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どうもここに書いて行く必要もないのかと思わなくもないのですが、習慣に従って最近グルジェフのワークについて感じていることを書いてみようと思います。
今年に入ってからこのブログで宣言したように、本を読んだりしてワークについて研究を進める必要性を感じなくなってからここまで、パートクドルグ義務を中心として、ワーク(そう呼ぶ事が許されるなら)を続けて来た訳ですが、振り返ってみるとだいたい月に1度ぐらいずつ「痛み」という感覚を自覚する周期が来ているようです。正直な感想を言えば、まあ月に一度自分に戻る機会があるならまあまあかなと思うわけですが、一応パートクドルカー(造語ですw)として欲を言えば、2週に一回ほどとは言わなくても、せめて3週間に一回ぐらいは、「真の痛みに近い痛み」を自己に覚醒された状態で味わう事ができるなら、俺もまあまあじゃんなんて思えるのかもしれませんw。 ちょうど先週にもその「痛み」をしっかりと味わえるような期間がありました。そこでたびたび考えたのは、こういう痛みがある時以外の自分は、どうしてこうもすっぱりと自分の存在について忘れてしまっていられるのだろうということです。この「痛み」の状態ではめちゃめちゃに矛盾した自己というのがかなり見えていて、その自分という世界の現実と、外の世界の現実を同時に見る事で非常に「苦しい」と思うことができるわけですが、だいたい非常に長くても2日もすれば、通常の自分の意識に戻っていて、「痛み」を感じていた時には手に取るように、現実のものとして自分の中にあるいろいろな矛盾を見る事ができたのに、この(今もそうですが)通常の状態では、どこをどう探そうとしてもそういった矛盾を自己内に見つける事ができなくなっていて、何もかもがのほほんと、楽しく過ぎ去っていってしまうのですから驚きです。前々回これがあった時には、その「痛み」の感覚はなんの前触れもなく(すくなくとも僕の論理的な思考ではその直接的な原因をみつけることはできませんでした)やってきて、2時間ほどで消えて行ってしまったのでした。その時のことをはっきりと覚えているのは、そのちょっとおかしな意識状態というか覚醒状態というかそういう状態で(その感覚は意識や感情の統制がとれていないという意味で「狂う」ということの意味がよくわかるような状態でした)、思っていることをパソコンに書き出して、ちょうど今僕が書いたように、この感覚もすぐになくなってしまうだろうなと思いながら、シャワーに入り、トイレからでてきたら、すでに通常の状態にもどっていて、まったくいくらその感覚を思い起こそうと思っても、ただの感傷のようにしか思い出せなくなっていたのです。 さて、こういう状況が、ある個人によってポジティブであるのかネガティブであるのかということは、人によるだろうし、感じ方にもよるのでしょうからここでは議論をしないことにしまして、いかにして呼び起こしたのかということに話を移そうと思います。 それは僕の場合はやはりパートクドルグ義務なのでした。自己観察というのは、自己想起と違って意識して繰り返すことによってわりと自然に、かなり細かい瞬間にわたって自分の心理の流れを追って行けるようにはなれると思うのですが、そういう観察力を前提としていうと、意図的に他人との不快な状況を受け入れることをある程度の頻度で繰り返すことによって、他人との関係、また出来事が鏡のように働いて、普段の自己観察では見えていない自分の別の部分が、非常に強烈な印象とともに知覚されるようなことが起こってくるわけです。なぜそれが強烈な印象を伴っているかというと、もちろんそれが我々が一番とらわれている「現実的な問題」に直結していて、また他人との関係性のなかに刻まれているからで、それがなぜある程度の頻度を必要とするのかというと、ある程度の頻度でそういうことが起こせるなら、数日のうちに非常に強い印象で自分の隠された、また相矛盾する傾向を4つほど、徹底的に見つめさせられるようなことも起こりえるからです。4つというのは大げさですが、たったの2つでも、それが相矛盾する自分の傾向であって、それを完全に直視するようなことが可能になるのなら、そこに恐ろしいほどの感情の摩擦を起こす事が可能です。それはおそらく、それが見えている期間だけはバファーが働かなくなっているというこのなのかもしれません。しかし、さきほども書いたように、バファーの力というのは本当に強い物で、けっこう時間をおかずに(たいていは寝て起きると)そういった自己矛盾の認識は、現実感をもっては感じられなくなってしまうのです。 おかしな感傷も、主観的で習慣的な感情の働きもふくまないような、非常に大きい感情の摩擦を起こす必要性を感じている人にとっては、こういった行為は奇跡のようなすばらしい事に感じられると思います。というのも、我々の生は常に幸福の追求であるなかで、このパートクドルグ的行為は、生の中で忌み嫌われる存在「不幸」だとか「苦しみ」、「不快」などを栄養にして、何にも換える事のできない自分の貴重な宝にしてしまうことなのですから。 しかし、僕の周りの友人などで、苦しんでいる人を見た時、どうにかその状況を解決させてあげたいと思った時、彼らにはこういったパートクドルグ義務を行う事はまったくできないのだということを非常にはっきりと理解させられるのです。僕はどういう風にしてこういったことができるようになってしまったのか、自分ではまったくわからないのですが、こういった摩擦を受け入れることができるようになるには、少なくともある程度の自己と世界、宇宙の関係の実践的な理解、生の根源的な意味をおぼろげながら感じ取るような理性と訓練された自己観察の能力を持っていることは必要であるかなぁと思われます。ただ、これらを持っていたとしてもできないという場合もあるかもしれませんし、なんとも言い切ることはできないように思います。 さて、長くはなったのですが、次回にとか言うとまた結局書かないことになってしまうので今書いてしまいますが、こうした行為を繰り返すことで(まだ半年は経っていないと思いますが)だんだんに認識するようになったのは、結局自分がどうでもいいほどに下らない存在であるということでした。今まですべての優先順位の無条件の第一位としてすべてのエネルギーと注入して大切にしてきた「自分」というものが、実に(不思議なことですが)自分にとってちっとも大切なものではなかったということをたびたび思わされ、だんだんに本当に気付かされつつあるように感じているところです。まったく飾らずにここに書いてしまうと、今まで大切にしていた自分というのは、本当に心底堕落していて、甘やかされていて、何一つ自分から行為する力を持っていない非常に弱々しい存在のまわりに、おかしいぐらい頑丈な自尊心、虚栄心、自己正当化と、また自分こそ世界において非常に重要な存在でるはずだと言うわけのわからない思い込みを鎧のようにして取り囲んだような存在だったのでした。ごくごく最近そんな自己像をみることになってびっくりしたのと同時に、多いに笑ってしまったのでした(こういう自己像を見たときは、自己矛盾の中にいるときと違って痛みの感覚はまったくありませんでした)。どうしてこんな馬鹿げたことを長年信じていられたのだろう??といったわけですw。そんな無価値の固まりに巨大な要塞のように完全武装したような自分が(つまり存在していたのは要塞だけだったわけですw)、これもおかしなことに、長年にわたって自分だけじゃなく、他人をも完全にだまし続けてきたわけです。おそらく僕の知人の多くが僕の事を、非常に勤勉で、頭も良く、自分に厳しく、それでいて夢のある人間で、それに向かって努力するのをおしまないような人間に思っているように思いますが、それは本当に自分が生きて行く中で見つけて、自分で踊り続けていたダンスとでも言いますか、単なるこの社会に生きて行くためのポーズだったのでした。そして実際に僕はまったくそんな人間ではいのだと今ははっきりと言う事ができます。これも我々の現実の恐ろしいほどの「空想性」の一部だと思います。そんな風にして我々は完全に空想の中に生きていて、それに「現実」という名前を平気で与えられるようなのです。 こうして、自分の無価値さのようなものを普通の事実のようにしてみるような状況には同時に、いろいろな出来事をとおして起こっている事が完全にすべて自分の責任で起こっているのだということを認識させるような機能も含んでいるようでした。自分の責任というのはあまりいい言い方ではないかもしれません。起こっていることはどんなことも自分の傾向が引き寄せていることで、不快な事や難しい状況も、自分の弱さが引き寄せている限りは、自分のせいでしかあらゆることは起こっていないというふうに感じているわけです。 今、僕がこういうパートクドルグ的な行為をもっと多く起こして、自分に蓄積しなくてはならないと考えるのは、いままで守り続けて来た自分の弱さを外にさらすことでニュートラルな位置に戻してやることと、今の自分が完膚無きままに叩きのめされて、完全にどうでもいいと思ってしまえる状況になるのを待っているのだと思います。今になってようやく秘教的に言う「死ぬ覚悟ができる」(再生にいたるという意味です)というのが、どういうことなのか、それがどこにありそうなのかということがわかってきたように感じるからです。今すでに起こっている感情。自己という物はなんらかの存在ではなく、関係性の中での存在なのだということが、完全に理解できるときがくるとすれば、それがおそらく自分を手放せるときで、グルジェフ氏が言う言葉で言えば、永遠に向かって流れる川、現在我々がいる川とはまったく違う法則に従って流れている川に身を委ねるときなのだという気がするからです。 このコメントは管理人のみ閲覧できます
2008/05/17 00:43 | [ 編集 ]
お久しぶりですYさん。コメントありがとうございました。
あのブログ、Yさんのだったんですか!?それに気付かなかった自分を恥ずかしく思ってしまいます。コメントにLさんがいらしたのは気付いたのですが。。 すごく感じのいいブログですね。また是非遊びに行かせて頂きます。
2008/05/17 07:35 | はせいん [ 編集 ]
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