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ひさしぶりに更新します。
ここ2週間ほどの間。とりあえず気付いたことを実践しようと継続的に取り組むことができたと、まあ、ある程度は”自分の行った事にたいして”満足はしています。 しかし、そしてここまで来てわかった事は、自分には本当にいかなる意味での自己をコントロールする能力もないのだということでした。本当に継続して来た「行」がまったく意味をなしていなかったと覚るにいたったのですが、今回は全力を尽くして行うことができたために、自分の限界を知ることができたという意味で、新たな発見にいたったのだと思います。 というのも、自分である程度はコントロールしているつもりだった、また別の言い方をすれば、ある部分は意識を持ったままで行動をし続けられると思っていたところが(でも、実はそれも事実なのです。2週間にわたって自分の課した行に集中していられる、それを忘れないでいられるのは意識を継続できていたからにほかありませんから)、実は本当の自分自身はもっともっと自分の深いところに存在していて、それを意識できていない限りは、自分は「そいつ」のいいなりなのだということがわかってきた、とでも言いましょうか。 今「そいつ」といいましたが、これはもちろん自分の無意識の中にいる存在の事です。そしてそれは実に複数いて、別々のタイミングで別々の反応として現れて来ますから、「そいつら」と言ったほうがいいのかもしれません。ここで「そいつら」に「〜センター」とか「〜センター」とか名前をつけることも可能かもしれませんが、ここではあまり意味がなさそうなので省きます。その「そいつら」はいわゆる分析心理学でいう「潜在意識」に属しているものなのだと思いますが、実はわれわれはこの上に意識というものを築いていますので、これがコントロールできない限りは、「自分のコントロール」など不可能なのだということが、あからさまにわかってしまったのでした。 てなわけで、コントロールができないがために、わかってはいるにもかかわらず、自分に害のあるようなことを繰り返し行ってしまうのがさけられないのです。 いやー、これは実にいいことに気付きました。これに気付いた事によって、ある意味では「自己コントロール」は不可能だ、ということが明らかになったわけです。まあ、少なくとも通常の状態では不可能であるということは完全に明らかですね。潜在意識がある限りはそれをコントロールできないわけですし、常識的に考えて潜在意識をすべて通常の意識下にもってくることはできませんから。 ではどうしましょうか。という話になるわけですが・・、本当にどうしましょうかww。 そこで思った事。まあ、意識をただ強化しても自分をコントロールするところまでは至れないのだということが明らかになったわけですが、それでもなお実践可能なことはいろいろとあるのです。 例えば、ある程度の自己観察の繰り返しと、それによる「理解」を蓄積するとですね、少なくとも自分の意識下にあるものは、自分の意思が続いている間に限ってはコントロールできるわけです。それによって自分の生をオーガナイズすることができます。 こういう状況を観察してみて思ったのは、自分が外界から摂取するものをオーガナイズすることが大切だという事でした。 まずはそのうちの「印象」です。これは「3種類の食物」の概念をよく理解して欲しいのですが(「奇跡を求めて」とかこのブログの過去の記事で参照できます)、その内の「印象」も自分で何を摂取するかを選択する事がある程度はできます。つまりは、とりあえず変な物を見なければいいんですよねw。 例えばこの世の中にはおかしなものがあふれていると思います。 これはほんの例ですが、先週フランクフルトに行っていましてですね、そこで日本人の知人の家にお邪魔したのですが、そこで子供たちが日本のドラマを見ていたんですね。まあ、そのドラマを僕もなんとなく見ていたのですが、これがとてつもなくくだらないんですよw。うーん。人物の観察力がゼロだし、根底にある「善」の意識が貧弱すぎるし、まあとにかく全国民的な暇つぶしです。僕はそんなドラマにまったく自己同一化せず、みるともなく見ていました。そして、何がどう「眠っているのか」をしっかり観察していましたし、なぜこういうものを日本の国民がこぞって喜ぶのかなど、いろいろ考えつつ見ていました。しかし・・。にもかかわらずです。それほど冷静に、自己同一化することもなく見ていたにもかかわらず、その後で自分を観察すると自分の中にいろいろな空想がよぎるようになっているではないですか!正直驚きました。こういったドラマにこれほど強く、人を白昼夢に浸らせる「力」があるということに!! もちろんそういった空想は人間の弱さの最も代表的な例で、これは驚くほど大量のエネルギーを「思考センター」から奪っていきますので、こういった「ドラマ」って本当にものすごい害を人間にもたらす大発明品なんですねw。うーん恐るべしです^^; ちょっと話がそれてしまいましたが、そんなふうに世の中にはまったく「真の意味で」人間の害になるようなものがたくさんあふれていますが、そういうものを印象として自分の中に入れないということも、実に役立つ筈なんです。 それは通常の食事も同じで、本当に意思をもって食事を選択していくならそれがどれほど動作・本能センターの助けになるかわかりません。 そんなわけで、自分をコントロールするという目標はずっと先の目標である(これは要するに個体性を持つようにならなくては不可能だということだと思います)ということがわかったところで、自分に積み重ねて行く努力として、これらのことができる筈であるという話でした。 ただし、気をつけてください。摂取するものをコントロールするということは、実はこれもかなりアドヴァンスです(前回書いたようにパートクドルグ義務もかなりアドヴァンスなのですが)。というのも、例えばこのドラマの話でいいますと、これが害だからといって大のドラマ好きの人がいきなり今日からドラマという印象を摂取するのを完全に絶って、そのかわりにシュメールの石盤からギルガメッシュの叙事詩ばかりを読みますなんてことはできないじゃないですかww。そんなこと無理にしようものなら、ストレスで人間としてのバランスすら失ってしまうでしょう。習慣的に空想に浸ることを楽しみに生きて来た人は(それはほぼすべての人間のことですが)その楽しみに依存しているので、それをいきなりなくしてしまったらものすごいストレスを感じるし、それなしでは本当に息抜きもできない、テンションでめちゃくちゃになってしまう筈なんです。 それは食事についても同じでしょう。体に害のあるものをなぜそれほど摂取するのかと言えば、それがその人の精神に見合ったものだからで、その精神を持ち続けている限りはそういう身体に害を及ぼす食事をまったくとらないでいると、精神が満足することができずに、それによって健康を害してしまいます。 これは実にどんなワークに関することでも同じです。いきなり自分の習慣を無理矢理買えようとしても、それは単純にストレスを生んで、自分は墜落するだけです。ではその為に何をしなくてはならないか、それが結局「理解を得る」ということで、またいつもの繰り返しになりますが、その僕の言う意味での「理解」とは自己観察の結果の蓄積と、意識を持って何かをしたことの経験の蓄積でしか得る事はできないのです。 ちょっとだけ書くつもりがずいぶん長くなってしまいました・・。次回は、最近特に考えていた、自分の自動的に浮かび上がることしかできない「想念」のコントロールの不可能性、そしてそれがどれほど自分にとって害であるかということについて書いてみようかと思います。 はせいんさん、こんにちは^^
例えば、食事だったらいきなりヴェジタリアンになる。。。 とかではなく、 まずは理解を深めて精神性を高めていけば、 自然とそれに見合った食事がしたくなる。。。 こんな感じなのですね。。。 そして。。。 無意識のコントロールって、とても難しそうですね。。。 私は夢見術にとても興味があるのですが、つい 先日、それが出来るようになるには、無意識に 対する注意力が必要です。。。と、あるお方に 教えていただいて、それは、一体どうやったら 出来るのだろうと、あれこれ考えていたところでした。。。 今回のはせいんさんのお話は、とても参考になりました。 ありがとうございます! そういうことですね。まったくその通りで、グルジェフはだから自分の「理解」できないことは一切してはいけないとすら言っています。
ただし、この理解を得るのはいつも書いているように、実践と自己観察の結果の蓄積によってのみ可能ですから、まずはこの実践や自己観察が必要であるということだけは理解する前に、信じてやっていかなくては話にならないんですよね。 しかし、グルジェフの世界では、こういう「理解」を積み重ねて行く事を修行のプロセスなので、師のことをとりあえず盲目に信じなくては行けない時期というのは非常に短いんです。それはうまくいけば、3ヶ月とかで済んでしまうし、その期間は短ければ短いほどいいとされています。 そこから後は、自分の「理解」をもとにして実践を繰り返していけるわけですからもう何も信じる必要はなくなって、わかっていることだけを行って、さらなる理解を得て行く訳です。 あ、無意識についてはグルジェフの行の中ではコントロールすることを目指してはいないんです。無意識をなくすことを目指しているので、もしもそこまで到達できれば、もちろんすべては意識の中でコントロールしていることになってくるわけなんです。 trackback
心理学の考察
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