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それではようやくですが、「自由意志の欠如」ついて書こうと思います。
前々回の記事「秘密を知る」に書いたことでも明らかですが、現代の先進国の社会で、物質的な意味である程度安定していて、誰の世話にもならず、生活を選ぶことができるなら多くの人が自分は自由であると思っている筈です。つまり我々人間は社会的な強制力や、貧困のための不自由などを抜かせば、普通、自分の生活は自分で選択し自由に生きる事ができると考えているということです。 この感覚を否定する事はそれほど簡単なことではありませんが、少し違う角度からもの見てみましょう。 我々の心の活動の中の非常に大きな部分を占めているものに「自己同一化」と呼ばれる物があります。自己同一化とは簡単に言えば何かに心を捕われる傾向のことです。例えば物語りや、特にテレビドラマ、それから映画などの人物の感情をそのまま自分のことのように不安に思ったり幸せに感じたりすること、これはつまり感情移入というやつですが、これも自己同一化の一つの形態です。その他にも例をどんどん挙げてみましょう。例えば、知り合いでも、道行く人でも、誰かがあなたに悪意を向けているとしますこれに反応して、こちらからも悪意をむけたり、また動揺してしまったりすることも自己同一化です。例えばどこかで大きな音がしているのを聞いて「何だろう」と思い、今していたことをいったん忘れてしまうのも自己同一化ですし、またどこにいるときにでも偶然目に入ったものからいろいろなことを連想してぼーっと考えにふけるのも自己同一化。また友人などといるとき、グループ、会社内、学校などでは相手が自分をどう思うかを常に考えて行動をすることになりますが、それも自己同一化の一形態で、特に内的考慮と呼ばれています。 この様に我々に日常生活には自己同一化があふれています。実は言い方をかえれば、我々の生活は起きている間ひっきりなしに自己同一化を繰り返しているといっても言い過ぎではないのです。 この自己同一化のあらゆる例を探し出し、自分自身の生活のどの瞬間に何に対して自己同一化が起こっているかを観察するのは、ワークに置ける自己観察の第2レベルとでも言えるものです。これをやることができれば、誰でも自己同一化とはあまりに普通の我々の精神的な活動で、実は自己同一化こそが我々の精神活動そのものであるということにすら気付くことになります。そして興味深い事にこの自己同一化は一般的にはポジティブな心の活動であるとすら思われているのです。例えば最初に挙げた「感情移入」ということ、また一般的に言う「何かに集中する」というのも実に自己同一化以外の何物でもありません。また他人を考慮するという、正確には内的考慮と言われる自己同一化も、もちろん全世界で、また日本では特に非常に大切な「美徳」ですらあるでしょう。 しかし、自己同一化が起こるとどうなるかと申しますと、その瞬間に自分という物を一切失ってしまいます。それはつまり自己想起から完全に離れてしまうという意味で、自己同一化している瞬間は絶対に自分のことを覚えていない、また意識できていないのです。また、自己同一化が起これば、一瞬前に興味があったことを即座に忘れてしまいます。 実はこれらのことを日常生活のあらゆる瞬間に見つけるだけ自己観察ができるならもうすでに「人間に自由意志がない」ということは十分に確信できるんです。このようにひっきりなしに自己同一化をしている我々の精神は常に自分を失い続けている状態にあるわけで、我々がその瞬間にしようとしていることはすべて、偶然その場にあって自己同一化しているものなわけですから、それらは自分の意思から来たものではまったくないということがわかるわけです。そして自己同一化が起こったときにどれほど自分の気分が変わってしまうのか、そしてその後にその気分がどれほどの長さで継続的に自分に影響することになるのか、またそれによって自分の興味の方向性がどれほど変化していしまうのかということまで観察できれば、自分の意思と呼んでいるものが偶然起こっている何かであるということを確実に「知る」ことができます。そして先ほども書いたようにその自己同一化は「ひっきりなし」に起こっているわけですから、それがどんなことなのかもこの自己観察さえできるようになれば、完全に理解可能なことなわけです。 つまりそれらすべてを考えにいれれば、我々は通常の状態ではまわりに存在するすべてのものの奴隷であるということが言えます。そして自己同一化を続ける限り、我々は奴隷であり続けることになるわけで、そこには自由意志というものは存在しえないわけです。 これらのことは、物、人への自己同一化で、一見して知覚できるできこと、通常の自己観察でも観察可能なことですが、この自由意志の欠如という問題は実はさらに大きな範囲を含んでいます。 人がワークを志し、自己観察を始め、それを継続して行っていくと必ず自己の知らせざる領域を絶えず発見する事になると思います。その感覚を知っている方には自分のその無意識の領域、つまりは自動的に起こっている自己の領域がどれほど大きいものなのかということは想像ついているはずです。その無意識の領域には、自分の意志「私は願う( i wish )」がまったく力を持たないというのは明らかなことで、それゆえに「自分の大部分が自分の意思に従っていない」ということが言えるてしまうのです。 そして、われわれのすべての存在の中でほんのわずかである、自分で意識できる領域でさえも、ほとんどすべてが自動的に流れる連想のまま思考、感情、本能が働いていて、あらゆる偶然のショックに対して自己同一化を繰り返し、ただ反応をしているわけですから、通常の我々の状態では「意思」というのはまったく存在しないとすら言ってしまえるわけです。 これがだいたい「自由意志の欠如」という哲学でも科学でも結論の出せない問題をワークの世界では完全に言い切ってしまうことができることの説明になります。ここで書いた事は論理的な流れにそって説明をしましたが、これらの論理だけではもちろん「自由意志の欠如」について「理解」をすることは不可能であるということを付け加えておきます。つまり前々回に書いた「秘教の原則」ですね。ある実践をあるレベルまでやった場合にはこれらのことは確実に理解できるというわけなのですから。 この場合のある実践というのは、もうお分かりのように「自己観察」ですが、それは第一段階としては「思考」「感情」「本能」の機能をしっかりカテゴリー分けをして、継続的に行う自己観察、そしてそれができたときに初めて第二段階の、自分の自己同一化している瞬間を意識できるかどうかという少し難しい自己観察を始めることが可能になります。そんなわけで「ある程度の自己観察をすることができるなら」確実にこの問題のことについて理解する、もっと言えば「知る」ことが可能だというふうに書いたわけです。 (自己観察の方法について知りたい場合はこのブログの初期、カテゴリーの「奇跡を求めて」を参照するか、一般的なグルジェフの実践の本を読んでみてください。) というわけで、この「自由意志の欠如」の問題はこれから何年経ってもどれだけ研究が進んでも哲学や科学の世界ではこれらを言い切る事は不可能なはずです。それは哲学も科学も必ず一般化して、通常の現代人の意識の範囲内で何かをいわなくてはいけないという原則の中に成り立っているからです。だからこれからもこの概念は何かを実践して「ある存在」にいたった人間だけの秘密に留まることでしょう。 まあもちろん人間全体の意識がそこまで進化するならこれが常識化することもあり得るわけですが、歴史を見ればそういうことが起こりえないことは明らかです。ある時期に人間の意識のレベルが全体的に向上して、ある高い文化が花開く事が起こりましたが、それも200年以上続いた試しはなく、必ず全体の意識はまた低くなり、それらの人々にはそれらの偉大な過去の文化を理解することがまったくできなくなるゆえに、これら過去のものは野蛮な物だと言うことになり(理解不可能なものほど人間が憎むものはないのです)、ものの見事にみんな破壊されてしまうわけですから。 (まあそのように破壊されることを防ぐ為に、本当の秘密はどうしても秘密のままにして置かなくてはならないのですよね) 決まったテーマについて書こうとすると実に知恵を絞らなくてはならないので大変なんですね。そしてどうやって書いたらいいかと考えているうちにいろんなことを思いだす。そうして思いついたことを書くほうが圧倒的に楽なんですよね。まあ、楽だって、まったくそれだけではないのですが、そういったテーマはだいたいは自分に直結していることなので、それこそ今書いておきたいと思う訳です。
今回がまさにそれです。 グルジェフは普通の人間は「たった一人の自己」というものを持っていないと言っています。われわれは複数の自己のレパートリーを持っていてそれがめまぐるしく入れ替わっている。自分で決心したことを実行できないのもそのためだと説明しています。それを「複数の私」とまあ、呼んでいます。 それとは別にですね。我々は生まれた時には白紙の状態で、まったくまっさらな自分として生まれてくるわけですが(それは当たり前ですよね)、社会的な条件や教育によって成長してく自分というのは別の植え付けられた自己であるとグルジェフは説明しております。まるで本当の自分という幹(木の幹です)に、その社会の常識のようなものや道徳感という接ぎ木をして、その接ぎ木だけを成長させるようにして人格を成長させていく、それがわれわれ現代人のあり方だというのです。 それがゆえに現代人(とはいっても昔からすべての人間がそうだったのでしょうが、僕は現代人のことと現代社会のことしか知らないのでそう書きます)、は二重性を持っていて、実は催眠術のようなものが可能なのもそれがゆえだとグルジェフは言います(まあ、片方の自己を眠らせてしまうことによってああいった状態が導けるということみたいです)。 グルジェフが言うには、ワークで成長させるべきなのはこの2つの自分のうちの、生まれ持ったままの自分、つまり本当の自分だけです。だからまずワークを始めるにあたって、この2つの自分をわけて考えなくてはならないとグルジェフは言っています。とりわけ最初のうちは自分のことを自分だと思っはならないとすら言っています。 そして現代人のもっている本当の自分というのは人それぞれですが、かなり成長しているとしても13歳ぐらいで成長が止まっていると言います。これは人によっては5歳ほどのままであることもあるそうですが、我々の社会で活躍するのは「接ぎ木された自分」だけですから、たとえ本当の自分が5歳ぐらいだとしても、接ぎ木のほうが十分に成長していて社会的には非常に知的で、情も厚く、信頼される立場に立っているということも可能です。いや、むしろインテリに属するような人たちの方が本当の自分が成長できないことが多いようです。それは社会的な強制力の影響下にしっかり支配されているからこそ、「本当の自分」は成長の可能性をなくしてしまうわけで、そしてそういった人のほうがずっと社会的には成功しやすいわけですから当然のことかもしれません。突然思い出しましたが、宮本武蔵のような自然児が、後に禅の坊さんやなんかの影響を受けながら誰にも到達できない境地にまで達することができたのは、この本当の自分が非常に強く成長していたからかもしれません。 さて、このぐらい例をだせば、この「本当の自分」と「接ぎ木」のことがだいたい想像して頂けると思います。 僕自身は以前からグルジェフのこのアイディアについて、頭ではよくよく理解していたし、一時期は自分自身とこの「接ぎ木」をわけて考えられるように訓練した事もありました。そして他人の中の「本当の自分」がどこにあるのか、どんなときにそれが姿を現すのかということもかなり長い時にわたって観察して来ました。 しかしここに来てまったく違う視点からこのことが見えて来たんです。 というよりは今まで自分が考えていたよりもずっとこの「本当の自分」は見えないところにいて、普段生活をしているわれわれは本当に100パーセント「接ぎ木」なのだということを理解したという方が正確かもしれません。 実際自分の意識そのものが「接ぎ木」が持っている意識なわけですから、いくら普通に自己観察をしようとしても「本当の自分」というのは全然見えていないのですね。しかし自己観察の結果が多くたまってきて、自分のしている行動の動機、またその傾向が長年にわたって、また継続して観察されていった結果、どうも自分の「欲求」のおかしさにだんだん気付いて来たわけです。 そして気付いたのは、長年「自分」として意識して来たこの「自分」は完全に「接ぎ木」なのだということです。 自分が完全に「自分」ではないというのはおかしな感覚ですが、これは本当にそうでした。 夜、寝る前にベットに横たわって落ち着いて自分を観察していると、次々にいろいろなイメージが浮かび上がってくると思います。これは「夢」をまだ起きている状態で見ているということなのだと思いますが、実はこの瞬間というのはこの「接ぎ木」が眠りにつく瞬間でもあるのだということに気付きました。そして「接ぎ木」が眠り始めたときに初めて「本当の自分」が少しだけ姿を現しているようなのです。これは瞑想のような状態に入り込んだときも似たようなことが起こりますが、こういうふうにこのテーマについて理解したとき、自分の意識がしっかりある時(つまり「接ぎ木」の意識がしっかりある、通常の起きている状態の時)には「本当の自分」であるのは絶対に不可能だ。ということでした。 結局そういうわけで、今の自分、いまこうしてブログを書いている自分は完全に自分自身ではないのだということがよく理解できたわけでした。 実は今日スイスのバーゼルに行きましてエドヴァルド・ムンクの展示を見て来ました。見ているときにふと思ったんです。「こんな絵を通常の自分のままで見たって何の意味もない」と。ムンクは非常に深い「不安」を常に持っていたことで有名ですが、彼が絵を描くのはその「不安」を昇華する場所を探すためだったようです。僕はその彼の個人的な芸術を人間の到達できる極みというほど偉大なものだとは思いませんが、彼はおそらく絵を描いているときに「本当の自分」になる可能性があることを知っていたのではないかと思うのです。そしてごくたまにそれに成功しているのでしょう。そのときにあのなんとも言えない「力(power)」と「存在感」のある、そして恐怖の中にやさしさと「美」が描きだされるような絵が描けるのでしょう。 (話は戻りますが)このことを認識して何が起こったかと申しますと、今までこれほどにまで大切で自分にとって非常に大きな意味を持っていた、そして大事に大事にいたわってきた「自分自身」が(これは「接ぎ木」のことですが)まったく小さく、ほとんど社会的な意味でしか意味をなしていないということを非常に強く実感したということです。そうならば、この自分自身の(「接ぎ木」の)成功や、人生のヴィジョンなども客観的にはまったく意味をなしていないということで、これを認識するのは非常に貴重な体験であったと思います。 そして恐ろしいことにワークを通してどこかに向かおうとして行動をしていた自分も「接ぎ木」だったわけで、本来ワークで鍛え上げるべき「本当の自分」はこのワークにほとんど参加していなかったわけです。 こうなると、いったい自分はこれから一生「接ぎ木」のままで人生を終わる事になってしまうのかということを思ってしまいますね。そして僕にはそうは絶対になりたくないという思いと、”あの”「自分自身」に完全になってしまうことなんて不可能だという思いが同時にあります。 一歩一歩できることを、目の前にあることをやっていくしか方法はないのでしょう。 さて、自由意志の話ですね。グルジェフのワークの世界では人間に自由意志がないというは、自明のこととされております。哲学でこうも長く議論されて来た事(つまりはアイディアはあったのに、完全には答えが出せなかった事)。そして最近では大脳生理学でも理論的には人間に自由意志がないのではないかという疑問が生まれ、議論をしていることを、なぜワークの世界では完全に言い切ってしまえるのか、それは前回書いたように自己観察を実践することでそのことが理解されるだけじゃなく、事実として明らかに見ることができるからなのです。
これを強調したいのは実にこれが特別な事だからで、実際グルジェフの世界でも、ただ理論的に言うだけなら、こんなことは断言することはできない筈なのです。しかし、ある人がある方法を持ってある実践をした場合(この場合は思考、感情、本能にカテゴリーをわけた自己観察です)普通の状態ではではいくら議論してもわからないことを明らかに「知ること」ができるということの好例なのです。 これがまさに秘教のあり方だと思うんです。ある実践を通してどこかに辿り着く、その結果普通の状態では理解不能なことをまったく明らかに理解、認識することができるようになるということです。だからあらゆる秘教、密教ではある存在のレベルに達していない人に何らかの知識、情報を伝える事を禁止しているわけです。それは無駄な議論をさけ、人の混乱や誤解をさけるためで、それら無駄な議論や混乱や誤解は、本人だけでなくその周りの人、そしてその教えそのものまでを決定的に傷つけることにつながるために、これらはどうしても秘密でなくてはならないことなのです。 注意しなくてはならないのは、その事実に基づいて考えれば明らかなことですが、普通に流布している情報は絶対に秘教における「秘密」ではありませんし、もし秘密の一部が流布する事になれば(これはいつも起こっていることですが)必ずそれら無駄な議論、混乱、誤解を通して伝えられてくるので、それらの情報は皆すり切れてぼろぼろになってしまったものばかりだということです。これはワークを志す場合に非常によく理解しておく必要があることだと思います。 僕がグルジェフを研究する際、グルジェフが直接語った事だけを題材にしているのもそのためです。 そういう意味では「自由意志の欠如」の問題も、秘教における「秘密」の"性格を含んだ"問題で、このことをよく想像していただければ、秘教における秘密がどういった性格の物なのかも少し想像していただけるのではないかと思います。 例えば、ある人が人間に自由意志がないことを確信していて、それをあらゆる人に、機会あるごとに説得して回るとします。職場や学校、飲み会やレストラン、ファミレスなど普通の場でそのことを力説して回る人がいたらどうでしょうか。たいがいの人は気分を害するはずです。「冗談じゃない。俺には意思はある!現にこうして朝の支度をして仕事に来ているじゃないか!馬鹿な事を言うな!」といった感じです。その様にして気分を害し、また誇りを傷つけられた人は、その論者にある種の敵意のようなものを向けることになるでしょう。しかしそれにも増してこの「自由意志の欠如」という説そのものにものすごい嫌悪感、また悪意を持つようになります。 そういうことが、あらゆるところで起こったときに全体として社会の中でどんな結果を呼ぶのかをよく想像して頂ければ秘密にされるべき事が絶対に秘密のままでなくてはならない理由も想像できるのではないかと思います。そしてそれが本人だけでなく、その周りの人、そして教えそのものまでも著しく傷つけてしまうということもわかってもらえると思います。 秘密というのはそのように、往々にして人がどうしても受け入れられないような事実なのです。そして現代人が持つ普通の欲求を持ったままでは受け入れられないだけでなく、扱う事も非常に危険な概念なのです。 だから簡単に受け入れられるような秘密ならそれが本当の秘密ではないと思ってもいいのじゃないでしょうか。 一つの秘密を受け入れるだけでも、非常に多くの自己否定と苦痛、またそれを越えるだけの大きなエネルギーの蓄積をどうしても必要とするんです。 また前置きが長くなってしまいました。 そんなわけで、この「自由意志の欠如」も”最も軽い種類の”秘密に属するテーマなのですが、まあこの程度の問題ならそこいら中で力説しない限りは問題も起こらないと思うので、また次回から話を進めようと思います。 「グルジェフ弟子たちに語る」という本は、彼の弟子たちがグルジェフの直接語った言葉を編纂した本です。こういった彼の直接の言葉、講義の内容がまとめて書かれている本は非常に少なく(他にはウスペンスキーの「奇跡を求めて」だけではないでしょうか)、僕にとっては非常に貴重な情報です。というのも僕はグルジェフのアイディアに関して、グルジェフ以外の人が何かを言っていることにはまったく信用を置いていないからです。グルジェフが持っていた知識、また存在の境地というのは、その弟子たちは誰も到達できなかったものなので(そういう意味ではグルジェフは教師としては、あれだけ努力をしたにもかかわらず、失敗した訳です)、僕の基本的な姿勢としては、グルジェフのことが知りたいのなら、グルジェフ自身が考えていた事、感じていたことを知ろうとする事しか方法がないと思っているからです。
この本の第2部の最初の講義はエッセントゥキで1918年頃にされたもの、つまりグルジェフがモスクワ、ペテルスブルグでの理論的な講義を通してある程度準備のできた弟子を作ったあと、ロシア革命の混乱の中、場所を移動して実践的な集中したワークに入っていた頃のものです。 ここでグルジェフは道を求めるということがいかに難しい事なのかという事を話しています。まず自己を知る事の重要性、いかに人間が自己を「知らない」ということを知らないのかということ。そして人がまったく自由を持っていないということ。それらをようやく認識した人たちがその状況から脱することをめざし、ワークをし始めるときに起こる数々の罠、障害。要約するとこれら3つのことが書かれています。 「我々が自己を知らない」ということについては、今までも「自己観察の必要性」としてかなりたくさん書いて来たので飛ばす事にして、まずは「自由」というテーマについて書こうと思います。 人間は自由意志を持っているのかということについては古くから哲学、最近では科学の世界でも(大脳生理学とかだと思う)常に議論されている問題ですが、哲学的な議論や、科学における認識というのはここではひとまず置いておくのが一番かと思います。グルジェフの世界では人が自由意志を持っていないというのは大前提でして、なぜそれが大前提になり得るのか(つまり議論を必要としない、当然のことになり得るのか)と申しますと、自己観察をある程度することができれば、グルジェフが言う意味での「自由意志の欠如」というのは我々誰にでも「事実」として見る事ができるからです。 次回も自由意志の欠如について話を続けていこうと思います。 どうも。ながらくご無沙汰しておりました。
第3期については初めてみたものの、ブログのテーマとしてはまったく機能しないコンセプトで(前々回の記事参照)、結局「自爆」という形でブログでの活動は終わってしまいました。 生活の中で第3期的な活動を、つまり自分の向上のことに集中しすぎず、他人の向上のために自分の能力を使うということをしてきたのですが、これは実に奥深いことでした。これを突き詰めていきますと、自分の人生、また芸術家としてのあり方が問われて来て、僕はそのためにまた自分の芸術家としての姿勢をあたらめなければならないという問題を発見してしまいました。 こうしてやってきて今までのところそういう活動がどれほどうまくいったかはわかりませんが、こういう行動がある意味では自然な自分自身の行動原理に近づいて来たところで、また別のことを始めようという気持ちが起こりました。 第3期の初めに書いたようにあの頃から秘教に関する本を読まなくしていたのですが、最近になって僕のこよなく愛する「グルジェフ氏の本」をまた読みたいと思いまして、昨日移動の際に持っていって読んだのでした。まあこれをせっかく読むならまたこれを読みつつブログの記事を書いていく方が自分にもよく刻まれていくだろうと思ったのでした。 そんなわけで第4期です。 「グルジェフ弟子たちに語る] "Views from the real world : Early talks of Gurdjieff as recollected by his pupils" という本の第1部は飛ばしまして、第2部からゆっくり読みつつ記事を書いていこうと思います。 (うう、日本の文章がうまく書けなくなっていますねw。じきに慣れると思いますので、しばらくはご容赦を・・。) それにしてもブログを書くとなるとどうしても「たわごと」になってしまいますね。つまりは真実を書く事はできないということで、こういう風に文章を書いていると、自分がいかに自分を飾ろうとしているのか、また自分のことを正当化しているのかということがよく観察されます。 言葉にしてしまえばすべてがそうなのかもしれません。真実と言葉との間には大きな壁が横たわっているという事なのでしょう。 まあ、仕方がないですね。僕たちが人間である限りはそれは変えられないのでしょう。 そんなわけで、冷静に、客観的に、結果のようなものを期待せずにただ自分がグルジェフ氏の言葉を自分に深く刻んでいく為にこの「第4期」をやっていきたいと思います。 |



