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もうずいぶん長いこと経ってしまいましたが、いままでもやっていました「グルジェフ弟子たちに語る」からの講義について書いていこうと思います。基本的なことに関して語られているところは、今までこのブログで書いて来たことと、またその他の本とも重複してしまうことが多いので、こないだの講義から少しとばしまして、第2章の4つ目の講義について書こうと思います。これはパリで1922年の8月にされた講義で、この本では「片寄った発達」と題されています。
「ここに集まっている、あなた方各人の内面の機械のうち、一つだけが、他の機械よりも発達している。3つの機械の全部が発達している人だけを、完全な「人間」と呼ぶことができる。一方に片寄った発達は有害でしかない」 ここでグルジェフが言う、3つの機械とはもちろん、思考センター、感情センター、本能・動作センターのことです。どんな人間もこれらのセンターのどれかが発達しやすい傾向をもって生まれてくるのですが、意図的な努力なしではこれらの偏向を変えることは不可能であるために、通常、人は皆この生まれもった傾向、タイプのまま世界を見、そのまま一生を終えていきます。 そこでグルジェフが上で語っていることをもう一度考えてみるとわかるのですが、ここでグルジェフ氏が言っているのは、すべての人間がまったく有害な状況のまま生きていて、解決策も知らず、またそれを解決する必要性も理解していないまま一生を終えている、ということも同時に意味しているわけです。 この講義の内容をある程度、自分の身になるほどに理解するためには、これら3つのセンターの機能を自己観察によって、自分の生活、行動、また習慣の傾向と合わせて自己の中にはっきりと認識することが不可欠ですので、今、ここで扱っている内容もかなりアドヴァンスになってしまうかと思います。とはいえ、自己観察の第一段階をすでにクリアーされて来た方々にはこの講義はすごく参考になるように思います。 ここでグルジェフはそれらの例を挙げていますが、興味深い事に、ここで彼ははっきりと、思考センターのことを「人格」、感情センターのことを「本質」、本能・動作センターのことを「肉体」と言っているんです。実はこの「基本的な三つのセンター」の理論と、「人格と本質」の理論を一つにして考え、文字通りに受け入れようとすると、いろいろなところに矛盾がでてきてしまうのです。しかし、実にグルジェフのワークの場合、こういった矛盾の中にこそ、言葉にすることのできない真実が含まれているので(真実はどんな場合にも言葉にすることはできないわけですから)、この二つの矛盾する事実を受け入れた上で、それを実践的なワークによって解決していくことで本当にグルジェフが意図していたことをつかむ事ができるように、実は意図的に作られているんですね。 実にこのことについては、僕自身がこれまでのワークによって理解して来たことをここに解説する事は無理だと思いますし、無意味であると言えると思います。というのも、この矛盾をこのままにしてあるのは、この矛盾を埋めることができるのは個人的な自己観察とワーク、体験によって知るに至る”何か”でしかないからです。こういう何かをグルジェフ氏は「肉化させること」と呼んでいるのですが、まさにその言葉の通り、何らかの「理解」が自分自身の「肉」であるかのように、現実で可視のものとして常にそこに存在している状態であることなのです。つまり通常の「理解」のように、自分の気分次第で消えてしまい、機能しなくなるような理解では不十分なわけですね。そしてこの類いの理解を通さなくては認識できない事実というのは、通常の論理でものを話した場合には、絶対に他人と共通の認識を得る事はできないのです(だからこそ、それらは秘密のまま保持されざるを得ないわけですし、ここでそういうことについて書く事も無意味になるわけです)。 ただ、ここで終わりにしてしまうのはあまりにも何なので(w)僕なりに大枠だけを書くことにしますと、「人格」と呼ばれるものの中枢部は「思考センター」に存在していて、「本質」の中枢部は「感情センター」に存在していると言ってしまってもかまわないのかと思います。そして各「基本的3センター」はそれぞれがまた「思考」「感情」「本能」の3センターに分離していて、それぞれの機能を持っているということを、グルジェフがほんの少しだけもらしているところにもヒントが隠されていると思います。センターの機能というのは一見するよりもかなり複雑な機能をもっていると思ってもいいと思うのですが、それらの複雑な機能が現実の生活のなかのどういう部分に現れているのかを少しずつ発見して行く事で、その複雑さの中にもそれそれに傾向のようなものがあることがわかると思います。そういった観察の中から、この「基本的な3つのセンター」と「人格と本質」も互いに浸透し合っているということが矛盾なく見えてくるように思います。しかしそれをどういう風に見るのかは、今回書いたように完全に個人的なワークに依っていて、そういったワークなしに他人が伝えられるものでもなければ、他人から教えてもらえるものでもないことなのです。 この先も、この講義でグルジェフはいろいろと興味深いことを語っています。 それはまた次回からにしたいと思います。 実は、私は遠距離恋愛の恋人と別れまして、しかしすぐ
苦しさから逃れるように別の女の人と付き合いだしました。いつも失恋した時というのは、思考、感情、体とバラバラになってしまうのですが、今回もそうなっています。そうなると、頼れるのは思考=違いを見つける機能、感情=好きか嫌いか、肉体=唯一完璧な機能を持つ物。というのをまざまざと感じられる状態だと思います。この状態で、自己想起は難しいのですが、自己同一化は避けられると思います。もう少しこのまま自己観察してから、ライフワークの芸術に戻ってみようかと思っているところです。はせいんさんの言う「肉化」を体現できたら、こんなバラバラ状態にはならくなるのかも知れませんね。大変、興味があります。また色々聞かせてください。
2007/12/05 18:16 | LA [ 編集 ]
そうですねー。僕もこれほど自分の目的にどっぷり浸かっているにも関わらず女性への興味は全然尽きませんねw。そういう言い方をするのも、僕の場合こういったワークをすればするほど、女性への興味と自分の本質的な興味とか離れて行くように感じているからです。だから僕にとっては女性との関係は二重生活のように感じるんです。そう、にもかかわらず、女性との関係は非常に心地がよく、コントロールしているつもりでも(二重生活は結局、情を移さない、つまり自己同一化をしないということでもあるわけですが)、振り返ってみると、まったくコントロールができていない、非常に厄介な問題ですw。
まあ、それほど深刻になる必要もないかなぁと思っているんですけどね。なぜって、女性との関係があるにしろないにしろ、僕は今でも完全に自動的な存在なのですから(それだけはよくよくわかっております)。 trackback
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