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ここのところ欲求について考えることが多くなりました。
欲求という言葉について、まずは少し定義し直さないと話は難しいですが、 我々が常に欲求と呼んでいるものでは、実際に我々の全存在の中にある「欲求」そのものを指し示すことはできないと考えております。 というのも、このブログでは再三話をしてきましたが、我々は完全に分断された状態で生きており、統一した自己というのを持ってはおりません。そして、我々の意識の状態があまりにもあやふやであるため、また一日のうちでも「意識がある」と言える状態がほんの短時間しかないため、本来は自分の欲求に気付くことすらできていないわけです。 それでも我々がなんとなくこれが欲しい、これがしたいと思っているものがあるのは、我々が持っている多くの自己の中の、単に習慣的に欲求に関して意識されている部分(それがどこかは個人によりますが)が、なんとなく習慣的に欲している欲求にすぎないと言い切ってしまうことができるでしょう。 では、本当の欲求はどこにあるのか、という話になりますが、これは意外と簡単に言えてしまうことがあります。今現実にやっていることが、その人の本当にしたいことなのだと、かつて僕の師だった人はよく判断しておりました。 グルジェフ自身もそのように考えていたようなことを「奇跡を求めて」の前半部分の、ワークが始まる経緯、ペテルスブルグのグループのできあがる経緯を見るとわかるように思います。 グルジェフはペテルスブルグのグループが始まった当初、本当に自分のシステムを学びたい者を選り分けるのに、講義の時間、場所などをぎりぎりまで誰にも話さず、ほんの数時間前になってから、ようやく連絡するように指示していました。そのおかげでほとんど講義に来れない人間も当然多くいました。ウスペンスキーがそのことについて、「それでは郊外に住んでいる連中はほとんど参加することは不可能です」と話すと、グルジェフはこう答えたようです。「来れない人間は放っておいてもかまわない。本当に講義が聞きたい人間は、必要な時間にかならず電話が鳴るのを待ち構えているものだ」 そして事実、どんな条件をつけても、中心になるメンバーはほとんど必ずそこに集まる事ができたようです。 話を戻します。つまりは「ワークがしたいし、常に意識を保ちたいと思っているが、仕事が忙しくて、毎日へとへとに疲れてしまってどうもワークに身が入らない」というような種類のいい訳は一切通用しないということです。その人がワークをしないのは、忙しいからではなく「休みたいから」なのです。 これはもちろんワークに限ったことではなくすべてのことに対して言える事です。仕事についても同じですし、学生なら、また何かを学びたいなら、勉強についても同じです。そしてダイエットに失敗するのも、その人が痩せたくないから、逆に言えば食べたいからであり、だらだら生活したいからですし、タバコをやめられないのも、本当はタバコをやめたくないからだと言ってしまうことができます。 これは非常に乱暴だし、あまりにも厳しいものの言い方に見えますが、かつての師のそういった判断を見て来て、またそのような視点からわりと長いこと(7年ぐらいになるのか)ものを観察して来て、僕自身もそれは本当のことであるとほとんど確信するようになりました。 つまり我々のまったく発達していない意識では、自分のしたい事を自分の中から見つけ出す事はほとんど不可能ですが(それは自分たちが複数の自己を認識する事ができないからですし、また深層の意識、または「本質」をみることもまったくできないからです)、自分のとってきた行動、また他人の行動をみれば、その結果によって、いったいその人が本当は何をしたかったのかが、小さいところでは常に現れているのだということです。そして自己の、または他人に対する観察が長いスパンで行われて、総合的に判断できるなら、大きい意味でもその人が本当に何を欲しているのかを見る事はできるということでもあると思うのです。 このような視点から人間の、自己の、知人の、またニュースなどで耳にするまったくの他人、そして集団などの欲求を見て行きますと、人類に関するまったく新しい見取り図が現れるような気がします(これは大げさな物言いか?w)。 現代社会に生きている我々は、表面的には、社会的にまた道徳的に与えられた欲求をなぞるようにしか生きていません。そして、普段我々が知っている、または感じている、人々の欲求のあり方は、年齢や、社会的な層によってだいたい判断できるようになっております。ティーンエイジャーは10代らしい欲求を持っていて、学生は学生らしい欲求、大人にはれば、その人が属する社会的な層が持つべき欲求を持っているように見えます。少なくともそのように振る舞うように社会に強制されてみな生きております。 しかし、行動の結果現れている、それぞれの人の本当の欲求を見ていこうとすると、実は人はそれぞれ驚くほど違う欲求を持っているのだということが見えてくるのです。 特に強調しておきたいのは、この視点から見ると「人間的成長」とでも呼べそうなものは個人によって恐ろしく違うということです。 これはどんな欲求がプリミティブ「原始的」な欲求でどんな欲求が発達した欲求であるのかという議論をしなくてははっきりとは言い切る事ができないのですが、ここではその議論を省いて、乱暴に僕の判断だけで言ってしまうと、社会に生きている我々の多くの人の欲求は、平均的には10代後半の子供が持っている欲求以上のものはほとんど持っていないということ。にも関わらず、人によっては非常に若いうちに、(特にそれは女性にばかりあるように思うのですが)例えば10代後半から20代の頭ぐらいの女性が平均的には40代の人でも持っていないような発達した欲求を持っている場合があったりすること。そして社会的に高い地位を持っている人や、有名な人間の中では、さすがに高い欲求もっているなぁと思わさせる人間と、まったく恐ろしいほど原始的な欲求しか持っていない人間が、まったくごっちゃにされ、同じ立場の人間として判断されていることが非常に多く起こっています。 僕の個人的なワークの視点から言いますと、自分の持っている欲求も小さなところを見るとあまりにも馬鹿馬鹿しいものが多く、そういったものをはっきりと観察するだけ自己を想起していたいと思う事、そして、本当に書きたかった事は、この欲求の社会的な側面なのですが、今回はあまり長くなってしまったので、このことはまた次回にゆずろうと思います。 |

