2008/01/29 (Tue) 存在と死(二元論)
前回に書いたように、ここのところ社会にアクセスすることをテーマにしていまして、なんだかんだといろいろな方向にアクセスを試みてみました。そんな中で得たいろいろな情報から今まで見えていなかった視点を見つけることができ、自分の状態を見つめ、そして思ったのは死ぬ事が怖いということでした。それは結局何のために生きているのかが本当にわかっていないということと同じ意味をもっています。
まったくそれがわからないまま、ただ死んで行く。
我々が普段享受しているような喜びや楽しみに、別の言い方をすれば、我々が普段「執着」しているような喜びや楽しみにはまったく絶対的な価値などありようがないことは簡単に見て取ることができます。自分たちの喜びは自己顕示欲の満足や、虚栄心の満足にほとんどすべてが依っているように思われます。お金があって、人にうらやましいと思われ、他人に尊重され、異性にモテていれば人は間違いなく「幸せ」を感じるでしょう。おそらくは自分を見失うほどに幸せを感じる。それは僕も全く例外ではありません。そしてこれらは単純に自己顕示欲と虚栄心の満足による幸福感なわけです。
そういった幸福感を満たしてただ生きて、そして死んで行く。それが我々現代人の目指していることで、そんなことを目指して生きている我々は実に気が狂っていると言えないだろうか?
このままの状態で、自分が死んで行く。その死が非常に怖い、とそういう感覚が最近ちょこちょこと起こったのでした。そこにには何も残らず、自分の意志というものが存在していないということがはっきりとわかっている今、それならば、自分というものも元々存在していないという感覚にすらなります。自分が存在しないのだとすれば、今まで大事にしてきた、また今大事に思っている、つまり執着して手放す事のできない感情のすべてが意味をなさない。それはすべて自己に依っているものだからだです。自己という空想、実際には存在していない「自己」というイメージによっているのわけです。
だから今までもずっとグルジェフのワークを通してほんとうの自己を得たいと願って来ました。しかし、そう簡単に言ってしまえないのがこのワークでした。自分はほんとうの自己の獲得を目指している、と言ってみても。そう言っている本人が偽物の自己であって、その偽物の本人自身は自分の存在をまったく疑っていない。その存在しない自己によって、いくらほんとうの自己を得たいと願ったところで何も起こらないということは、今までそういう願いを持ち続けていたからよくわかるのです。
そうしてもう一度ここに戻ってくることになります。「自分はどこにも存在していないのだ」という事実。そしていかにして「存在」するのかというのが、もっとも大きな問題として浮かび上がってきます。それは「死」を考えるうえで、また死に向かっていくために、どうしても解決しなくてはならない問題。そしてそれこそが「生」の問題だったのです。

こういった認識そのものが、このことを感じている瞬間にしか意味を持つ事ができません。こうして自己は入れ替わり続けているわけですね。もしもこのような死を実感するような状態が、継続的に持続するなら、もう少し違う存在になれるのかもしれませんね。

2008/01/13 (Sun) この理解をもっていかに世界にアクセスするか
また非常に長い事更新をしませんでした。
今の心境というものを正直に申し上げますと、僕がグルジェフの研究を通して探そうと思っていたものはだいたいは探し終えたのではないか、というところです。もちろんそれは高次の存在を得るというような大それたことではないのですが。
今現在、興味があるのは、自分がこうしてグルジェフの研究を通して見つけて来た、また肉化してきた認識を、いかに現実の世界に提示できるのかということ。それは音楽家としてのスキルと芸術家としての意思とを総合して、何か別の枠組みで、別の方法論で自分が何かを現実的に提示していくことなんですね。
そういうわけで、僕の研究の対象が、今までは常に自己に深く入り込み何かを見つけることだったところが、今は、それを材料にして、いかに外の世界に、社会にアクセスできるのか、しかも、まったく今まではなかった方法でいかにしてアクセスできるのかということに変わって来たわけなんです。
そういう研究はもちろん他人との共通言語、共通理解を探す過程にもなりますので、結果として、一旦はグルジェフの研究をを離れざるを得ないところに来てしまったわけです。

といいましても、グルジェフの研究から離れるということは、ワークから離れるという意味ではありません。というのも、この「世界に働きかける」という行為そのものが、僕にとってワークのさらにアドヴァンスな取り組み方であり、それはワークの最終目的である、単一の自己を手にすることへの新たな一歩であるからです。まあ言い換えるなら、ここからは理論的に、また言葉の上でグルジェフを研究することよりも、今までで自分に肉化してきた認識と理解をもって、現実社会でより大きくこの「力」を使用できる場所を、またその方法を探すことが重要であると、そういう状況になってきたということなんだと思います。

それがここのところ更新をしていなかっただいたいの理由です。
まあ、とは言っても、これからもいままでと同じようなペースではありますが、少しずつこのブログも更新していこうと思っています。どういうことにしても、僕にとってグルジェフの理論は世界を理解するうえでの根本を為すものですし、今、まったく違う事をやっているからこそ、たまにそこに立ち返っていくことも重要だと考えるからです。


こうして僕が向かって来た方向は、グルジェフィアンである表現者、芸術家たち。ピーター・ブルックやグロトフスキーのような人たちが取り組み、実現して来たことと近いことなのだと思います。僕になぜそんなことを実現させたいという意思があるのかということは非常に大きな謎なのですが、それが何と言うか芸術家の宿命なのかもしれません。避けられない何かなんですよね、多分。
自分の中に蓄積した物は、なぜか社会的に実現させなくてはならないと考えてしまうという、そういう避ける事のできない意思。自分を卑下して言うと、オブセッションみたいなものなのでしょうか。
2007/12/04 (Tue) 矛盾する2つの理論の間
もうずいぶん長いこと経ってしまいましたが、いままでもやっていました「グルジェフ弟子たちに語る」からの講義について書いていこうと思います。基本的なことに関して語られているところは、今までこのブログで書いて来たことと、またその他の本とも重複してしまうことが多いので、こないだの講義から少しとばしまして、第2章の4つ目の講義について書こうと思います。これはパリで1922年の8月にされた講義で、この本では「片寄った発達」と題されています。

「ここに集まっている、あなた方各人の内面の機械のうち、一つだけが、他の機械よりも発達している。3つの機械の全部が発達している人だけを、完全な「人間」と呼ぶことができる。一方に片寄った発達は有害でしかない」

ここでグルジェフが言う、3つの機械とはもちろん、思考センター、感情センター、本能・動作センターのことです。どんな人間もこれらのセンターのどれかが発達しやすい傾向をもって生まれてくるのですが、意図的な努力なしではこれらの偏向を変えることは不可能であるために、通常、人は皆この生まれもった傾向、タイプのまま世界を見、そのまま一生を終えていきます。
そこでグルジェフが上で語っていることをもう一度考えてみるとわかるのですが、ここでグルジェフ氏が言っているのは、すべての人間がまったく有害な状況のまま生きていて、解決策も知らず、またそれを解決する必要性も理解していないまま一生を終えている、ということも同時に意味しているわけです。

この講義の内容をある程度、自分の身になるほどに理解するためには、これら3つのセンターの機能を自己観察によって、自分の生活、行動、また習慣の傾向と合わせて自己の中にはっきりと認識することが不可欠ですので、今、ここで扱っている内容もかなりアドヴァンスになってしまうかと思います。とはいえ、自己観察の第一段階をすでにクリアーされて来た方々にはこの講義はすごく参考になるように思います。

ここでグルジェフはそれらの例を挙げていますが、興味深い事に、ここで彼ははっきりと、思考センターのことを「人格」、感情センターのことを「本質」、本能・動作センターのことを「肉体」と言っているんです。実はこの「基本的な三つのセンター」の理論と、「人格と本質」の理論を一つにして考え、文字通りに受け入れようとすると、いろいろなところに矛盾がでてきてしまうのです。しかし、実にグルジェフのワークの場合、こういった矛盾の中にこそ、言葉にすることのできない真実が含まれているので(真実はどんな場合にも言葉にすることはできないわけですから)、この二つの矛盾する事実を受け入れた上で、それを実践的なワークによって解決していくことで本当にグルジェフが意図していたことをつかむ事ができるように、実は意図的に作られているんですね。
実にこのことについては、僕自身がこれまでのワークによって理解して来たことをここに解説する事は無理だと思いますし、無意味であると言えると思います。というのも、この矛盾をこのままにしてあるのは、この矛盾を埋めることができるのは個人的な自己観察とワーク、体験によって知るに至る”何か”でしかないからです。こういう何かをグルジェフ氏は「肉化させること」と呼んでいるのですが、まさにその言葉の通り、何らかの「理解」が自分自身の「肉」であるかのように、現実で可視のものとして常にそこに存在している状態であることなのです。つまり通常の「理解」のように、自分の気分次第で消えてしまい、機能しなくなるような理解では不十分なわけですね。そしてこの類いの理解を通さなくては認識できない事実というのは、通常の論理でものを話した場合には、絶対に他人と共通の認識を得る事はできないのです(だからこそ、それらは秘密のまま保持されざるを得ないわけですし、ここでそういうことについて書く事も無意味になるわけです)。

ただ、ここで終わりにしてしまうのはあまりにも何なので(w)僕なりに大枠だけを書くことにしますと、「人格」と呼ばれるものの中枢部は「思考センター」に存在していて、「本質」の中枢部は「感情センター」に存在していると言ってしまってもかまわないのかと思います。そして各「基本的3センター」はそれぞれがまた「思考」「感情」「本能」の3センターに分離していて、それぞれの機能を持っているということを、グルジェフがほんの少しだけもらしているところにもヒントが隠されていると思います。センターの機能というのは一見するよりもかなり複雑な機能をもっていると思ってもいいと思うのですが、それらの複雑な機能が現実の生活のなかのどういう部分に現れているのかを少しずつ発見して行く事で、その複雑さの中にもそれそれに傾向のようなものがあることがわかると思います。そういった観察の中から、この「基本的な3つのセンター」と「人格と本質」も互いに浸透し合っているということが矛盾なく見えてくるように思います。しかしそれをどういう風に見るのかは、今回書いたように完全に個人的なワークに依っていて、そういったワークなしに他人が伝えられるものでもなければ、他人から教えてもらえるものでもないことなのです。

この先も、この講義でグルジェフはいろいろと興味深いことを語っています。
それはまた次回からにしたいと思います。
2007/11/09 (Fri) 断片
先月、ツアー中に記事を書いていたのですが、グルジェフの講義以外のことをこのブログに書くのを避けたかったために、結局上げなかった記事がありました。たまたまこれをちょっと読んでみたら、ちょうど前回上げた記事の内容を少しくわしく解説している部分もありますし、感情センターについて書いたことに関しては、これから書こうと思っていたグルジェフの次の講義の内容につながる部分もあるので、ここでアップすることにしました。記事は断片のようになったままですが、参考程度にお読みください。








ここのところ、ツアーなどが続きまして、ブログの更新も大分ながいことできない状態が続きました。いままでも何度か書きましたが、むしろこういう時にこそ、実は研究そのものはすごくよく進むのです。というのも、ツアーなどでは予測のつかないことが多く起こりますし、いろいろな人たちに会い、そういう人たちと一定期間一緒にいることを通して、日常生活では期待できないようないろいろな種類の刺激があるからなんですね。そういう予測のつかない刺激があったときに自分に起こる感情などを観察できると、まったく予想持つかない視点からの観察ができることがありますし、他人の観察もまったく違う環境で、また全く違う環境で生きて来た人たちを見る事ができるわけですから、取り込む事のできる印象の量が大分違うわけです。そして移動中には自分の読みたい物をじっくりしっかり読む事もできるわけですから、研究の環境としてはとてもいい環境なわけです。






今、改めて、人間の感情のエネルギーというのはなんなのかということを考えています。普段おそらくは多くの人が意識していないこの感情のエネルギーなのですが、これは実はどの人間にも存在していて、行動の中心的な力になっているはずだと思っているのです。
普段自己を意識している状態というのは、これは必ず自分の思考をもって意識しているわけで、実はそれがゆえに我々が自分の感情の状態に気付いている状況というのは、通常、実にまれにしか起こっていないというのが現状だと思います。にも関わらず、感情センターというのは常に作動していて、しかも我々の生活の多くのことを決定しています(それに気付く事ができないというところに、我々の自動性の根があるのだと考えることができるんですね)。ここで言う「感情的エネルギー」というのは私たちが普段「感情的」という言葉をもって表していることとはまったく別のことです。「感情的である」というのはネガティブな言葉ですが、事実この言葉が表しているのは、グルジェフの世界で使う「否定的感情」のことです。しかし、興味深い事に、我々は「感情」ということついて、驚くほどに、この「感情的」と言われているもの、つまり「否定的感情」以外の部分を知らないわけですね。だから我々の通常の語彙の中にこれを表す言葉は当然ないわけです。
そんな「感情的エネルギー」について僕が考え始めたのは他人の観察の中で実は人が「考えていること」ではなく、実際に行動していることというのは、実にこの感情的エネルギーに突き動かされるようにしてい行動をしているのだということを感じ始めたからなんです。そうして自分の中にもこのエネルギーがあるからこそ、なんらかの行動を起こしているのだということが観察されてきたわけです。逆に言えば、このエネルギーがないことにはなんらかの仕事を片付けるのは不可能であると言えると思います。そんな感情エネルギーを感じるようになってから、ある意味では自分の行動についても自分の意志に「近い」ことを実際に行動に移せることが増えているように感じていますが、それ以上に、他人の感情センターのエネルギーに敏感になったために、予想もつかないところで、変に感動させられるようなことも起こりました。実に僕はそういうエネルギーが自分に向けられた場合、それをさけようとする傾向があることすら発見しました。それは実にポジティブなエネルギーでそれを共有するならは、他人との関係のなかで明らかに錬金術が起こせるはずなのにもかかわらずです。それは何か強すぎる力に対する、自動的な恐怖のようなものだと思うんですね。





人が理解できる事、受け入れる事が可能な事柄というのは、絶対に現在の自分の範囲内のものでしかありません。その原則は絶対に動きませんので、ここで簡単にこう言ってしまう事ができるわけです。そして、ここにもう一つ別の原則があります。自分の目指している、より高い意識の状態、存在の状態、またそれによって認識するべき世界というのは、必ず、自分にとって理解不能なことで、受け入れる事が非常に困難であり、かけらでもそれを受け入れるためには、今までの自分の世界観、価値観、などを破壊されることを覚悟しなければならない。この2つの原則から言えてしまうのは、自分が安定した気持ちでいる限り、楽なところでふんぞり返っている限り自分の目指している方向には絶対に進めない。まったく盲目な認識の世界に留まっている以外にないということです。
そしてここで再びでてくるのが、パートクドルグ義務ですね。意図的に苦悩することです。
ワークを今まで続けて来たなか、ある時点から、僕の人生は非常に軽く、ある意味では苦しみといえるようなものから、自分を離しておく事ができるようになってしまったんですね。それは単純に僕にとって物質的な楽しみよりも精神的な楽しみの方が強くなったために、多くのことに執着しなくなったこともあったと思いますが、苦しい事に自己同一化をしないということが少しできるようになっていたからかと思っていました。その頃思っていたことは、以前のようには苦しまなくなってしまったおかげで、ワークに対する熱意みたいなものを少なくなってしまったなぁということだったんですね。なんとなく人生が楽しいために、ちょっとぬるま湯につかってしまっているような感じ。楽しいからまあいいかというような感覚があったんです。
しかし、ここにきてだんだんにわかって来たことは、そういう状況にあって、自分は実は苦しみから、また自分が泥をかぶるような状況からいつも身をかわしていきたのだということ。そして、実はそうやって身をかわさないなら、いくらでも心が不安定になるような状況も呼び出す事ができることなんです。そして受け入れにくいような状況、事柄を意図的に受け入れるということはいつでもできるわけで、実はそれをするということが、自動的には苦しまなくなった自分が「意図的に」苦しむこと。だったわけですね。つまりはパートクドルグ義務ができる土台が整っていただけの話で、パートクドルグ義務自体はまさに「意図的に」することなわけですから、いつでもすることが可能だったわけです。嫌だなぁと思う状況、感じの悪い振動を送ってくる人、集団、場所などそういったところをさけずに、また自分が安全圏に逃げ込んでしまうようなことをしなければ、必要な苦痛と、感情的にかき立てられた状態というのは作ることが可能なわけです。
2007/10/29 (Mon) 近況
ここのところ自分の存在というのもがぐらぐらと揺らされるような感覚を持つ事が多くなりました。
これはどうもネガティブに響きますが、実はあまりネガティブなことではない。いや、むしろ今までいろいろと用意をしてきたことは、こういう状態をたびたび引き起こす事ができるようになるためだと言ってしまうことすらできるので、これは実にポジティブなことだと言えるのです。
つまりは意図的に苦悩をするというパートクドルグ義務のことなのですが、自分が今までなんだかんだと、人の上に立って、いかに自分を殻の中に隠したまま楽な思いをして来たのかということに、ここのところ気付かされる機会がありがたいことにいくつかあったのです。ここ1年そこそこの間、どうも自分には苦しみというものがなくなって来たと思っていたのですが、それは実に心の深いところでは、自分を安全な場所において、自分をしっかりガードしていたからこそ、そういう安心が得られていたのだということが見え隠れしていたのですね。そうしたときに、自分がそんなふうにして自分を守っているその状態こそが、自分自身を非常に小さい存在にとどめているのだということが少し見えたわけです。
まあ、これがここ数ヶ月のテーマにありまして、ここに来てようやくといいますか、自己という存在をぐらぐらと揺らされる、または自分の考えていること、感じている事が本当なのかということがよくわからなくなるような状態になることができました。
これにはなんとも言えない苦しみといえるような感情が伴いますが、意図的にこれを引き起こしてきたわけだし、それを消化するような感じで、自分の中に体験しようとすることが、また、それによって気分を害されたりしないこと(そのように努力すること)が、まさしくパートクドルグ義務の遂行になっているような気がしております。


ちょっとした挨拶のつもりがえらく長くなってしまいましたね。
相も変わらず、このブログを前から読んで頂いているような方にしかわからないようなことを書いてしまいます。前回の記事もあの時には一生懸命書いたつもりでしたが、時を置いてから冷静に見ると、以前の前提なしには完全にわけのわからない記事ですよね。。
そんなんでも皆さん少しずつ「拍手」などしてくださっているようですので、きっと以前の記事から読んでくださっているような方が、結構いらっしゃるということなんでしょうね。感謝の気持ちでいっぱいです。


そういった事とは別に、この2ヶ月ほどの間やっていたことは、自分の習慣と戦うということでした。この行為を通して、さっき話したようなことにも気付けたわけで、これは予想以上に素晴らしいワークになりました。習慣との戦いについては、いままでもその重要性についていろいろと書いたように思いますが、今回は少し落ち着いて自分の問題の核心を見つめようと努力して、自分の生活の中でもっとも自分を害していると思われる2つの習慣を抜き出しまして、それをなくしてしまう事を自分の神としてやってみたのです。
おかしなことにちゃんと日付も覚えているのですが、8月15日から初めまして、実は3ヶ月という目標を定めておりました。というのも、これは本当になんとなくなのですが、人間の細胞とかって3ヶ月でだいたいは入れ替わるっていうじゃないですか。それなら習慣を変えるという時に、3ヶ月間変えてしまったら相当自分の身になるんじゃないかって、そんな単純な発想だったんです。とはいえですね。この3ヶ月という期間設定はまんざらでもありませんでした。今はだいたい2ヶ月半たったということになるわけですが、ここに来て本当にそれが定着して来たというような感覚を持ち始めたからです。

以前にも少し書きましたが、決めた事をやり続けるという形でワークを行うと、自然にそれがオクターブの法則に逆らう形にもなるので、実に素晴らしいと思うのです。自分が思ったように何かをやってしまうと、その自分の思っていることそのものがオクターブの法則にしたがって動いているので、どうしても前に進めない、というかセオリー通りならどうしても元の位置に戻る結果になってしまうわけですから。


そんわけで、そんなオクターブの法則に逆らうことができる法則を持ったワークのおかげで、だいぶ感情センターを刺激しやすいような状況ができてきたので、そろそろ次に戦うベキ習慣についてまた深い瞑想に入る頃かなぁなんて思っております。

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はせいん

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このブログはある程度グルジェフを知っている方を対象に書かれています。解りづらいことがある場合は、このプログの初期の記事を読むか、ウスペンキーの「奇跡を求めて」など、一般的なグルジェフの入門書から読まれることをお勧めします。

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