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前回に書いたように、ここのところ社会にアクセスすることをテーマにしていまして、なんだかんだといろいろな方向にアクセスを試みてみました。そんな中で得たいろいろな情報から今まで見えていなかった視点を見つけることができ、自分の状態を見つめ、そして思ったのは死ぬ事が怖いということでした。それは結局何のために生きているのかが本当にわかっていないということと同じ意味をもっています。
まったくそれがわからないまま、ただ死んで行く。 我々が普段享受しているような喜びや楽しみに、別の言い方をすれば、我々が普段「執着」しているような喜びや楽しみにはまったく絶対的な価値などありようがないことは簡単に見て取ることができます。自分たちの喜びは自己顕示欲の満足や、虚栄心の満足にほとんどすべてが依っているように思われます。お金があって、人にうらやましいと思われ、他人に尊重され、異性にモテていれば人は間違いなく「幸せ」を感じるでしょう。おそらくは自分を見失うほどに幸せを感じる。それは僕も全く例外ではありません。そしてこれらは単純に自己顕示欲と虚栄心の満足による幸福感なわけです。 そういった幸福感を満たしてただ生きて、そして死んで行く。それが我々現代人の目指していることで、そんなことを目指して生きている我々は実に気が狂っていると言えないだろうか? このままの状態で、自分が死んで行く。その死が非常に怖い、とそういう感覚が最近ちょこちょこと起こったのでした。そこにには何も残らず、自分の意志というものが存在していないということがはっきりとわかっている今、それならば、自分というものも元々存在していないという感覚にすらなります。自分が存在しないのだとすれば、今まで大事にしてきた、また今大事に思っている、つまり執着して手放す事のできない感情のすべてが意味をなさない。それはすべて自己に依っているものだからだです。自己という空想、実際には存在していない「自己」というイメージによっているのわけです。 だから今までもずっとグルジェフのワークを通してほんとうの自己を得たいと願って来ました。しかし、そう簡単に言ってしまえないのがこのワークでした。自分はほんとうの自己の獲得を目指している、と言ってみても。そう言っている本人が偽物の自己であって、その偽物の本人自身は自分の存在をまったく疑っていない。その存在しない自己によって、いくらほんとうの自己を得たいと願ったところで何も起こらないということは、今までそういう願いを持ち続けていたからよくわかるのです。 そうしてもう一度ここに戻ってくることになります。「自分はどこにも存在していないのだ」という事実。そしていかにして「存在」するのかというのが、もっとも大きな問題として浮かび上がってきます。それは「死」を考えるうえで、また死に向かっていくために、どうしても解決しなくてはならない問題。そしてそれこそが「生」の問題だったのです。 こういった認識そのものが、このことを感じている瞬間にしか意味を持つ事ができません。こうして自己は入れ替わり続けているわけですね。もしもこのような死を実感するような状態が、継続的に持続するなら、もう少し違う存在になれるのかもしれませんね。 また非常に長い事更新をしませんでした。
今の心境というものを正直に申し上げますと、僕がグルジェフの研究を通して探そうと思っていたものはだいたいは探し終えたのではないか、というところです。もちろんそれは高次の存在を得るというような大それたことではないのですが。 今現在、興味があるのは、自分がこうしてグルジェフの研究を通して見つけて来た、また肉化してきた認識を、いかに現実の世界に提示できるのかということ。それは音楽家としてのスキルと芸術家としての意思とを総合して、何か別の枠組みで、別の方法論で自分が何かを現実的に提示していくことなんですね。 そういうわけで、僕の研究の対象が、今までは常に自己に深く入り込み何かを見つけることだったところが、今は、それを材料にして、いかに外の世界に、社会にアクセスできるのか、しかも、まったく今まではなかった方法でいかにしてアクセスできるのかということに変わって来たわけなんです。 そういう研究はもちろん他人との共通言語、共通理解を探す過程にもなりますので、結果として、一旦はグルジェフの研究をを離れざるを得ないところに来てしまったわけです。 といいましても、グルジェフの研究から離れるということは、ワークから離れるという意味ではありません。というのも、この「世界に働きかける」という行為そのものが、僕にとってワークのさらにアドヴァンスな取り組み方であり、それはワークの最終目的である、単一の自己を手にすることへの新たな一歩であるからです。まあ言い換えるなら、ここからは理論的に、また言葉の上でグルジェフを研究することよりも、今までで自分に肉化してきた認識と理解をもって、現実社会でより大きくこの「力」を使用できる場所を、またその方法を探すことが重要であると、そういう状況になってきたということなんだと思います。 それがここのところ更新をしていなかっただいたいの理由です。 まあ、とは言っても、これからもいままでと同じようなペースではありますが、少しずつこのブログも更新していこうと思っています。どういうことにしても、僕にとってグルジェフの理論は世界を理解するうえでの根本を為すものですし、今、まったく違う事をやっているからこそ、たまにそこに立ち返っていくことも重要だと考えるからです。 こうして僕が向かって来た方向は、グルジェフィアンである表現者、芸術家たち。ピーター・ブルックやグロトフスキーのような人たちが取り組み、実現して来たことと近いことなのだと思います。僕になぜそんなことを実現させたいという意思があるのかということは非常に大きな謎なのですが、それが何と言うか芸術家の宿命なのかもしれません。避けられない何かなんですよね、多分。 自分の中に蓄積した物は、なぜか社会的に実現させなくてはならないと考えてしまうという、そういう避ける事のできない意思。自分を卑下して言うと、オブセッションみたいなものなのでしょうか。 |


