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最近人間が持っている固有の振動について、考えることが多くなりました。
我々は意識するしないに関わらずいろいろな種類の振動を発信し、また他人から環境から天体から宇宙から固有の振動を受信しております。実はこれらの振動によって、我々に起こるすべてのことが決定されているといってもいいほどでしょう。戦争が起こるのもこの振動の結果、文明が興り衰退するのもこの振動の結果、国家が盛衰するのも、我々個人の人生も、日々に起こる不快なできごと、うれしいできごともこの振動に左右されています。 我々が個人的に持っている振動も一つではなく、複数存在しております。それはもちろんそれぞれのセンターが持っている固有の振動です。大きく言えば思考センターの振動、感情センターの振動、動作センターの振動の3つ。さらに言えば、本能センターと、非常に大事な性センターの振動もあり、これらの振動は我々のなかで非常に矛盾して存在しており、通常まったくオーガナイズされていないために我々に起こるできごとも、支離滅裂、むちゃくちゃなことばかりが起こってしまっているわけです。 動作センターの持ってい振動は意図的な運動をすることでわりと簡単にオーガナイズすることができるように思います。通常ワークではもっともコントロールをすることが容易である身体を使って、他のセンターの振動に影響を与えていくというアイディアがあるほど、もっとも簡単にオーガナイズできるのが動作センターの振動です。 これは運動をしてマッチョになるとかとはまったく違う意味なのですが、簡単に言えば身体のもっている意識の力と言えるかもしれません。不思議な事にこの動作センターがしっかりした振動を持つようになるだけで、ほぼ無条件に異性に興味を持たれるようになります。人は無意識にそういった振動を「セクシー」と感じるようです。そういった「意識のある身体」は、自然に非常に柔らかく、無駄な力を使わずに、しなやかに動き、まただらしなさがなくなりますので、その動きだけで充分に異性を惹き付けてしまえるのでしょう。例えば、女性のファッションモデルなどが、たいしてきれいな顔をしていなくても、実際に見ると信じられないほど美人に見えるのもそのせいだと思います。女性のファッションモデル(男性のモデルはたいがい非常に悪い身体的振動を持っています)の場合、身体が売り物だからなのでしょう。インタヴューに答える時にすら、身体の感覚を強く持って答えています。そういった身体の意識の強さが、身体的な良質な振動と非常に強く関わっているように思います。 僕の場合個人的に、身体についてはかなり多くの訓練をつんできたので、今はより別のセンターの振動に興味があります。 感情センターに多くの刺激を送り込むにはパートクドルグ義務を遂行することが一番なのでしょう。これは結局「行為」することと言えるのかもしれません。つまり不思議な事に感情センターを活性化させるためには、他人の不快な表現の中に入って行かなくてはならず、そのためにはなんらかの行為をしていくことが必要になってくるわけです。これについてはやり方が大分わかってきた今になってはただ冷静に積み重ねて行くことだと思っております。 さてここで思考センターです。この思考センターの振動というのは非常に興味深いです。 シェイクスピアはこのようなことを語っていたようです。 「我々の思考は意思次第でどこへでもたちどころに飛んで行く事ができる」と。 彼の言い方だと、まるで彼は実際にどこかに飛んで行ってそこにあるものを見てくる事すらできたかのように思われるところが非常に興味深いと思います。そして彼の最後の戯曲「テンペスト」ではこのような台詞も出て来ます。「我々の現実と夢は同じ物質でできている」と。 話が飛んでしまってのでもとに戻しますが、一つ注意しなくてはならないのは、我々の思考というのは、我々が考えていると思い込んでいるだけで、実は通常まったくコントロールされていないということ、自動的に機能していて、勝手にいろいろなことを考えているだけなのだということです。そしてそんなまったくコントロールされていない思考が、勝ってにどこにでも飛んでいって、いろいろな影響を外に与え、また勝手にいろいろなところから飛んできていろいろな影響を我々に与えているわけです。こういうことを考えていると、思考センターと感情センターを区別することが非常に難しくなってくるのですが、もっとも興味深いと思われるのは、思考センターの感情部分と言われるようなもの、フランス語ならエスプリ(l'esprit)、ドイツ語ならガイスト(der Geist)というものです。僕の考えるにはこの思考センターの感情部分というのは、非常に大きな力を持っています。我々舞台芸術家が舞台の上で、通常ではまったくだせない何らかの力を発揮するのもこの力だと思いますし、作家や作曲家が作品を作る時に発揮するのもこの力でしょう。つまり意図的になんらかの仕事を、外の世界に実現させるときの動力になるのが、この思考センターの感情部分であると考えられるわけです。 そういった力を持つ、我々の思考と感情についてわれわれは少し慎重になるべきなのではないかと最近は考えるようになりました。そういう影響を考えれば、好き勝手に空想していてはいけないことをも多くあるような気がしてしまうのです。感情についてはコントロールすることは不可能なので置いておくにしても、不快な人間に対して、悪い意思を持つ事や、自分の快楽のために他人を犠牲にしても全く問題ないと考えるようなそういう思考を、行動に移さないからといってそのままにさせておいていいのか、ということです。それはどうも非常に如実に我々の身近にある出来事を左右しているように思えてならないのです。 それは「善人」であることを目指すとかそういうことではまったくなく、単純に自分の意志を実現するという個人的で利己的な目標を阻害することであるように思われることで、そういった思考を野放しにすることは「戦略上」非常に不利なのではないかという考えがうかんできたわけです。 はせいんさん、こんばんは。お久しぶりです!(笑)
聖書に「心の内で罪を犯せるものは、既にそれを為せり」という言葉がありますよね。この場合の罪というのを、その人の「目的に反する事」と定義しなおすと、まさにはせいんさんの仰る事になるのかな。。。 もし、心の内で行う事が、実際に行動したのと同じ事だと考えた場合、いわゆる「罪」を犯せば、相応の罰則があるわけですから、知らず知らずの内に、心の内での罪によって罰則を発生させていると考える事が出来ますよね。 物事にはすべからく、作用と反作用の法則が働いていますから。。。 実際この事は、私達が想像する以上に強力に私達を拘束しているのではないかと思います。 でも反作用のない世界を想像すると、反作用のない無重力のような世界では、これまた、別な意味で私達は身動きが取れなくなってしまいます(笑) 押した力と同等(同質)の力で押し戻されるとすれば、どの様な力で押すかさえ選べれば、どんな力を引き出すかを選べるということになるのかな。。。 いずれにしても、お元気そうで何よりです(^^) やわたうまさん
どうもお久しぶりです。早速のコメントありがとうございます。 聖書のこと、まさにそういうことですよね。 やわたうまさんはくわしいと思いますが、仏教で「意業」というのも同じ事なのかもしれませんよね。 僕もこの記事を書きながら3の法則について考えておりました。 我々のすべてのセンターがオーガナイズされるといっても、それはすべてが肯定的な力、つまり目的を達成する方向に向かうということはおそらく意味しておらず、3の法則にしたがえば、それぞれのセンターが、肯定、否定、中和の役割を実現した時のみ、なんらかの意志にしたがった結果が導けるということなのだと思うのです。 しかし、こういうことを感じるだけで、人生は非常に興味深いものに変わるような気がしております。そうやって見ていると、人間を見る事がなんと興味深い事か!w これこそ、ワークの副産物ですよね。まったく幸せだと感じておりますw。
2008/03/06 02:30 | はせいん [ 編集 ]
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