2007/02/23 (Fri) もう一度、又は何度でも死んでしまうために
ダイエットのことについて書こうと前回の記事で書いたのですが、また例によって別のことを書きます。そのことについてはどうしても書きたいのですが、その話をする前に前回の補足をしようと思うのです。
僕が考えているこれから自分が築こうとしているもの、それにはまったく例える言葉がないので、ここに書くようなことは一切できないということを書きましたが、実に僕が今の状態にいたって(つまり個人的な苦しみから解放されるというふうに形容した状態のこと)自分自身の行として何をしていくべきなのかということは書けるのだということに気付いたからです。

僕がこの状態に気付き、今始めようとしていることを意識的に思いついたのはほんの2、3週間前でした。それは自分に課した行を約2週間にわたって続けた結果、やったことが皆、無意味だったいうことに気付いた、つまり自己のコントロールはまったく今の段階では不可能だということに気付いた後のことです(過去の記事を参照してください)。 しかし、ここに来てこれに気付けたことは本当に大きいことだったと思っています。なぜなら、今から考えれば僕がこの状態に至っていたのは長くて一年半、短く考えても半年前にはすでにそうなっていたにもかかわらず、今までそれに完全に気付く事ができなかったわけですから。そうして僕は1年半もの時間をまったく無駄に使ってしまったとも言えるわけです、なぜなら僕はすでに個人的な苦しみから離れていたにも関わらず、ずっと個人的な行を行おうとし続けていたからです。
もし師がいるならあの時点ですぐに今僕がやろうと思うような課題を与えたのでしょう。
まあ一年半というのは大げさかもしれません。一番最初に自分が他人が苦しんでいるようには苦しんでいないというのに気付くような出来事があったのが一年半前だったのですが、そこからすぐに何かが始められたわけではないだろうから、まあ、それで無駄にしたのは短く見積もったら半年ぐらいだろうかと言った訳です。


今僕が本当に必要だと思う事は、自分を殺してしまう事です。これは秘教の言葉なので本当はこんなところで使っていい概念じゃないのかもしれませんが、理解したいように理解してもらってかまわないです。今の自分の状態を次の次元に高める為には今あるものがそのままよく磁化すればそれでよいということではないと感じています。そうではなく、いまあるものを完全に亡き者してしまう。自分が作り上げたくだらない幻想、意識、無意識すべてに浸透している空想、それによって成り立っているいろいろな習慣を本当に破壊しないことには必要な物は得られないということが非常によく理解されているんです。その為に必要なのは何かといえば、このブログの読者さんなら僕の言わんとしていることはもうだいたいお分かりと思いますが、それは死ぬような苦しみなんです。 ・・・一見矛盾していませんか? 個人的な苦しみから逃れた自分に必要なものが、さらに死ぬような苦しみ・・。でも矛盾じゃないんです。
個人的な苦しみというのは実はまったく苦しみではないのだと、この視点からは言えるのかもしれません。世界始まって以来のことだと思いますが、すべての預言者は苦しんでいます。有名な苦しんでいる人を挙げれば、モーゼ、エレミア、エリア、イエスとかみんな驚くほど苦しんでいることを描写されていると思いますが、これはまったく個人的な苦しみではないんです。つまり僕が今から得たいと思う「死ぬような苦しみ」というのは預言者たちが共通して持っていた驚くほど大きな苦しみ、つまり「意図的な苦しみ」なんです。
実はここに来て、この個人的な苦しみとの対比の中で、自分にはこの「預言者の苦しみ=意図的苦しみ」の正体が少しわかって来たような気がしているんです。
彼らは誰一人として自分自身の事を心配して、また自分の将来の事を不安に思って苦しんではいません。しかし彼らは他の誰も体験したことのない苦しみを人生かけて受けているのです。それは何かといったら結局「個人的な苦しみ」ではなく、「人類のため」、また本当は「宇宙のため」に苦しんでいるわけです。その苦しみの大きさは個人的なものと比較できないものなのでしょう。それはここのところ何回か考察してきた、利己的行と、利他的行の差とも平行して考えてよいと思います(少しスケールが違いますが)。
で、こういった苦しみがなければ自分を破壊する事はできないと強く思う訳です。こうして僕が生きていてすべての瞬間に浸透している「自分を護る心」、「自己愛」がここに居座っている限りは、自分の目指す物は何一つ手に入れることができないということは確信を持って言えるからです。

この発見は大きかったです。自分がその預言者たちが持っていた苦しみと同じ物を目指してどこかに飛びおりようとするということは、まったく大きなことばかりでなく、むしろあらゆる日常の小さなこと、身の回りにいる友人、道を歩いている人たちの苦しみの中に入り込む事で、実に手近なことであり、すべての日常の瞬間に実践を積み重ねていく事ができるものです。それが大きくなっていったときには、エレミアのような苦しみをも手にする事ができるかもしれないし、その結果、自分の破壊したいものはおそらく大分破壊できるだろうと思われる訳です。 加えてその発見がなぜそれほど大きかったのかと言うと、実はこういった日常に浸透したまったく利己的でない行を使えば、今まで自分が暖めて来た芸術的大計画を実現することも自分の力で可能であるということを確信したからです。
これは自分のことに関わるのをやめるということを思いつかなかったら、まったく実現不可能のままただ中に浮いたアイディアになっていたことだと思います。


てなわけで、僕は自分自身のことにかかり切りになることを一切やめると宣言しておきます.
なぜならそれでは退屈でしょうがないからですw。暇つぶしをする人生は選びたくないですから。
数日前にこれ、友人に真剣に言った言葉ですが「ちょっと真剣に手助けしてあげるよ、なぜかって退屈だから」ww
これは決して、美徳のためとか、いい人になりたいからとかじゃないんですよ。「退屈だから人助け」って結論面白くないですか??w
しかしこの場合「人助け」というのは人にいい思いをさせるとか、喜んでもらうとかそういうことを直接指してはいません。どんな人間にでも、その存在にあわせて、ほんの少しでもその人の存在のレベルをあげるために、全力で努力をすること、そしてそのために(そのためだけに)苦しむことそれが僕の言う人助けです。つまりそれは結果的に、相手を引き上げるがために意図的に不快な思いをさせる必要もあるかもしれないし、人が壁を越える為に必要なショックを与えるためだったら自分が強烈な「悪者」になる必要だってある時もあるはずです(愛するが故になんたらってなんか不動明王とかみたいですねw)。いや、実はそれこそが、グルジェフが、また僕の師がいつもやっていたことなのだと思います。その葛藤の中にいれば、当然ものすごい苦痛が自分に起こるでしょう。しかもそれは完全に自分の為にある葛藤でなく、一切自動的でなく、完全に意図的な葛藤になるわけですから。これが本当のパートクドルグ義務と言えるのだと思います。

それでまず何をするのかといったらそれが前回に書いた「ダイエット」なのですが、ある意味これは突拍子もないことに思われると思うのですが、まあ次回をお楽しみにしていてください。

そんなわけで、ベルゼバブの孫「第3期」はまあ、また大分雰囲気の違うものにしていければと思っております。


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