可能だということに気付いた後のことです(過去の記事を参照してください)。 しかし、ここに来てこれに気付けたことは本当に大きいことだったと思っています。なぜなら、今から考えれば僕がこの状態に至っていたのは長くて一年半、短く考えても半年前にはすでにそうなっていたにもかかわらず、今までそれに完全に気付く事ができなかったわけですから。そうして僕は1年半もの時間をまったく無駄に使ってしまったとも言えるわけです、なぜなら僕はすでに個人的な苦しみから離れていたにも関わらず、ずっと個人的な行を行おうとし続けていたからです。
もし師がいるならあの時点ですぐに今僕がやろうと思うような課題を与えたのでしょう。
まあ一年半というのは大げさかもしれません。一番最初に自分が他人が苦しんでいるようには苦しんでいないというのに気付くような出来事があったのが一年半前だったのですが、そこからすぐに何かが始められたわけではないだろうから、まあ、それで無駄にしたのは短く見積もったら半年ぐらいだろうかと言った訳です。


今僕が本当に必要だと思う事は、自分を殺してしまう事です。これは秘教の言葉なので本当はこんなところで使っていい概念じゃないのかもしれませんが、理解したいように理解してもらってかまわないです。今の自分の状態を次の次元に高める為には今あるものがそのままよく磁化すればそれでよいということではないと感じています。そうではなく、いまあるものを完全に亡き者してしまう。自分が作り上げたくだらない幻想、意識、無意識すべてに浸透している空想、それによって成り立っているいろいろな習慣を本当に破壊しないことには必要な物は得られないということが非常によく理解されているんです。その為に必要なのは何かといえば、このブログの読者さんなら僕の言わんとしていることはもうだいたいお分かりと思いますが、それは死ぬような苦しみなんです。 ・・・一見矛盾していませんか? 個人的な苦しみから逃れた自分に必要なものが、さらに死ぬような苦しみ・・。でも矛盾じゃないんです。
個人的な苦しみというのは実はまったく苦しみではないのだと、この視点からは言えるのかもしれません。世界始まって以来のことだと思いますが、すべての預言者は苦しんでいます。有名な苦しんでいる人を挙げれば、モーゼ、エレミア、エリア、イエスとかみんな驚くほど苦しんでいることを描写されていると思いますが、これはまったく個人的な苦しみではないんです。つまり僕が今から得たいと思う「死ぬような苦しみ」というのは預言者たちが共通して持っていた驚くほど大きな苦しみ、つまり「意図的な苦しみ」なんです。
実はここに来て、この個人的な苦しみとの対比の中で、自分にはこの「預言者の苦しみ=意図的苦しみ」の正体が少しわかって来たような気がしているんです。
彼らは誰一人として自分自身の事を心配して、また自分の将来の事を不安に思って苦しんではいません。しかし彼らは他の誰も体験したことのない苦しみを人生かけて受けているのです。それは何かといったら結局「個人的な苦しみ」ではなく、「人類のため」、また本当は「宇宙のため」に苦しんでいるわけです。その苦しみの大きさは個人的なものと比較できないものなのでしょう。それはここのところ何回か考察してきた、利己的行と、利他的行の差とも平行して考えてよいと思います(少しスケールが違いますが)。
で、こういった苦しみがなければ自分を破壊する事はできないと強く思う訳です。こうして僕が生きていてすべての瞬間に浸透している「自分を護る心」、「自己愛」がここに居座っている限りは、自分の目指す物は何一つ手に入れることができないということは確信を持って言えるからです。

この発見は大きかったです。自分がその預言者たちが持っていた苦しみと同じ物を目指してどこかに飛びおりようとするということは、まったく大きなことばかりでなく、むしろあらゆる日常の小さなこと、身の回りにいる友人、道を歩いている人たちの苦しみの中に入り込む事で、実に手近なことであり、すべての日常の瞬間に実践を積み重ねていく事ができるものです。それが大きくなっていったときには、エレミアのような苦しみをも手にする事ができるかもしれないし、その結果、自分の破壊したいものはおそらく大分破壊できるだろうと思われる訳です。 加えてその発見がなぜそれほど大きかったのかと言うと、実はこういった日常に浸透したまったく利己的でない行を使えば、今まで自分が暖めて来た芸術的大計画を実現することも自分の力で可能であるということを確信したからです。
これは自分のことに関わるのをやめるということを思いつかなかったら、まったく実現不可能のままただ中に浮いたアイディアになっていたことだと思います。


てなわけで、僕は自分自身のことにかかり切りになることを一切やめると宣言しておきます.
なぜならそれでは退屈でしょうがないからですw。暇つぶしをする人生は選びたくないですから。
数日前にこれ、友人に真剣に言った言葉ですが「ちょっと真剣に手助けしてあげるよ、なぜかって退屈だから」ww
これは決して、美徳のためとか、いい人になりたいからとかじゃないんですよ。「退屈だから人助け」って結論面白くないですか??w
しかしこの場合「人助け」というのは人にいい思いをさせるとか、喜んでもらうとかそういうことを直接指してはいません。どんな人間にでも、その存在にあわせて、ほんの少しでもその人の存在のレベルをあげるために、全力で努力をすること、そしてそのために(そのためだけに)苦しむことそれが僕の言う人助けです。つまりそれは結果的に、相手を引き上げるがために意図的に不快な思いをさせる必要もあるかもしれないし、人が壁を越える為に必要なショックを与えるためだったら自分が強烈な「悪者」になる必要だってある時もあるはずです(愛するが故になんたらってなんか不動明王とかみたいですねw)。いや、実はそれこそが、グルジェフが、また僕の師がいつもやっていたことなのだと思います。その葛藤の中にいれば、当然ものすごい苦痛が自分に起こるでしょう。しかもそれは完全に自分の為にある葛藤でなく、一切自動的でなく、完全に意図的な葛藤になるわけですから。これが本当のパートクドルグ義務と言えるのだと思います。

それでまず何をするのかといったらそれが前回に書いた「ダイエット」なのですが、ある意味これは突拍子もないことに思われると思うのですが、まあ次回をお楽しみにしていてください。

そんなわけで、ベルゼバブの孫「第3期」はまあ、また大分雰囲気の違うものにしていければと思っております。


2007/02/22 (Thu) 予想もせず、辿り着いたところ
さて、今回の記事を書くためには結構覚悟が必要でした。なぜなら僕の表現したいと思っていることが表現できるかどうか自信がなかったし、それとは別に、いったい今自分が考えているようないろいろな事を他人に向けて言う必要があるのかどうかということがわからなかった、また今でもよくわかっていないからです。
しかし、ある意味でこのブログは僕のワークの記録のような意味合いも持ち始めているし、そのことを記録することで、僕の考えているワークに対する態度、また、「覚悟」という言葉の捉え方などがどこかに伝わるならそれはそれでいいのかもしれないという思いもどこかにあるので、今思っていることを書いてみようと思います。

まず、僕は今になって自分がやるべきこと、ワークについてだけでなく、人間としてやっていくべきことがまったく変わって来たと感じています。それは自分自身の変化ということだけでなく、自分がいったい何をしていくべきなのかということがかなりはっきりと、日常のレベルから具体的にわかってきたということなんです。

そのことについて説明してみようと思います。
最近、友人と話をしたりして、人が苦しんでいる事を知ったり、また本を読んだり、映画をみたりすると、自分が「そういった苦しみ」の範囲内にはいなくなっているということに気付かされたことがよくありました。でも自分が一体なぜそういった一般的な苦しみから解放されてしまったのか、考えてみるとまったくわからないんです。もちろんそれはワークを通して、また僕が目指すゴールに向かう過程の中で起こったことであるのは明らかですが、そのうちの一体何が僕をそういった種類の苦しみから解放してしまったのかは全然わからないんです。そして、そういう時にはよく、どうしたら他人をその苦しみから解放できるのかを考えるのですが、それでいつも思うのは「まったく手も足もでない」ということなんです。
いや、僕にだって不安や、不快な気持ちなんていうのはもちろんあります。でもなんというのか、この感じは何とも表現できない感じなのですが、自分は「他人が苦しんでいるようには全然苦しんでいない」ということを、人を見たときにだけ気付くんです。

さて、僕がこういったところに到達するということはまあなんらかの「よき事」だったんだと思いますが、このような状況に気付き、またそれが確実に「そうである」という事を確認したとき、僕はなんとも言えない感じを持ちました。
非常に不思議なことですが「退屈だ」と思ったんです。
僕はかなり長い事自分自身に、また自分の存在を変える事にかかりきりになって生きて来ました。そして今この状況になって、つまり自分の個人的な苦しみというのが非常に希薄になってしまってみると、今までの自分の生き方、つまり「自分自身にかかりきりになっている生き方」が非常に退屈になってしまったんです。これも本当に表現のしようがないと感じますが、とにかく「退屈」なんです。

これを発見したごく最近。実に驚いたとともに、喜びもわいたし、さてこれからどうするべきかと考えをめぐらしたりもしていました。でも特に驚いたのは、僕にとっては自分がグルジェフがいう意味でのどこか、例えば「一人の自分をもつ」ところまで行きついていなということを深く確信していますし、高次の体という意味では僕は「第2の体」ももっていないということにもほぼ確信を持っています。それに自分にはまったく自分をコントロールするすべがないということも嫌というほど理解していますし、僕の人生は未だに空想や無意味な連想と習慣で何の意味もなくエネルギーを浪費しているのみでしかないということも、非常によく理解しています。つまり僕ははっきりいってまったく凡人のままだし、何かに辿り着いた人間の特性など何一つ持っていないのです。
にもかかわらず、僕はそんなことよりも先に、一般的苦しみから解放されるところに辿り着いてしまって、それで自分の人生のことについては特別気にする必要もないと思うようになってしまったわけです。

さて、自分にかかり切りになっていることが退屈になったとしたら、何をしようと思ったか。それはもちろん他人に働きかけようということでした。
ではどうやって、ということが問題なのですが、これについてはここに書けることは一切ありません。
別に秘密だからじゃないんです。僕がここに実現させようとしていることは、僕が長年あたためてきたあるまったく新しい「概念」で、だからもちろんそれを表す言葉も、また、まだ形すら持っていません。だから言葉での説明はする方法がないんです。それはある意味「第4の道」の特徴とも似ていますから、それが何なのかを知っている人には少しイメージだけは湧くかもしれません。
僕がここに実現させようと思っていることは、人間に、そして芸術に、それを通して社会につよく関わっていることで、今まではその概念を自分の中に作りあげることをし続けていましたが、今にいたって、それがもう自分のなかには形になってあるのだということに気付き、またそのために、自分が今の状況で何をしたらいいのかが実に具体的にわかってきたのでした。

この状況にいたって、自分のことにもうわずらわされないのなら、どれだけワークが先に進むだろうかと思われてきます。このことが実現に向かうならそれは本当に大きなことにつながっていくだろうし、もし何かが実現したときにはみなさんにもこの新しい概念がいったいなんなのかを見てもらえる時がくるかもしれないですよね(まあ、こんなことを考えたりするのが芸術家の特権ですかねww)。とはいえ早くても10年後とかにならないと目には見えないと思いますけどね。

というわけで、これから先、このブログもいろいろな意味で変わってくるのではないかと思われます。僕のする事の重心が変わるのですから、当然こっちのほうも変わっていくでしょう。そんなわけでまず、次回は僕がこれからするであろう(又はもう初めている)ダイエットについて書こうと思います。

2007/02/14 (Wed) 何の為に口をきくのか
長い事ご無沙汰していたような気がします。
この間いろいろなことを考えてました。それで更新をする機会がなかったわけなのですが、特になぜ何も書かなかったのかと言いますと、いままでしばらくの間自分がこのブログで不必要な「おしゃべり」をしすぎていたのではないかという感覚があったからです。
一体何の為に口をきくのか。これは実に重要なテーマですが、われわれ人間は普通そのことを意識することはありません。でも、これを意識する事は実に「自己想起」のために非常に役に立つことです。というのも、このことで、自分が何かを外に発する前に意図的になりますから、自分の世界の中に起こっている事に気付いていることができます。そして何かを発するときには、外の世界の状況と自分の意図をもとに何かを発する事になりますから、自分の世界と、自分の外の世界を同時に意識する事ができるのです。
そして何を言うべきか(何を発するべきか)を「知る事」は自分自身と外の世界との関係性を自分の意思で作ることでもあります。
前回の記事で、自分が何を摂取するのか(印象、食物など)を選択することが非常に重要だということを書きましたが、そんなわけで、自分が外の世界に発するものも同時に非常に重要だと思います。

ここしばらく自分が記事を書いていた動機がなんだったのか、そういった動機によって発した記事がいったい人に何を運んだのか。これは実に真剣になるべき問題だと考えていたわけです。

これはもちろん通常の会話でも同じです。この視点から考えると、自分が普段、実にとんでもなく害のある発言をたくさんしているのだということに気付くことになりました。
それは、まったく油断しているときにはいつでも「起こって」います。何の覚悟もなく、何の意図もなく、ただ楽しい気持ちでとか、ただ楽な気持ちで習慣的に友人と会話している時などは、普通に自他に害を及ぼす発言がどんどん出てくるようです。
それは自分の心に依っているように思います。最近の記事で研究していたように、自分の心の中はまったくコントロールすることができませんし、われわれが深いところに持っている習慣的な心は(それは思考、感情、本能すべてに含まれているものだと思います)実に馬鹿げた、仏教の言葉でいえば「無明」の原則の中に組み立てられていますから、そこから自動的にでてくる発言は非常に害のあるものばかりなのです。そこにはどんな人間にもぬぐい去る事はほとんど不可能である、虚栄、自己愛、偏見(そこから二次的に発する、空想、傲慢、憎悪、羨望、狡猾、偽善、卑屈など)が含まれていて、そんなものが「意図的でない場合はいつでも」次々に自動的にでてきてしまうわけですから、われわれが眠っている限り自分の発言(発現)にかなりの責任意識を持っていないと、なかなか前に進む事は容易ではないように思われる訳です。

こうして書いている自分の中にもいろいろな「害」を見る事ができます。
これはなかなか難しい事で、普段あまり自分の言う事について「考えて」いると、必要なことも何も言えなくなるということが起こります(それは思考センターの動きは非常に遅いので、考えていては状況に追いつけなくなるわけですよね)。それなので、結局は自分の発する事すべてにおいて自分が意識を持っているということ以上のことはできないと思われます。ただ意識をもっていることができるなら、害にも気付いていることができますし、もし気付いていられるのなら、その害も最小限におさえることは可能であるように思われます。


そんなわけで、これから少しコンセプトを変更する可能性があります。自分がこのブログの記事を書く動機にもう少し責任感を持てるようにしていこうと思います。
2007/02/06 (Tue) 寿命の問題と成長過程の理解
やわたうまさんの趣味占放談で、寿命は170歳まで伸びるのでは、という話題がでていたことからグルジェフが寿命について語っていることの一部を記事にしようというアイディアが生まれました。
「実践」に直接関わらないのことを書くのは第2期に入ってからのこのブログの趣旨とはずれてしまうわけですが、まあ、たまにはグルジェフが語った事で興味深いことを紹介するのも悪くはないと思うので少し書いてみようと思います。

グルジェフは時々人の寿命について語ることがあるのですが、彼はそのことを非常に重要なテーマであると考えていたようです。彼の寿命に関することを説明する為には、例によってその他のいろいろな概念を良く理解しておく必要があるので、なかなか難しいのですが、その話のうちの、その他の概念の理解が必要ないことについてだけ書こうと思います。

うーん。今、そうこう考えつつそれぞれの寿命についての説明について考えを巡らせていたらですね。よくよく考えてみたらこれらの考えも、実はそこに行きつく為に何をしたらいいのかということはすべてが、ここでいつも扱っている「実践」に集約されているんですよね。ということはこんなことを口にするよりも、実践について考えていれば、自然に寿命をのばすところに向かうわけですから、こんなこと書く意味なんてないじゃないか。なんて考えてしまったんですww。一日に使うエネルギーは限られている訳で、それは一生で使うエネルギーが限られているということでもありますから、エネルギーは浪費しないようにしなくてはなりませんからね。

すいません、一人でどうどう巡りしていて・・。でもここまできたら引っ込みがつかないので、書こうと思っていた事を書こうと思いますw。


グルジェフも正真正銘の秘技参入者ですから、秘技参入者にだけ読む事ができる(概念を理解する事が可能である)古代から伝わる「ある物」を読む事ができるようなのですが、そこにこういった趣旨の事が書かれていて、それをグルジェフはこんなふうに現代人の思考形態に理解可能なように文章にしています。
「成年に達した人間の精神はたがいに共通点をもたない3つの機能統合体から成り立っている。これらそれぞれの機能統合体はある人の一生のうちの異なる時期に形成を始め、そして異なる時期に形成を終える。
第一の機能統合体の形成は子供時代にのみ、すなわち、少年なら11歳までに、少女なら7歳までに形成される。
第二の機能統合体は、少年の場合は9歳から、少女の場合は早くも4歳から形成を始め、人によってことなるが、だいたい成年になるまで形成が続く。成年に達する年齢とは、男の場合20歳、女性の場合は13歳のはじめ頃である。
第三の機能統合体は成人に達してからその形成が始まり、そして現在の平均的な人間であれば、男性なら60歳、女性は45歳まで続く。
しかし、意識的に自己を、いわゆる「全センターが覚醒している状態」にまで高めた人間はこれらの機能統合体は男性なら300歳まで、女性なら200歳まで形成を続けることができる。」

と、まあこんなことです。
つまりは全センターを同時に使うことができ、一つの自己を確立している人間にはまったく別の形成の限界があるわけで、当然、その状態では思考、感情だけでなく、身体的にも活性した状態が男性なら300歳、女性なら200歳まで続く訳で、寿命はわれわれの常識を大きく越えてしまうわけです。

ここで言う機能統合体というのは、実はこれが何のセンターを表しているのか、グルジェフは説明していないんですw。これはいつものグルジェフのやり方なのですが、それがなんなのかわからないために、人は非常に慎重にかつ思考をよく活性化させつつこのことについて考えないと、まったく意味がわかってこないようになっているんです。そしてこの疑問を持ったまま、いろんなことを探して、いろいろなところを読み返していかないと、この機能統合体が何を意味しているのかがわからないようにできているのですが、僕もそれをやって、ようやくそれがなんなのかはっきりと確認した人間の一人です。
で、せっかくグルジェフが意図的にそのようにして、人の思考を覚醒しようとしたことを、僕は自分の便宜のために、そして自分がそれを知っている事をひけらかすようにして(w)、答えを言ってしまいます(師よ!僕の不孝をお許しくださいw)。
第一の機能統合体とは思考センター、脳みそのことで、
第二の機能統合体とは動作センター、身体のことで、
第三の機能統合体とは感情センターのことであります。
これはそこには書かれていないのですが、よーく探せば他のところに書いてあるので、確実にグルジェフ(我が師w)はそれを意味していると言えるのです。

さて、そうして考えてみるとですね。
これは非常に興味深い考察がいろいろとできます。
まず、それは脳みそが一度形成されたらあとは縮小して行くだけであるという事実と一致していますし、幼児期の男と女の機能統合体の形成過程が大きく違うのは、僕には七・五・三を連想させたんですよ。この場合、女性のほうがなぜかイヴェンとが多い(3歳と7歳の二回)のもなんとなくうなずける気がします。
そしてまた興味深いのは成年に達する時期の差です。男性の20歳というのは、これは男性の成人する時期が、社会的に成人する時期と重なっているという事も納得しますが、女性の13歳というのはだいたい生理が始まる時期と重なっていて、それが第二の機能統合体の完成、つまり身体の完成の時期なわけですから、成年に達した女性は子供を受胎することが可能になった状態になっているというわけです。
成人した女性はそこから先、すでに感情センターである第三の機能統合体の形成を始める訳ですが、この時期の女性と男性の成長の度合いの違いもこれで非常によく納得することができてしまいます。確かに思春期の女性は、思春期の男性に比べてすっと精神年齢が高いし本当に既に大人になっているんです。
ただ、現代の女性の不幸はここにもあるように思います。13歳から社会的な成人まで、つまり中学生から高校を越えて大学生に至るまでの間、そんな理由から女性は同世代の男性のことを馬鹿にする、また低く見る傾向がしっかり身に付いてしまうのではないでしょうか。しかし、男性が成人してから後はまったく状況がひっくりがえってしまいます。しかしそれをどうしても認めたくない女性がものすごく多いのは、実に僕には非常に理解しやすいことです。13歳から20歳の頃というのは人生を貫く表面的な意味での世界観のほとんどを決めてしまう時期なので(内的な意味ではすでに幼年期にすべてが決まっていますよね)、そのときに形成された世界観を理性で変化させるなんてことは本当に容易ではないのだと思います。

これらの関係は、女性の人生の「華」の時期が16歳頃から25歳そこそこで終わってしまうということもよく説明していますし(一般的な女性だけでなく、何かを成し遂げる女性を見ても、スポーツ、歌、芸術、ダンスなど、ほとんど若い時期に集中しているように思います)、女性が45歳を超えたあとの、平均的なイメージを考えてみても、その第三の機能統合体の形成時期の終了というのは、よく納得できるように思います。
そしてもちろん60歳が男性のすべての形成過程が終わる時期なのは社会的な引退と一致しているのは、社会のシステムが男性のものと一致している事をしっかり表していますし、事実男性はその時期までまだ新しい認識なりを生み出す力を残していると思います。

ただ、これは一般的に普通に生きていたら、こうであるということで、だからこそ全体を眺めた上ではほとんどの現象がこれに一致していると観察できるわけですが、われわれの目標は、実にもともと全センターを活性化させ、一人の自己を持つ事にあるわけですから。それを死ぬ気で(本当に死ぬ気である必要がありますが)この方向を目指すなら、こんなものは無視して高みに登る事も可能な時がくるというわけですから、女性も、もちろん男性も安心してください。ただし、死ぬ気にならないと駄目ですけどね(いったん死ぬ必要すらあるんですからw)。

また、軽く書くつもりが長くなってしまいましたが、そんなわけで、この視点からみればいろいろな現実的問題も非常によく納得できるような気がするわけですが、こういうことが社会的常識にまでなったらどんなにいいだろうと思わなくもないです。こういった「知識」が一般化していたらいろいろなことが社会的にも家庭内でも個人的にも人生設計を考える上でもオーガナイズしやすいように思うんですよね。
例えば今の内閣の教育再生にしたって、こういった知識があったらもっともっと本当に現実に見合ったシステムを思いつくと思うんですよ・・。
ああ、それにしても今の内閣の人たちは真剣に役に立つ事をやろうとする姿勢があるので嬉しいです。結果はどうでるかはもちろんわかりませんがね。そういった姿勢で先に進みつづけるなら、それはどんな共同体だってなんらかの進展は考えられるように思います。馬鹿のマスコミがじゃましないでくれたらいいのですが・・。


まったく関係ない話でしめてしまいましたが、そんなわけで寿命の話を終わりにします。

2007/02/05 (Mon) コントロールの不可能性
ひさしぶりに更新します。
ここ2週間ほどの間。とりあえず気付いたことを実践しようと継続的に取り組むことができたと、まあ、ある程度は”自分の行った事にたいして”満足はしています。
しかし、そしてここまで来てわかった事は、自分には本当にいかなる意味での自己をコントロールする能力もないのだということでした。本当に継続して来た「行」がまったく意味をなしていなかったと覚るにいたったのですが、今回は全力を尽くして行うことができたために、自分の限界を知ることができたという意味で、新たな発見にいたったのだと思います。

というのも、自分である程度はコントロールしているつもりだった、また別の言い方をすれば、ある部分は意識を持ったままで行動をし続けられると思っていたところが(でも、実はそれも事実なのです。2週間にわたって自分の課した行に集中していられる、それを忘れないでいられるのは意識を継続できていたからにほかありませんから)、実は本当の自分自身はもっともっと自分の深いところに存在していて、それを意識できていない限りは、自分は「そいつ」のいいなりなのだということがわかってきた、とでも言いましょうか。

今「そいつ」といいましたが、これはもちろん自分の無意識の中にいる存在の事です。そしてそれは実に複数いて、別々のタイミングで別々の反応として現れて来ますから、「そいつら」と言ったほうがいいのかもしれません。ここで「そいつら」に「〜センター」とか「〜センター」とか名前をつけることも可能かもしれませんが、ここではあまり意味がなさそうなので省きます。その「そいつら」はいわゆる分析心理学でいう「潜在意識」に属しているものなのだと思いますが、実はわれわれはこの上に意識というものを築いていますので、これがコントロールできない限りは、「自分のコントロール」など不可能なのだということが、あからさまにわかってしまったのでした。

てなわけで、コントロールができないがために、わかってはいるにもかかわらず、自分に害のあるようなことを繰り返し行ってしまうのがさけられないのです。

いやー、これは実にいいことに気付きました。これに気付いた事によって、ある意味では「自己コントロール」は不可能だ、ということが明らかになったわけです。まあ、少なくとも通常の状態では不可能であるということは完全に明らかですね。潜在意識がある限りはそれをコントロールできないわけですし、常識的に考えて潜在意識をすべて通常の意識下にもってくることはできませんから。


ではどうしましょうか。という話になるわけですが・・、本当にどうしましょうかww。

そこで思った事。まあ、意識をただ強化しても自分をコントロールするところまでは至れないのだということが明らかになったわけですが、それでもなお実践可能なことはいろいろとあるのです。
例えば、ある程度の自己観察の繰り返しと、それによる「理解」を蓄積するとですね、少なくとも自分の意識下にあるものは、自分の意思が続いている間に限ってはコントロールできるわけです。それによって自分の生をオーガナイズすることができます。
こういう状況を観察してみて思ったのは、自分が外界から摂取するものをオーガナイズすることが大切だという事でした。
まずはそのうちの「印象」です。これは「3種類の食物」の概念をよく理解して欲しいのですが(「奇跡を求めて」とかこのブログの過去の記事で参照できます)、その内の「印象」も自分で何を摂取するかを選択する事がある程度はできます。つまりは、とりあえず変な物を見なければいいんですよねw。 例えばこの世の中にはおかしなものがあふれていると思います。
これはほんの例ですが、先週フランクフルトに行っていましてですね、そこで日本人の知人の家にお邪魔したのですが、そこで子供たちが日本のドラマを見ていたんですね。まあ、そのドラマを僕もなんとなく見ていたのですが、これがとてつもなくくだらないんですよw。うーん。人物の観察力がゼロだし、根底にある「善」の意識が貧弱すぎるし、まあとにかく全国民的な暇つぶしです。僕はそんなドラマにまったく自己同一化せず、みるともなく見ていました。そして、何がどう「眠っているのか」をしっかり観察していましたし、なぜこういうものを日本の国民がこぞって喜ぶのかなど、いろいろ考えつつ見ていました。しかし・・。にもかかわらずです。それほど冷静に、自己同一化することもなく見ていたにもかかわらず、その後で自分を観察すると自分の中にいろいろな空想がよぎるようになっているではないですか!正直驚きました。こういったドラマにこれほど強く、人を白昼夢に浸らせる「力」があるということに!! もちろんそういった空想は人間の弱さの最も代表的な例で、これは驚くほど大量のエネルギーを「思考センター」から奪っていきますので、こういった「ドラマ」って本当にものすごい害を人間にもたらす大発明品なんですねw。うーん恐るべしです^^;
ちょっと話がそれてしまいましたが、そんなふうに世の中にはまったく「真の意味で」人間の害になるようなものがたくさんあふれていますが、そういうものを印象として自分の中に入れないということも、実に役立つ筈なんです。
それは通常の食事も同じで、本当に意思をもって食事を選択していくならそれがどれほど動作・本能センターの助けになるかわかりません。


そんなわけで、自分をコントロールするという目標はずっと先の目標である(これは要するに個体性を持つようにならなくては不可能だということだと思います)ということがわかったところで、自分に積み重ねて行く努力として、これらのことができる筈であるという話でした。
ただし、気をつけてください。摂取するものをコントロールするということは、実はこれもかなりアドヴァンスです(前回書いたようにパートクドルグ義務もかなりアドヴァンスなのですが)。というのも、例えばこのドラマの話でいいますと、これが害だからといって大のドラマ好きの人がいきなり今日からドラマという印象を摂取するのを完全に絶って、そのかわりにシュメールの石盤からギルガメッシュの叙事詩ばかりを読みますなんてことはできないじゃないですかww。そんなこと無理にしようものなら、ストレスで人間としてのバランスすら失ってしまうでしょう。習慣的に空想に浸ることを楽しみに生きて来た人は(それはほぼすべての人間のことですが)その楽しみに依存しているので、それをいきなりなくしてしまったらものすごいストレスを感じるし、それなしでは本当に息抜きもできない、テンションでめちゃくちゃになってしまう筈なんです。
それは食事についても同じでしょう。体に害のあるものをなぜそれほど摂取するのかと言えば、それがその人の精神に見合ったものだからで、その精神を持ち続けている限りはそういう身体に害を及ぼす食事をまったくとらないでいると、精神が満足することができずに、それによって健康を害してしまいます。
これは実にどんなワークに関することでも同じです。いきなり自分の習慣を無理矢理買えようとしても、それは単純にストレスを生んで、自分は墜落するだけです。ではその為に何をしなくてはならないか、それが結局「理解を得る」ということで、またいつもの繰り返しになりますが、その僕の言う意味での「理解」とは自己観察の結果の蓄積と、意識を持って何かをしたことの経験の蓄積でしか得る事はできないのです。



ちょっとだけ書くつもりがずいぶん長くなってしまいました・・。次回は、最近特に考えていた、自分の自動的に浮かび上がることしかできない「想念」のコントロールの不可能性、そしてそれがどれほど自分にとって害であるかということについて書いてみようかと思います。

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このブログはある程度グルジェフを知っている方を対象に書かれています。解りづらいことがある場合は、このプログの初期の記事を読むか、ウスペンキーの「奇跡を求めて」など、一般的なグルジェフの入門書から読まれることをお勧めします。

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