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今、自分をまた見つめ直しております。いままでこのブログでもいろいろなことを研究して、少しずつ研究の深さを深めて来たり、また自分でも実践力を高めるように努力したりしてきました。そしてある時点にいたっていつも思う事は、何を前に進めていても、自分の存在は全然変わらない、ということです。
どうしても自分の持っている眠りの傾向を変えることができない。どんなに何かが変わったように見えても、自分が現実に観察している、自らの眠りはまったくそのままそこに残っている。そしてそんなときにいつも思う訳です。これを変える方法は本当にないのではないかというふうに。それは「絶望」というふうに言っていい物と思うのですが、実はその「絶望」にはある効果というものがあって、その「絶望」に至ったときには、何か根源的な力がどこかに見つかるような気がするんです。なんというか、その絶望にいるときだけ自分は完全に「地に足をつけている」という感覚がありまして、それは結局現実の中に存在しているということなのかもしれないと思うのですね。絶望がなぜあるのかといったら、現実を直視しているからなのだと言えるのかもしれません。 そしてその力でまた何かを初めるわけですが、そうするとまるで靄(もや、ってこんな字なんですねw)にかかったように、例の眠りの世界に迷い込んで、そのときに見ていた「現実」がまったく見えなくなってしまうようです。 僕がワークをするのにははっきりとした、見間違いのない目標があります。それが自分がいつも観察している「眠り」から本当に覚めることです。それを事実しっかりと観察しているから絶対見間違えないんですよねw。僕のワークはその目標を達成することにだけに興味を持っているので、それ以外の事は本当にどうでもよく、また逆に、そのことに関してだけはどうしてもやり遂げなくてはならないと思っているんです。それもできるだけ早くなんです。 なぜかというとその後にどうしてもやりたいことがあるからで、それが僕が芸術家として実現させたいあることなんです。もし目覚められないのなら、僕のやろうとしている事はどこにも進めないと思いますし、そのために僕が知りたいことすら、知るすべはないように思っているんですね。だから、どうしてもできるだけ早く「この眠り」から目覚めなくてはいけないと、真剣に考えているんです。 そんな僕のワークの中で、また今、絶望の時がやってきて、周りをじっと見つめています。いろいろと雑多なことが観察されて、あまりに多くの事実、また多くの問題が見えているために、どうしたらいいのか、何をすればいいのかがはっきりとつかめないのですが、何か今までは見えなかったもの、ほんの小さな自己知ですが、それを通して自分のとおるべき道のようなものも、何か少しだけ見えるような気がしています。 それをどうにかしてここに書いてみたいと思ってこの記事を書き始めたのですが、今日はどうもそこまでいけそうにありません。 これは山登りのような感覚がありますね。自分の目の前に恐ろしいほど巨大な山が見えていて、そこに向かって歩いているのに、ほんの一歩足を踏み込むのにも四苦八苦している。そしてその向こうにはまた考えられないほど巨大な氷山が見えていて、今の自分ではそこに一歩すら踏み込む事ができないのがわかっている。道具もそろえないといけないし、今の自分の能力ではあそこでは呼吸すらできないでしょう、という感じです。 前回を補足する意味で少し「師」について書こうと思います。前回書いたように、「師」という概念を理解することそのものがものすごく難しいことなんです。
師を見つけようとする際、非常に難しい障害があります。それは師というものは絶対に名前を持っていないという原則に依っています。もし本当の師が自分のそばにいるのなら、それに気付けるかどうかというのが非常に難しい問題なのです。なぜならわれわれ人間は恐ろしいほどに、名前をとおしてしか物事を認識していないからです。 それがゆえに人間は名前がないものを扱う事ができないし、それをすることに大きな不安、また強い不快感すら持つんです。そして理解しなくてはならないことは、この世界の中に存在するもので本当に価値のあるものには絶対に名前はついていないし、つけることは不可能であるということです。 まあ、話がずれました。師ですが、気をつけなくてはいけない理由はもう一つあります。本当の師というのは絶対に自分の能力をみせませんし、知識をみせたりもしません(師になり得る人間が獲得する存在にいたれば誰でもそういう態度をとるからです。そういう人間は必ず目的をもって何かをしているので、その目的に必要でない、そういった行動はとらないのです)。だから普通、師を求めているような人が、本物の師になり得るひとを目の前にして、自分の方が彼よりも優れていると考えたり、また自分と同等のレベルにしかないものと無理に想像しようと真剣に努力したりしてしまう物なのです。この事実は恐ろしいものがありますが、僕の以前の師と関わっていた人間を観察すると、ほとんどすべての助けを必要としている人間がそんな反応を師に対してしていたのをいつも見ていました。 こういうことから、実はわれわれが普通にとっている態度からは、どうしても「師」というものの存在は隠されてしまっているというのが事実なんです。 人間は驚くほどに完璧に、どんな例外もなく、人と人との関係を上下にわけて考えています。人と関わるときには絶対に自分がその相手よりも下なのか上なのかを常に判断していて、この事に関して一度した判断を覆されることを異常なほどに恐れています。そしてそれを信じないようにするためになら文字通り「何でもする」のがわれわれ人間です。そして特に、社会的には特別な位置にいない、社会的には自分と同じような立場にある人間が、自分よりも圧倒的な能力を持っていたり、優れていたりする事を異常なまでに恐れ、それを認めたくないためにあらゆることをします(多くの場合は強い悪意をその人物にむけたり、あらゆる嘘を自分についたりです)が、本物の「師」は必ず社会的にはわれわれと同等のところにいますし、「師」であることを人には言いませんから、この前提からわれわれには「師」に接触する事が恐ろしく難しいのです。 こういった傾向は、僕の観察から、日常のあらゆる会話の中に見て取っているので、はっきり、まったくどんな人も例外なく、この罠の中にいると言い切れます。 というわけで、これは本当に難しい事ですが、できうる限りこの世界観、相互の関係を上下で分けている世界観から少しでも離れる方法を見つける事が非常に重要になります。すくなくとも、師を求める人が、「師」を前にしたときに、その世界観から一瞬でも外に出れないのなら、その人はその師と関わるチャンスを完全に逃してしまうでしょう。「師」は道を求めている人間なのかどうかは気付きますから、たいがいはヒントは与えてくれます。しかしそのヒントに気付けないならいちいち気付くまで待ってはくれないのが「師」です。なぜなら師は常に目的を持っているから一人の人のためにそれほど多くのチャンスを与えている暇はないし、それに気付けないのはまだ準備ができていないということを示しているからです。 グルジェフはこういった心理的な現象をベルゼバブの口を借りて「カーストにお互いを押し込む事」と言っていて、これはわれわれの持ってい問題の根源的なものであるとすら言っています。エゴイズムが存在するのはこれが原因だし、狡猾、羨望、憎悪、偽善、軽蔑、高慢、卑屈、ずるさ、功名心、二枚舌などはこれがゆえに発生していると言っています。 上下でものをみないということをするためにもやはり観察が非常に大切になると思います。というのも他人を自動的にとらえた場合は必ず上下にわけてしか関係を見れないようにわれわれはできていて、それに対抗するのは意図的な観察しかないからです。われわれが深く他人を(自分もですが)観察する事を学べば、普段自動的に判断されているものとは全く違う人々の関係性の見取り図が見え隠れするようになるし、そのことはわれわれに上下はなく、タイプがあるだけなのだということ、そして機械的である限りは人生における「成功」も「失敗」も自動的にしか起こっておらず、何の意味も持っていないということがはっきりと実感して見えてくるからです(はっきりと実感しない限りは意味がないのですが)。 ここから逃れることは容易ではないことですが、少なくともわれわれがこれほど真実からかけ離れたところにいるということ、そしてだからこそ、今のわれわれの住んでいるような世界がその結果として存在しているのだということを、まず忘れないでいようと努力することは有益だと思っています。 前回に書いたように、今現在、自分の周りに、僕の導きによってどこかに向かおうとしている人間が2人できました。これはなんと呼んだらいいのかわからなくて困るのは、「弟子」とか大げさなものでもないし、事実彼らは僕を通してどこに向かっていく事ができるのかということはすっかりわかっていないし、だいたいが僕がどんなメソッドを持っていて、それがどういう名前で呼ばれているかも知らないわけですから、何かの生徒とかでもないし、とりあえず、なんとも名付けようがないわけです。
そんななかで、非常に面白い事に気付きました。彼らは複雑に絡まったいろいろな問題の中でどこかに向かおうとしているわけですが、その為に何かをしなくてはいけないと思っているからこそ、僕の助けを借りようという気持ちになったわけです。そして僕もその為に必要なこと、自分が持っているメソッドの中で何か使えることを提示したりもするし、とりあえず彼ら自身と、またそれぞれの状況をできるだけよく観察してみるわけです。そうするとこの観察の結果として明らかに、しかも非常によく理解できる事は、彼らは自分がどこかに向かうために必要なものに限って何一つ手につける事ができないということなんです。そのうちの一人に関しては、いろいろな意味である程度の意思をもって、人生をかけて「何か」に辿り着こうと思っているし、その為以外に人生は存在し得ないとすら確信しているほどの男で、彼の普段の行動そのものが自分の意志の上ではすべてが「どこかに向かうため」にしか選択していないにもかかわらず、それらすべての行動が今の自分を変えて、今の自分に必要なものを得る方向に”だけは”どうしても向かえないんです。それらは非常に単純なことで、やれば誰にでもできるようなことなのにもかかわらず、それだけは絶対にさけて通りまたまったく別の何かを探して来てそれをやろうとし始めるのです。そうして同じ事を繰り返し続けているのに、当然彼自身はどこかに向かい続けていると思っている筈です。 こんなことがなぜ起こるのか。これをここで説明するのはまた不可能だろうと思われます。というのも、これはグルジェフの言う、バファーというものの意味を理解しなくてはならないし、これを理解したいなら、少なくとも自分の心理的機能(自分が思っていることそのもの)がこのバファーの結果として生まれいるのだということを、一つや二つぐらいは自己観察によって知らなくてはしょうがないからです。実はこのバファーという機能はすべての人間に複雑に形成されていて、これを通してしか世界が見えないために、人間は真実が一切見えないようになっているんです。 もしも、このバファーが自分の中でどう機能しているのかということをわかることがあるなら、それはそのバファーが破壊される時か、もう機能しなくなったときだけなので、われわれは自分の中に機能しているバファーに関して自分でそれを見る事は不可能であると言ってしまってもいいものなんです。そしてもし何かを得たいならば、このバファーはできるだけ多く破壊してしまわなければならない(例によってですが、これを破壊したけらば、どうしても自分が死んでしまうほどの苦痛を受け入れるしか方法はありません)。 これはどんな例外もなく誰にでも、たくさんのバファーが機能していて、それがゆえにわれわれが思っていること思わされていること、見ていると思い込んでいる物は例外なくみーんな真実とは違う物になってしまうわけですね。これを少なくともいくつか自分の中に発見すると言いましたが、それは結局はいくつかは破壊するところまでいってみないとそれを発見することはできないわけですから、それを実現するしかないわけなんですが、なぜそれを少なくともする必要があるのかといいますと、そのことで初めてバファーとはいったいどういったものなのかを想像することができるようになるし、それが少しでも想像できて初めて、自分の深いところにものすごい数のバファーが多重に張り巡らされていて、それによって「自分」という存在が形成されているのだということにも気付く可能性が生まれるからです。 そんなわけで、バファーの結果だけが理由とは言い切れませんが、われわれ人間はどうしてもまったく不必要なことしかできない。また逆にいえば我々の、異常なまでに弱い意志が求めるものは常に、1時間かもしくはもっと短い時間ごとに入れ替わっていて、それらはすべて自分の進化のために不必要なものだけを選択するようにできているとすら言えるのです。つまりそのバファーの結果、自分が”やりたい”と思う事は絶対に進化の方向に向かっていないと言ってしまっても全然問題ないほどです。 今回そんな風に、自分の(弟子的な)友人たちを、導く事を目的として観察していたためにそんなことが非常に明らかに観察でき、またその結果どういうことが起こっているのかもよく見つめることができたのでした。 そしてもちろん思っていたことは、自分自身もまったくそうなのだということ、また自分だけの集中力ではこの状況から逃れる方法はまったくないということは確実ですし、僕もまったく同じように、自分の進化に向かえることに限ってどうしても手をつけることができなくなっている筈だということは容易に想像できるのです。 結局そうしてわかることは、またもや原則に戻ることになるわけですが、「師」がいなくては何も得る事はできないということです。しかもこのことからわかることは「師」の言う事を完全に信用して、彼が言う通りにすべての事をやる覚悟ができなくては(完全な服従)どこにも進むことはできないということです(またこれも原則のとおりの結論なのですが)。自分の意見をそこにまぜてしまってはまたバファーの思うままになってしまうわけです。また逆に言えば、本当に「師」がいるなら、まったく何年かけて準備をしても進まなかったことを一気に短期間で片付けることもできるということでもあります。つまりは僕がこうして人を集めて準備をしているワークも、この新たな師を求めるための準備でしかないのだということもできます。 P.S. ただ慎重になって頂きたいのはここでいう「師」という概念そのものも、きちんとした準備にしたがって「理解」をしなくてはならない概念であるということです。それは「ヨガ教室の先生」ではないことだけは確かです。 久しぶりに更新してみます。
いままで書いて来たように、最近は自分の存在を高めるための行動を起こさないという一見わけのわからない原則を作ってワークを続けております。その理由は自分のことばかり考えている人生は「退屈だから」です。なぜ退屈になってしまったかというと、僕は既に自分のためには苦しまないようになってしまったからで、その人生は自分のためだけにあるならただ楽に終わってしまうようなので、本当に退屈なのです。それに自分を向上させるためのワークという意味ではやれそうなことは大分やって、これより先に進もうと思ったら今のままでは先に進めないという感覚を持っていることもあります。というのも、自分一人で出せる集中力というのは本当に限りがあるからです。そういうこともあって、今自分がワークとして、他人の存在をほんの少しでも引き上げる為に何かをするという行為は、実は自分のまわりに協力しあえるグループを作り上げるという意味あいも持っています。 他人と一つの目的をもって何かをできるなら、そこにより大きい磁場を作り上げることができるはずだと思います。一人の力がどんなに大きくても、数人集まったときにはまったく比べることもできないほどの大きなものにしてくことができる筈だと思っているんです。 そんなわけでだいたいもう1ヶ月ほどになるのでしょうか、自分自信のためのワークを捨てて、ベクトルを外に向けるようにしてみました。そうした結果、他人にまったく違う形で関わることの難しさを痛感いたしました。今の自分の「存在」の位置に他人を導く。これは言葉でいうと簡単ですが、実際にやろうと思って他人を見ると、これは本当に不可能だと思えてくるほど大変なことでした。まず、これを実現させるには僕に引き上げられる人間の、凄まじいほど強烈な「意志」がなくては絶対にどうにもなりません。自分が変わらなければならないという意思、これは人間という存在が非常に救いようのないところにいるということのはっきした認識の上にたっていなくては(つまり日常の中で常にそれを見続けていられるほど精神力が強くなければ)継続させることはできませんし、すでにそういった意思を持っている人間なんていうのは、はっきりいってどこにもいないのです。 まあ、いい、いきなり本物の「弟子」を求めているわけではないのですから・・。まあそんな意思はないにしても、普通人が何か別の存在になりたいという意思は、現在ある苦しみから逃れたいということ以外からは発生しませんし、その程度の気持ちから存在を引き上げるというなんらかの結果を引き出すのはものすごく難しいです。なぜならその問題がたまたま解決しさえすれば、その人の「変わりたい」という意思はなくなってしまうからだし、どちらにしろ気持ちが向いているのはその「問題」にであって、「存在を変える必要性」というものを感じているわけではないし、それがいったい何を意味するのかを想像できる人すらいないわけですから、まったくお手上げと言わざるを得ないのです。 しかしそうこうするなかに、実は今のところ2人ほど、僕の助けを借りて何か、どこかに辿り着きたいと思っている人間がみつかりました。もちろん彼らは僕が何を知っているのか、どこに向かおうとしているのか、そして今の僕のところまで辿り着くというのはどういう意味なのかなど何一つわかっていません。しかし、この2人との関係を通してすでにかなり面白い結果が導けるということを見つけ出しています。 というのも、こういう関係の場合、僕が彼らの存在をなんとか変えるためにする努力が、まったく自分のために異常なほど大きな結果をすぐに運んでくるうえに、彼らは僕が彼らにいったい何をしたのかは気付いていなくても、このことによって非常に大きい喜びを得ているようだからです。これはまたある一種の錬金術のようです。というのも、世界の原則の一つに、一つのものが増える時は何か別の物が減る。運動があるところには必ずエネルギーの消費があり、自分が何かを得る為には、必ず何かを失わなければならない、というものがあって、しっかり観察すればこの原則の外に存在するものなどどこにもないのに、この行動は、ギブ・アンド・テイクでは全然なく、与えたら、それ以上のものが自分にすぐに帰って来てしまうからです。 以前、苦しみをすべて喜びに変えるというワークを「錬金術」として書いたことがありましたが、それは自分の中に起こる錬金術だったのに対して、今のは他人との関係の中に起こる錬金術と言ってもいいのかもしれません。 また、僕がこういう行為によって自分に一体何が起こるのかに気付いていられるのは、自己観察の能力のたまものだと思います。もし僕がこのことに気付けないのだったら、僕は単に無駄な奉仕を他人に施したように思うだろうし、そんな行為は自分の心の健康上非常に悪いものだと思います。というのも、「してやった」とか「自分が善人であり、立派な人間である」と思うような心は、完全な否定的感情であって、自分のために害にしかならないからです。そしてこういった行為の結果自分が何を得ているのかに気付いてなければ、これらの感情の発生を抑える事など不可能だからです。 そしてここでまたこういう結論がでるわけですが、こういったワーク(行)は驚くほど大きな結果を運びそうなので、できるだけやったほうがいいように見えて来ますが、徹底的に利己的なワークをやって、この意味がわかるような状態になってからでないと、続けることは不可能だし、まったく自分に害にすらなってしまうだろうということです。 まったくまとまらないし、書く事がないと思っていたのに、書き出してみたらどんどん書きたいことが出てくるという(とはいえ、とりとめもなく書いても仕方ありませんから)、なかなかブログにはしにくいワークに突入していますが、この結果というのはほとんどでるものではないので、おそらくはほとんど永遠に中間報告をし続けることになるでしょうw。 どうもです。今まで書いて来たように、ここしばらくの間2つのこと、すなわち「自分の成長のために行動するのを一切やめること、つまり他人の成長のためにだけ動く事」と「秘教に関する文献を一切読まないこと」を実践してみました。
これは思ったより(または、思ったように)非常に難しい実践法でした。 まず、他人の成長の為に意図的にとる行動ですが、これは友人、知人に会っているときにはなんとかなるんです。つまり単純にその会っている人をよく観察して、どうしたらその人のためになるのかを探ればいいのですから。しかし、自分が一人でいるとき、また町の中でアノニムになっているとき(不特定多数として他人の中にいるとき)にはそういうわけにはいかないんです。つまりそういう時には、そういった集中力を継続することが非常に難しいということに気付いたんですね。一人になると対象がなくなりますから、自然と自分の状況を観察しますし、そこで思いつく事はやはり自分の存在の変革のことであって、他のことではないんですよね。それからアノニムになっているときも状況は全然ちがうんです(これはある意味で大きな発見ですが)。つまり、この場合は自分の影響力を直接何かに加える事がほとんど不可能になるんですよね。言葉や、言う事で自分の影響を伝える事ができませんし、自分の存在感や表情で与える影響も知人の中にいる時とは全く違うふうに機能します。そういう状況下では自分はほとんど完全に外からの影響力の中に流されるしか方法がないし、できることは自分の内部をその影響力の外側においておくことぐらいなわけです。まあ、悪魔(僕が悪魔です)としましては、こういう状況にはかなりいらいらしますよねw。自分が影響力を与えられない状況ほど、悪魔にとってつまらないことはありませんからw。 さて、そういう難しさに気付き、なかなかコントロールができずにいろいろな影響力に負けつつも、友人、知人といるときにはそれなりにいろいろなことを新たに観察することができました。 まずは、こういう「行」をする中では、自分が他人にあたえ得る影響に常に敏感になっていますから、影響力の関係についていろいろなことに気付きました。まず、自分があたえ得る影響というのは考えていたよりも相当大きなものだし、実は自分が知人たちの中で、影響の中心の位置にいるということだけなら全然難しくないのだ、ということがわかりました。だって多くの人が無意識で、単純にできうる限り楽をしたいがために、また楽しみたい、他人に注意を向けられたいという自動的な欲求にしたがってだけ行動している中に、一人だけ意図的に行動する人がいるなら、これは実に、自分の存在感だけでもかなり大きな影響をあたえる事ができますし、その他人の自動的な欲求を利用すれば、言葉によっていろいろな影響を与えることもできます。 ああ、もちろん条件がありますが、自分がそういった「自動的な欲求」の外にいる場合ならこれは簡単です。楽であることとか、他人の注目とか、他人が自分をどう判断しているかがまったくどうでもいいと考えられるなら、実は自然に大きな影響力を持てるのだと思います(これが欲しい人は別の研究が必要なので、このブログの第1期、第2期の方を研究されることをお勧めします)。そうすると、実にいたずら心のようなものがわきあがって来るので、自然に笑いがでるというか、人が真剣になりすぎてしまうような時にも、かなり簡単にユーモアを使って話をそらしてしまうこともできます。 ただ、問題はその影響力を何に使えるのかということなんですよね。影響力が強いということと、自分の思うような影響を与えて、思うような「結果を導く」ということは全然違うことですから。まあ、これだけでははっきりいって他人を少しでも機械性から覚醒させることなど、まったくできませんね。つまりは今の段階では単純に、知人、友人と一緒にいる場合にのみ、意図的になることによって影響を与えることは可能であるということがわかっただけで、僕の目的とするようなことには質でも量でも全然たどりつけそうにありません。 まあ、最初の1、2週間で多くの問題点と、少なくとも自分に可能な事に気付いたというのが現状です。 「秘教に関する文献を読まない」ということの実践中間報告はまた次回にしたいと思います。 |

