2007/11/09 (Fri) 断片
先月、ツアー中に記事を書いていたのですが、グルジェフの講義以外のことをこのブログに書くのを避けたかったために、結局上げなかった記事がありました。たまたまこれをちょっと読んでみたら、ちょうど前回上げた記事の内容を少しくわしく解説している部分もありますし、感情センターについて書いたことに関しては、これから書こうと思っていたグルジェフの次の講義の内容につながる部分もあるので、ここでアップすることにしました。記事は断片のようになったままですが、参考程度にお読みください。








ここのところ、ツアーなどが続きまして、ブログの更新も大分ながいことできない状態が続きました。いままでも何度か書きましたが、むしろこういう時にこそ、実は研究そのものはすごくよく進むのです。というのも、ツアーなどでは予測のつかないことが多く起こりますし、いろいろな人たちに会い、そういう人たちと一定期間一緒にいることを通して、日常生活では期待できないようないろいろな種類の刺激があるからなんですね。そういう予測のつかない刺激があったときに自分に起こる感情などを観察できると、まったく予想持つかない視点からの観察ができることがありますし、他人の観察もまったく違う環境で、また全く違う環境で生きて来た人たちを見る事ができるわけですから、取り込む事のできる印象の量が大分違うわけです。そして移動中には自分の読みたい物をじっくりしっかり読む事もできるわけですから、研究の環境としてはとてもいい環境なわけです。






今、改めて、人間の感情のエネルギーというのはなんなのかということを考えています。普段おそらくは多くの人が意識していないこの感情のエネルギーなのですが、これは実はどの人間にも存在していて、行動の中心的な力になっているはずだと思っているのです。
普段自己を意識している状態というのは、これは必ず自分の思考をもって意識しているわけで、実はそれがゆえに我々が自分の感情の状態に気付いている状況というのは、通常、実にまれにしか起こっていないというのが現状だと思います。にも関わらず、感情センターというのは常に作動していて、しかも我々の生活の多くのことを決定しています(それに気付く事ができないというところに、我々の自動性の根があるのだと考えることができるんですね)。ここで言う「感情的エネルギー」というのは私たちが普段「感情的」という言葉をもって表していることとはまったく別のことです。「感情的である」というのはネガティブな言葉ですが、事実この言葉が表しているのは、グルジェフの世界で使う「否定的感情」のことです。しかし、興味深い事に、我々は「感情」ということついて、驚くほどに、この「感情的」と言われているもの、つまり「否定的感情」以外の部分を知らないわけですね。だから我々の通常の語彙の中にこれを表す言葉は当然ないわけです。
そんな「感情的エネルギー」について僕が考え始めたのは他人の観察の中で実は人が「考えていること」ではなく、実際に行動していることというのは、実にこの感情的エネルギーに突き動かされるようにしてい行動をしているのだということを感じ始めたからなんです。そうして自分の中にもこのエネルギーがあるからこそ、なんらかの行動を起こしているのだということが観察されてきたわけです。逆に言えば、このエネルギーがないことにはなんらかの仕事を片付けるのは不可能であると言えると思います。そんな感情エネルギーを感じるようになってから、ある意味では自分の行動についても自分の意志に「近い」ことを実際に行動に移せることが増えているように感じていますが、それ以上に、他人の感情センターのエネルギーに敏感になったために、予想もつかないところで、変に感動させられるようなことも起こりました。実に僕はそういうエネルギーが自分に向けられた場合、それをさけようとする傾向があることすら発見しました。それは実にポジティブなエネルギーでそれを共有するならは、他人との関係のなかで明らかに錬金術が起こせるはずなのにもかかわらずです。それは何か強すぎる力に対する、自動的な恐怖のようなものだと思うんですね。





人が理解できる事、受け入れる事が可能な事柄というのは、絶対に現在の自分の範囲内のものでしかありません。その原則は絶対に動きませんので、ここで簡単にこう言ってしまう事ができるわけです。そして、ここにもう一つ別の原則があります。自分の目指している、より高い意識の状態、存在の状態、またそれによって認識するべき世界というのは、必ず、自分にとって理解不能なことで、受け入れる事が非常に困難であり、かけらでもそれを受け入れるためには、今までの自分の世界観、価値観、などを破壊されることを覚悟しなければならない。この2つの原則から言えてしまうのは、自分が安定した気持ちでいる限り、楽なところでふんぞり返っている限り自分の目指している方向には絶対に進めない。まったく盲目な認識の世界に留まっている以外にないということです。
そしてここで再びでてくるのが、パートクドルグ義務ですね。意図的に苦悩することです。
ワークを今まで続けて来たなか、ある時点から、僕の人生は非常に軽く、ある意味では苦しみといえるようなものから、自分を離しておく事ができるようになってしまったんですね。それは単純に僕にとって物質的な楽しみよりも精神的な楽しみの方が強くなったために、多くのことに執着しなくなったこともあったと思いますが、苦しい事に自己同一化をしないということが少しできるようになっていたからかと思っていました。その頃思っていたことは、以前のようには苦しまなくなってしまったおかげで、ワークに対する熱意みたいなものを少なくなってしまったなぁということだったんですね。なんとなく人生が楽しいために、ちょっとぬるま湯につかってしまっているような感じ。楽しいからまあいいかというような感覚があったんです。
しかし、ここにきてだんだんにわかって来たことは、そういう状況にあって、自分は実は苦しみから、また自分が泥をかぶるような状況からいつも身をかわしていきたのだということ。そして、実はそうやって身をかわさないなら、いくらでも心が不安定になるような状況も呼び出す事ができることなんです。そして受け入れにくいような状況、事柄を意図的に受け入れるということはいつでもできるわけで、実はそれをするということが、自動的には苦しまなくなった自分が「意図的に」苦しむこと。だったわけですね。つまりはパートクドルグ義務ができる土台が整っていただけの話で、パートクドルグ義務自体はまさに「意図的に」することなわけですから、いつでもすることが可能だったわけです。嫌だなぁと思う状況、感じの悪い振動を送ってくる人、集団、場所などそういったところをさけずに、また自分が安全圏に逃げ込んでしまうようなことをしなければ、必要な苦痛と、感情的にかき立てられた状態というのは作ることが可能なわけです。

comment

はせいんさん、こんばんは。お久しぶりです(^^)

 研究は進んでいるみたいですね。

 感情の働きについて、本当にどれだけの人が理解しているでしょう。。。かくいう私もですが^^;
 私達は喜怒哀楽に始まる様々な感情に翻弄されて、あるいは助けられて(はせいんさん流には眠らされて)生きていると思い込んでいます。
 けれど実際には私達はたった一種類の感情によって動かされています。それは恐怖?あるいは驚きという衝動です。たった、これだけが、私たちを動かしている感情です。

 恐れによって突き動かされた心は、次の瞬間に思考回路にそのエネルギーを手渡します。そこで初めて判断が始まり、その瞬間に喜怒哀楽といったいわゆる感情として認識されます。
 一目ぼれもまさに半場恐怖をともなった驚きから発生し、過去の記憶に照らして、好きなタイプの異性と判断される。。。同じようなことが、全ての感情の中で起こっていると思われます。

 けれども、鈍感な思考は感情のスピードについてゆけず、何故、自分がその様な考えを持ったのかすら解らずに、後付の理屈で自分を納得させてしまいます。
 その理屈は全く持って矛盾に満ちた、的外れなものなのですが、一度理論的に説明が付いたと思い込むことで、その矛盾にすら気付こうとはしなくなります。。。
 このような仕組みが牢獄というものなのかな。。。と。よく思います。
 ですから思考とは言っても、結局感情のエネルギーに翻弄されているに過ぎず、本当の思考とはとても言い難い有様。。。


 私はこうした感情と思考の流れの中で、思考が感情に騙されずに、気付いている事こそ意図的な苦悩なのではないかとも思います。
 自分が(思考が)騙されていると気付く事は、思考にとってはこの上ない苦痛のはずですし。。。
 自分の行動や思いの理由付けを始めたなら、すでに思考は騙されているような気がしますね。。。^^;
 意図的な苦悩は、これに対して逆の経路を作ることなんでしょうね。

 ところで、はせいんさん。たまにはメール下さい(爆)
2007/11/09 19:56 | やわたうま [ 編集 ]
どうもです。相変わらず返事が遅くて申し訳ないです。
やわたうまさんのコメントにあるような、思考が認識違いをして、後から都合に合わせて勝手に意味付けをしてしまうというようなことを、記憶のことについて研究している学者さんで、東大の池谷裕二さんという方が、一般向けに本を出しているらしいんですよ。「脳は何かと言い訳する」という本らしいのですが、まだ40代になるかならないかという若い学者さんなのに、すでに30本とかの大論文をしあげているような超人的な実績を残している学者さんらしいのですが、こういう人を見ると、もしかしたらそういった秘教の思想を知っているのではないかなあと考えてしまいます。
秘教的な意識の考え方や、思考と感情の関係を理解した上で、それぞれの学者さんが、いろいろな分野で研究をしたらいろいろと面白い結果がでそうな気がするんですけどねぇ。秘教には今の科学にとってはかなり興味深い仮説にあふれていますからね。

またよろしくお願いします。

2007/11/14 06:21 | はせいん [ 編集 ]
お久しぶりです。LAです。
はせいんさん、お元気ですか。

自分も芸術活動をしていますが、どうしても自分の意に則さない状況になったりした時に怒りで自分らしさを守る行動にでてしまいます。つまり、そこから逃げ出すということです。

例で言うと・・・資金を出す側の人間から「お前の金玉をぎゅっと握って、意のままに動かしてやる」というような事を言われたとき、こんな最低な人間とはやってられないと怒り一緒にいることが死ぬほど嫌になるのです。そして「飯がうまく感じない事はやらない」とそのプロジェクトを投げてしまいます。。。つまり”好きなことしか出来ない性格”が続いていました。冷静に考えてみれば、お金を出す方は自分の血を売るほどの決心がいるのかもしれず、思わずこんな言葉を吐いてしまうのかもしれません。

しかし、この状況下にいる自分がとても小さく意味のない存在になったような気になり、何も行動できなくなってしまいます。これを意図的努力で、パートクドルグ義務として乗り切ることが出来るか疑問です。こんな時に無理をして行動したこともありますが、体の中に力が溜まるというよりは体の力が抜けてしまう感じです。そして終わった後に大きな疲労感が残っています。

そこで最近は、違う方向で行動するようになりました。ちょっと、抽象的になりますが・・・
そういう状況下で動く自分の欲望(逃げたり反発したり)を、うまく前向きに消化させること。とでもいいましょうか。つまりいつもと同じ反応をしようとする自分の欲望(感情)を一度我慢させ(これをすると胸の中にモヤモヤした嫌な感じが残ります=しかし自己同一化は避けられます)、その時に真の目標に向かい(つまり仕事としてはうまくお金を得ることです)そのモヤモヤ残っている欲望(感情)(負の感情?)をガソリンにして目標まで向かうのです。すると目標に達した時に胸のモヤモヤは消化されてまったく消えてしまっています(使い切ったという感じ)。悔しさをバネにしたというような感情的なヒート感もなく、疲労感もないのです。ただ心の中が空になった・・・とこんな感じなのです。時には、私は何もしなかった・・・何をしたのか思い出すことも難しくなるのです。

これがグルジェフに怒鳴りつけられるような感情の間違った使い方か、正しい使い方なのかは分かりませんが、
間違った方向で自分が凝固してしまうのは、避けたいと思っています。

はせいんさんは、自分の意に反した行動(芸術活動しかり)をされる時にどのように意図的努力をなさっているのかに興味があります。もしよければご意見ください。
2007/11/22 08:14 | LA [ 編集 ]
うまく書けなかったのですが、反する相手の意見に、反発すると疲労が溜まり、迎合するとストレスが溜まってしまうと言うようなことです。ですからその時沸きあがった自分の負の感情(目的に対しての)を一度そのまま止めて、目標へのエネルギーの一部としてそのまま使ってしまうようなことだと思います。うまく書けなくて済みません。
2007/11/22 17:54 | LA [ 編集 ]
LAさん
コメントありがとうございます。

そうですね、一言でパートクドルグ義務といっても本当に難しいですよね。僕もいろいろな実践をして来ているので、LAさんの問題に思っていることもだいたい想像する事ができると思います。
ここで少し上から物を言うようになってしまうことを許して頂きたいのですが、今LAさんがもっているような問題から見て行きますと、実際にパートクドルグ義務を遂行する、つまり感情的なワークに入って行くためには、かなり多くの自己観察を繰り返して、いろいろなワークの理論を「実践的に」深く理解していくことが非常に重要になるような気がします。その深い理解、日本の古い言葉を使いますと”体解”のようなものがあってはじめて、パートクドルグのような感情的なワークを消化する(まさに消化して自分の身にしていくことです)ことができるようになるような気がいたします。

グルジェフが語っているように、人間という有機体は恐ろしく複雑にできているようです。だから、ちょっとした無理な力をかけただけでも、大きくバランスを崩してしまって取り返しのつかないことになるということもよく起こると思います。
だから、真の指導者のいないワークでは、どんなに焦る気持ちがあっても、無理な力をかけないことが非常に大切になると思うのです。
ある意味では、自己観察に徹底的に取り組んで、その持続時間をなるたけ長くするようにすれば、自己想起の状態をたびたび呼び起こせるような可能性もでてきますし、もしかしたらパートクドルグ義務に関しては、その結果として自然にそこに向かって行くような場合をのぞいてはあまり無理に挑戦しないほうがいいのかもしれないと思うのです。

僕も芸術家なので、そのようなお金と、仕事、そして芸術との関係の中で板挟みになるような状況、よくわかります。僕もそういうことでおかしいほどに憤ってしまうようなこともあります。
グルジェフ氏が指摘している、人間が常にもっている傾向の一つに「難しい物からやりたくなる」というのがあるのですが、これはまったくその通りで、我々がワークを志す場合、自分の小さな馬鹿さ加減に気付かずに大きな問題に取り組もうとしてしまう傾向があると思うんです。しかし、実は小さなくだらない習慣こそが自分を害していて、大きな仕事をするエネルギーをすべて奪ってしまっていると思うのです。

そんなわけで、実践法としては、何か難しい課題で自分に大きな負担をかけることをせずに、小さい意識の継続時間を延ばす方向にもって行くのがいいように思います。
それが少しでもうまくいけば、自分にエネルギーが残るようになるはずなので、いずれ自然なかたちで、大きな仕事をこなせるようなところにもつながってくると思うのです。(3層の工場の理論を思い出してみてください。エネルギーが存在する場合は必ずそれに見合ったことが起こるわけですから)


このような公開されたところでは、書きにくいこともあるかもしれません。もし話が込み入ってくるようでしたら、メールフォームのほうに一度送っていただけたらと思います。

道はあまりにも長いですし、お互いに助け合って実践してまいりましょう。これからもよろしくお願いします。


2007/11/23 09:17 | はせいん [ 編集 ]
丁寧なアドバイスをありがとうございます。もう一度”3層の工場の理論”をよく読み返してみます。助かります。ありがとう。
2007/11/23 18:34 | LA [ 編集 ]








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