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私たちは人間は内なる世界と外の世界を持っている存在、別の言い方をすれば、内なる世界と外の世界を区別して認識している存在です。それぞれの世界はくわしく研究しようと思うと、我々にわかるようなことはほとんどないといえるほどの複雑な世界です。 そんな世界を我々はあまりはっきりとしない意識で捉えていて、そのはっきりしない意識故に、我々の知っている実在というのは実際のところ、あまりはっきりとしたものではありません。つまりは我々が内外の世界に「存在している」と確信しているものの多くはかなりあやふやなものであるということです。 さて、その我々のぼんやりした意識ですが、我々は内外どの世界にあるものもすべて意識的に、またほとんどは無意識の範囲内で「許容」か「拒絶」のどちらかの態度をとるようにできています。 例えば内なる世界のものでいえば、自分の精神的傾向、おおらかさ、大胆さ、勤勉さ、知的欲求などの傾向はたいがい自らに「許容」するものですが、意地悪さ、恨みっぽさ、だらしなさ、などは見ないようにする、まるで無きものかのように扱う、つまり自らに「拒絶」することが多くなります。自分の行動的習慣についても同じことが言えますし、思考的習慣についても同じでしょう。それから他人の態度、言葉、傾向などもすべてに対してほぼ自動的に「許容・受け入れ」か「拒絶」のどちらかの態度を瞬時に決めます。社会で起こること、自分のおかれている状況に対してももちろん同じです。これはこうして挙げていけばきりのないことなのですが、問題はそれほど単純なことでもありません。それは我々の意識できない何かに対してもすべて「許容」か「拒絶」のどちらかの態度をいつも決めているからです。 さて、最近の自己観察からそんなことに注目し始めたのですが、実はこれを観察し続けてみると、この決定は驚くほどに自動的に起こっているのだということ、そしてその自動的な決定は驚くほど恣意的で、まったく統制がとれておらず、自分のなんらかの目的に対して矛盾しているものばかりであるということです。 まず最初の恐るべき事実として挙げられるのは、僕は自分の内なる世界、つまりは自分自身のこと、また自分の持っているいろいろな傾向のほとんどすべてを「拒絶」して生きているのだということです。まず自分の持っている向上心そのものがそこに根ざしていますし、つまりは人生においてめざしているものも、自己のうちなる世界を拒絶するところから始まっているということです。そしてもちろんグルジェフに関すること、秘教的な世界の中に何かを求め、自己を変革しようという意思もこの拒絶から来ているわけです。 外の世界を見れば、社会に起こること、起こっていること、他人の行動、すべてにおいてこの拒絶が働いています。こうあってはいけない、こうであるべきであるといったこと、そのアイディアそのものがあやふやであるにも関わらず、ここには厳然とした拒絶があるのです。そして個人的に接する人間に対する態度も、おそらくは限られた非常に親しい友人をのぞいては、あらゆるところにこの拒絶が働いているでしょう。 そうして挙げていってわかるのは、ほとんどすべての存在、現象に対して自己が自動的にとるのは「受容」ではなくて「拒絶」であるということです。そしてその自動的な決定である「拒絶」は意思の力で容易に変えられるものではありません。というよりはそのうちの一つだけを挙げたとしても、よほどの努力をしない限り変えることはできません。 その事実をもってもう一度現実を眺めてみますと、実はこの世に拒絶するべきものなどほとんどないのだということが言えてしまうと思います。こうして見て行くと、この「拒絶」にわれわれの自動性の多くが依っているということが見えて来ます。 |

